1月26日(木) §4
「綾、なんてことを言うの…。確かにそうかもしれないけど…。それでも、もうすてに棒師律大の推薦入試に受かっているでしょう? それなのになんてことを言うの…」
「綾さん、もし今言ったことが本心だとしたら、あなたは大学へ行くことを止めた方がいいかもしれません。あなたは大学へ行く以前に、もっと学ばないといけないことがあるようです。残念ながら、届を取り下げることはできないようですね…」
紫がそう言うと、娘はこらえきれず、机にうつぶせになって泣き出した。母親の顔はさらに青ざめ、すっかり血の気が失われていた。紫は目の前の二人の自分でこらしめたかっただけで、娘を書類送検してほしいなんて少しも考えていなかった。
もちろん、目の前の二人に八つ当たりしたところで、武下定秋が戻ってくる訳でもないし、水戸あおいに天罰が下る訳でもない。
「あの…、新しく買われた自転車の代金とか…、自転車を盗まれたことでかかった交通費とかを…、迷惑料込みで負担させて頂けませんか…」
母親はそう言うと、急にバックから五万円を出して、紫につかませようとした。ここに来て、お金で黙らせようと言うなりふり構わぬ作戦に出て来た。まあ、娘を泣かせてやったし、母親は今にも気を失いそうだ。これ以上、二人を追いつめたら、さっき警官が言っていたように、逆に紫の立場が悪くなるだろう。この辺が落とし所だと感じた。
「わかりました。そちらがそこまでおっしゃるなら、届を取り下げましょう。それとあの自転車はそちらで引き取ってもらえませんか? さっきも言ったようにもうすでに新しい自転車を買いましたから…。自転車二台あっても、置き場所がないので…」
「そうですか…。それなら、自転車はこちらで引き取りましょう。それではこれをお受け取りください。裸銭で申し訳ありませんけど…」
ようやくホッとしたのか、少し顔に赤みが戻った母親が紫に五万円を渡した。紫はうやうやしく受け取り、すぐにそれを財布にしまう。娘はよほどショックが大きかったのか、まだ机の上ですすり上げている。ここがスタバであることを忘れたかのように、幼い子どものようにただ泣いている。
母親と紫はすでに冷めた飲み物をチビチビと飲みながら、娘が落ち着くのを待った。数えるほどしか言葉を交わしていないのに、とても疲れた。その後のあまりにも長い沈黙の時間。子どもはいいよな…。泣けば大人が助けてくれると勘違いしていられるから…。ようやく、娘が泣き止んだのを確認して、紫はその場を後にする。
「それでは私は交番に寄って、届を取り下げてきますので、お先に失礼します。あ、あと、自転車をそちらで引き取ってくださいね」
と、二人を安心させる言葉を残して…。その言葉の通り、紫は交番に行って、被害届を取り下げる旨を松島巡査に伝えた。
「わかりました。後はこちらで処理しますので…」
松島はそう言って、早速手続きを始めた。それを見届けて、紫は電車に乗って、一駅先の最寄り駅である西仙石駅へと向かう。それから駅に止めてある青い自転車で家に向かってこいで行く。いつもよりも心も体も懐も暖かかった。これはもしかして、おはらい効果ではないだろうか…。紫は思わず大芝課長に感謝するのであった。




