第2話 第十二条により同居します
同居します。
先ほどから、その言葉が頭の中で何度も繰り返されていた。
私は片手で頭のてっぺんを押さえながら、戸口に立つ監視官を見上げた。手のひらの下では、咲いたばかりの花が髪をくすぐっている。今すぐ鏡を見たいところだけれど、それより先に解決しなければならない問題ができてしまった。
「確認させてください。先ほどの同居というのは、監視官であるあなたと、解呪屋を営んでいる私が、同じ家で暮らすという意味でしょうか」
「そのとおりです。魔女登録法第十二条に基づく措置ですので、あなたの承諾を得る必要はありません」
セオドア・グレイ監視官は、まるで明日の天気でも伝えるような口調で答えた。
冗談ではない。
私は二十四年間生きてきて、一度だって男の人と暮らしたことがない。ましてや、今日初めて会った相手だ。顔がいいという理由だけで同居できるほど、私はお人好しではなかった。
……顔のことは関係ないけれど。
「申し訳ありませんが、お断りします。私にも生活がありますし、ここは仕事場でもあります。監視が必要なら、毎朝こちらから局へ出向きますので」
「それでは第十二条の要件を満たしません。呪いを帯びた登録魔女は、担当監視官との同居が義務づけられています。拒否された場合は、局の留置場に収容することになります」
彼は書類を一枚めくり、該当する条文を指し示した。
その手には、まだ大聖堂で見た革の手袋がはめられている。紙の端を押さえる長い指が、必要な箇所でぴたりと止まった。
声も手つきも落ち着いていて、こちらがどれだけ困っているかなど、まるで伝わっていないようだった。
留置場で木になるのと、自宅で知らない男と暮らすのと、どちらがましか。
そんな二択を迫られる人生になるとは思わなかった。
私はひとまず彼を店内へ通し、カウンターの裏にしまっていた魔女登録法の写しを引っぱり出した。
開業するときに役所から買わされた分厚い冊子だ。いつか役に立つだろうと保管していたけれど、まさか自分の家を守るために読むことになるとは。
第十二条。
呪いを帯びた魔女は、担当監視官と同居するものとする。
拒否した場合、局の留置場に収容する。
何度読んでも、そう書いてある。
私は頁の端まで指でたどり、注釈や例外規定がないか探した。
「監視官、この法律には例外がないんですか? 例えば、仕事場を兼ねている家については別の取り扱いにするとか、住居が狭い場合は通いの監視を認めるとか」
「第十二条の二に、監視官は被監視者の寝室に立ち入ってはならないという規定があります。私生活への配慮は、そちらで定められています」
彼はそこまで説明してから、私が開いている頁へ視線を落とした。
銀縁の眼鏡の奥で灰色の目がゆっくりと動く。私が条文を読み間違えていないか確かめているようで、妙に落ち着かない。
「……それだけですか」
「はい。ほかに該当する例外規定はありません」
私は本を閉じた。
呪いの結び目なら六年間いくらでもほどいてきたのに、法律の結び目はまったく解ける気がしない。
しかも、この人は少しも譲るつもりがないらしい。
仕方がないので、別の作戦に切り替えることにした。
「それなら、お部屋について先にお伝えしておきます。二階は私の住居なので、空いているのは物置だけです。薬草の匂いが染みついていますし、窓も小さいですし、大人の男性が寝台を置くには狭すぎますよ」
なるべく気の毒そうに言ってみた。
普通なら、少しくらい考え直すはずだ。こんな狭い店より、局の宿舎に泊まったほうがよほど快適に決まっている。
けれど彼は、足元の荷物を一つ持ち上げただけだった。
「十分です。寝具は支給を申請していますので、当面は持参したもので対応します」
「……お荷物は、その三箱だけですか?」
「着替えは二つ目の箱にあります。残りは必要書類と業務用品です」
三箱のうち、二箱以上が仕事関係らしい。
この人、書類と一緒に暮らしているのではないだろうか。
私は改めて、床に並べられた箱を眺めた。三つとも同じ大きさで、縄の結び目まで揃っている。いかにもこの監視官らしい荷物だった。
彼が階段へ向かおうとしたところで、私は慌てて先に立った。
「待ってください。二階は狭いので、案内します。勝手に私の部屋を開けたりしないでくださいね」
「承知しました。第十二条の二は遵守します」
近づいてきた彼を通すため、私は階段の手前で身を引いた。
狭い通路ですれ違うと、濃紺の制服の肩がすぐ目の前を通る。彼は箱を抱え直し、私に触れないようわずかに体を傾けた。
ただそれだけの動作なのに、思ったよりも背が高いことに気づいてしまう。
昼間は膝をついた姿勢だったから、顔のことばかり気にしていた。こうして並ぶと、肩の位置も、腕の長さも、私とはずいぶん違う。
すれ違ったあと、かすかにインクと石鹸の匂いが残った。
……だから、観察してどうするのよ。
私は急いで彼のあとを追おうとした。
そのとき、カウンターからしゃがれた声が飛んできた。
「おい、小娘。さっきから何を騒いどる。そこの眼鏡は何者じゃ」
ゴラだった。
素焼きの鉢から二枚の葉を大きく広げ、見慣れない男を睨みつけている。
監視官は足を止めると、抱えていた箱を床に置いた。そして、カウンターの上の鉢に向かって、きちんと頭を下げた。
「魔女監視局のセオドア・グレイです。アルノー殿の担当監視官として、本日よりこちらに住まわせていただきます。鉢植え殿、よろしくお願いいたします」
私は呆気に取られた。
鉢植えに向かって、これほど丁寧に自己紹介をする人間を初めて見た。
ゴラも同じだったらしい。さっきまで威勢よく動いていた葉が、中途半端な角度で止まっている。
「……お、おう。わしの葉に勝手に触るでないぞ、眼鏡」
「承知しました。記録します」
彼は本当に手帳を取り出し、何かを書きつけた。
ゴラの葉が、困ったように一枚だけ揺れる。
私はこの人と暮らして、本当に大丈夫なのだろうか。
◇
その晩、監視官は二階の物置に落ち着いた。
物置といっても、私の寝室の隣にある小さな部屋だ。薬草を干すための棚と、古い書類箱が置いてあって、床に敷物を広げれば、どうにか一人で眠れるくらいの広さはある。
彼は不満を言うどころか、荷物を運び終えると、さっそく書類を並べ始めた。
部屋の扉が開いているあいだに覗いてみると、二つの箱を机代わりに重ね、その上に手帳とインク瓶を置いている。床に転がっていた薬草の束まで、いつの間にか壁際に揃えられていた。
……物置が、昨日より片づいている。
私はなんとなく落ち着かなくなり、自分の寝室へ戻った。
鏡の前で帽子を脱ぐと、頭のてっぺんに小さな薄紅色の花が咲いていた。
大聖堂で咲いた花よりも小ぶりで、五枚の花びらが星の形に開いている。
そっと摘み取って手のひらに載せると、花はしばらくして萎れ始めた。柔らかな花びらが指の上で丸まり、最後には見る影もなくなってしまう。
「……ほら、やっぱり徒花じゃない」
私は小さく呟いた。
昼間の監視官が二度目に現れたせいで、少し驚いただけだ。胸の蕾だって増えていないはずだし、これなら何の問題もない。
萎れた花をごみ箱に捨ててから、私は寝台に潜り込んだ。
壁の向こうから、かすかな物音が聞こえてくる。
箱を動かす音が止んだと思ったら、今度は紙をめくる音がした。しばらくすると、ペン先が紙を走る規則正しい音が続き始める。
隣に誰かがいる。
それも、今日会ったばかりの男の人だ。
そう思うと妙に眠れなかった。物置とは壁一枚しか隔てられていないのに、あの人はこんな夜更けまで何を書いているのだろう。
昼間の端正な横顔が、ふと頭に浮かんだ。
私は毛布を引き上げ、寝返りを打った。
解呪の方法を探すより先に、監視官の顔を忘れる方法を探したほうがいいかもしれない。
壁の向こうで、またペンが動き始めた。
◇
「おはようございます、アルノー殿。紋様の確認をお願いします」
翌朝、扉の向こうから聞こえてきた声で目が覚めた。
私は寝台の中でしばらく天井を見つめた。
夢ではなかったらしい。
外から差し込む朝の光は、まだ薄い。こんな時間から、あの監視官はもう仕事を始めているのだろうか。
寝癖を手で押さえながら扉を開けると、廊下には昨日と寸分違わない濃紺の制服姿が立っていた。
襟元はきっちり留められ、黒髪にも乱れがない。片手には手帳とペンを持ち、私が出てくると、銀縁の眼鏡をわずかに押し上げた。
朝から隙のない人である。
寝起きの私とは、ずいぶんな違いだ。
「確認って、もしかして……毎朝、胸元を見せるんですか?」
口にした途端、自分で言っておいて居心地が悪くなった。
監視官の視線が、ほんの一瞬だけ私の襟元へ下がる。
薄い寝間着の下には、昨日現れたばかりの蔓の紋様がある。鎖骨から胸元にかけて伸びているので、確認するには襟を開かなければならない。
私は反射的に襟元を押さえた。
すると彼はすぐに視線を戻し、廊下の壁へ向き直った。
「いいえ。紋様の確認は、ご自身で行ってください。鏡の前で開いている蕾の数を確認し、その結果を私に読み上げていただければ結構です。私はここで背を向けて記録します」
思っていたよりも、ずっと慎重な提案だった。
胸元を確認するのは自分だけで、彼はその結果を記録するだけ。確かに、それなら規則も守れるし、私も嫌な思いをせずに済む。
ただ、問題が一つある。
毎朝、鏡の前で胸元の蕾を数えて、廊下に立つ男の人へ申告しなければならないのだ。
これを恥ずかしいと思わない魔女がいたら、ぜひ紹介してほしい。
「……分かりました。少し待っていてください」
私は寝室の扉を半分閉め、鏡の前に立った。
寝間着の襟を開くと、左の鎖骨から胸元にかけて、昨日と同じ蔓の紋様が見えた。細い線が肌の上に伸び、その先には小さな蕾がいくつも並んでいる。
指先で一つずつ数えた。
開いているのは、一つだけ。
昨夜の花が萎れたことも考えると、やはり大聖堂で咲いた一輪だけが本花だったらしい。
私は扉のほうへ顔を向けた。
「開いているのは一つ。残り九十九です」
少し間を置いて、廊下から声が返ってきた。
「申し訳ありません。聞き取れませんでしたので、もう一度お願いします」
……もう。
私は息を吸い直した。
「開いているのは一つ! 残り九十九!」
声が廊下に響いた。
その直後、向かいのパン屋の二階から、鎧戸を開ける音がした。
しまった。
朝の空気を入れようとして、寝室の窓を少し開けていたのだ。
向かいのパン屋の奥さんが、窓からこちらを覗いている気配がする。
「確認しました。明日からも同じ方法でお願いします」
廊下の監視官は、何事もなかったように言った。
私は無言で窓を閉めた。
診断、本日も経過観察。
ただし担当監視官については、早急な対処が必要と思われる。
◇
身支度を済ませて一階へ下りると、カウンターの上に一つのカップが置かれていた。
湯気が細く立ちのぼり、乾いた花のやさしい香りが漂っている。
私は足を止めた。
その向こうでは、セオドアが手帳を開き、朝の記録を整理している。制服の袖をきちんと留めたまま、ペンを動かす横顔は、朝の柔らかな光の中でも相変わらず整っていた。
「お茶を淹れました。飲みながらで構いませんので、経歴の確認をさせてください」
彼は顔を上げ、カップのほうを示した。
私は台所の入口を見た。
ここは私の店だ。昨日まで、一人と一鉢で暮らしていた家である。
勝手に台所を使われるのは困るし、ましてや、私の朝食の時間まで管理されるつもりはない。
そう抗議しようとして、私はひとまずカップを手に取った。
温かい陶器が指先に馴染む。
一口飲んだ瞬間、思わず動きを止めた。
……え?
カモミールの香りのあとに、ほのかな甘酸っぱさが広がった。
蜂蜜の甘さではない。干した林檎の皮を、ほんのひとつまみだけ加えたときの味だ。
私はもう一度、カップの中を覗き込んだ。
薄い金色の液体の底で、小さな林檎の皮が揺れている。
間違いない。
これ、私のいつものお茶だ。
カモミールに干した林檎の皮をひとつまみ。蜂蜜は入れない。そして、この組み合わせで飲むのは朝だけ。
何度も試して、三年かけて見つけた配合だった。
客に出したこともなければ、誰かに詳しく話した覚えもない。棚には二十種類以上の茶葉や薬草が並んでいるというのに、どうしてこの組み合わせになるのだろう。
しかも、温度までちょうどいい。
熱すぎず、ぬるすぎず、起きたばかりの喉にすっと入ってくる。
悔しいことに、今まで自分で淹れたどのお茶よりも飲みやすかった。
「……監視官。このお茶、どうやって淹れたんですか?」
私がカップを持ったまま尋ねると、彼は手帳から顔を上げた。
「棚の手前にあったものを、適当に合わせました。お気に召しませんでしたか」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」
私は言いかけて、もう一度彼の顔を見た。
灰色の目が、まっすぐこちらを向いている。
昨日の大聖堂では、冷たい印象ばかりが先に立っていた。けれど、こうして朝の光の中で見ると、長い睫毛の影や、すっと通った鼻筋が、妙にはっきり目に入ってくる。
その顔で、私の好みにぴったりのお茶を淹れたと言うのだから、困ってしまう。
しかも本人は、何がそんなに驚くことなのか分かっていないらしい。
私が三年かけて見つけた配合を、この人は適当で作ってしまった。
それも、初めて迎えた朝に。
「……おいしい、です」
ようやくそれだけ言うと、セオドアは小さくうなずいた。
「それならよかったです」
口元が緩んだように見えた。
ほんの一瞬だったので、気のせいかもしれない。けれど、そのわずかな変化が気になって、私はつい彼の顔を見続けてしまった。
ぽん。
小さな音がした。
続けて、ぽん、ぽん、と軽い音が重なる。
視線を下ろすと、カウンターの木目から薄紅色の小さな花が顔を出していた。五枚の花びらを星の形に広げた花が、次々と咲いていく。
一輪、二輪、三輪、四輪。
ちょっと待って。
どうしてお茶を飲んだだけで、こんなことになるの。
慌ててカップを置こうとした瞬間、左の鎖骨がちくりと痛んだ。
私は思わず胸元を押さえた。
監視官の視線が、花から私へと移る。
「アルノー殿、今、紋様に変化がありましたか?」
「お茶です! このお茶が原因です!」
私は思わずそう言ってしまった。
セオドアは少しも慌てず、手帳を開く。
「茶に魔力はありません。開花との因果関係は、現時点では確認できません」
彼はそう言いながら、咲いた花の形と数を書きつけていった。
その間も、私は胸元に手を当てたまま動けなかった。
どうして。
カモミールのお茶を淹れてもらっただけだ。
しかも相手は、昨日会ったばかりの堅物監視官である。
確かに顔はいいけれど、それとこれとは話が違う。
私は急いでカウンターの陰に身を寄せ、襟元を少しだけ開いて確認した。
蔓の紋様に並んだ蕾が、一つ、また一つと数えられる。
昨日は、一つだけだった。
けれど今は。
二つ、開いている。
私はしばらくその小さな蕾を見つめた。
花葬の呪いは、本花が開くたびに百輪へと近づいていく。昨日の一輪は、顔がいい男を見たせいで起きた事故だと思っていた。
そして今日の一輪は、お茶を淹れてもらっただけ。
顔がいい上に、お茶までうまい。
……そんな理由で木にされてたまるものか。
「アルノー殿。確認できましたか」
カウンターの向こうから声がした。
私は襟を戻し、しぶしぶ顔を上げた。
「……二つです。開いている蕾は、二つになってます」
「承知しました。累計二輪ですね」
セオドアは淡々と書きつけた。
やがて、四輪の花を一つずつ摘み取って紙袋に収めると、手帳の頁をめくった。
「では、経歴の確認に移ります。三年前の春から秋まで、半年ほど局への届け出が途切れているようですが、その間はどちらにいらっしゃいましたか」
唐突に仕事の話へ戻ったので、私は少し拍子抜けした。
「流行り病で寝込んでいたんです。師匠の庵で看病してもらっていました。熱がひどかったので、その頃のことはあまり覚えていませんけど」
彼のペンが紙の上を走る。
「師匠は、大魔女ベルタ殿ですね。台帳では三年前に引退したことになっていますが、現在も連絡を取っていらっしゃいますか」
「いえ。手紙は出してるんですけど、返事がないんです。年を取った魔女は国の保護で森に引退できますから、今ごろ優雅に暮らしてるんじゃないですか?」
私はそう答えながら、少しだけ眉を寄せた。
師匠は昔から気まぐれな人だった。手紙の返事を半年忘れるくらい、あの人なら平気でやりかねない。
けれど、三年も返事がないとなると、さすがに長い。
「承知しました。記録します」
セオドアはそれ以上追及せず、短く書き足した。
私は残っていたお茶を飲み干し、空になったカップを見つめた。
さっきまであれほど腹立たしかったのに、飲み終わってしまうと、もう少し欲しい気もする。
……だめだ。
この監視官には、できるだけ隙を見せないようにしよう。
◇
そこへ、店の扉が勢いよく開いた。
ベルが派手な音を立て、冷たい朝の空気が流れ込んでくる。
「先輩! 局長から追加の書類っす! いやあ、昨日の件で朝から大変でしたよ。局長、胃薬を二回も飲んでました」
入ってきたのは、赤毛の若い男だった。
セオドアと同じ濃紺の制服を着ているけれど、襟元は少し緩み、袖も無造作にまくっている。人懐っこい笑顔を浮かべると、口元から八重歯が覗いた。
同じ役所の人間とは思えないほど、雰囲気が違う。
「部下のガレス・ボウです。二等監視官として勤務しています」
セオドアが紹介すると、ガレスさんは持っていた書類をカウンターに置き、こちらへ軽く手を振った。
「どうも、魔女さん。昨日の報告書、読みましたよ。先輩、頭に咲いた花を本当に証拠品第一号として提出したんすね。局の廊下で見かけて、思わず笑っちゃいました」
私は顔を上げた。
「……報告書?」
ガレスさんの笑顔を見つめていると、嫌な予感がしてきた。
セオドアは何事もないように手帳を閉じ、私に向き直る。
「本日から、開花数を毎日局へ報告します。呪いの進行を管理するために必要な手続きです」
「毎日ですか? 私の頭に何輪咲いたとか、胸元の蕾がいくつ開いたとか、そういうことを全部?」
「そのとおりです。報告先は局長と、その上の方々になります」
私はカウンターに片手をついた。
昨日は大聖堂の貴族百人に見られた。
今日は向かいのパン屋の奥さんに蕾の数を聞かれた。
そして明日からは、役所の偉い人たちにまで、私のときめきが数字で報告されるらしい。
この国の魔女に、私生活というものはないのだろうか。
「まあまあ、そんなに落ち込まないでくださいよ。うちの局、顔採用って噂があるくらいですから、案外ゆるいんすよ。先輩なんか見てると、本当に顔で選んでるんじゃないかって思いますし」
ガレスさんは笑いながら、セオドアのほうを見た。
彼は少しも表情を変えなかった。
「噂です。私の採用は筆記試験によるものです。選考基準に容姿は含まれていません」
その顔で言われても、説得力がない。
私は思わず彼を見てしまい、すぐに視線を外した。
これ以上花が咲いたら困る。
ただでさえ、今朝のお茶で累計二輪になったばかりなのだから。
ガレスさんは私の様子を見て、何か言いたそうに口を開いたけれど、結局にやりと笑っただけだった。
その笑顔が、妙に気になる。
後で聞いておこう。
私はそう心に決め、追加の書類を受け取るセオドアを横目に見ながら、仕事の支度へ戻った。
◇
ガレスさんが帰ると、店の中はようやく静かになった。
私はカウンターの奥にある道具箱を開き、いつものように往診の準備を始めた。
今日は昼から、馬具屋の奥さんのところへ行く約束がある。足に合わない赤い靴が脱げなくなったという相談で、昨日のうちに予約を受けていた。
呪いが移ろうが、監視官が同居しようが、店の仕事を休むわけにはいかない。
生活費だって必要だし、何より私は解呪屋なのだ。
私は使い込んだ革の道具箱から、銀の針を一本取り出した。
細く磨かれた針は、呪いの糸を読むための仕事道具である。六年間、毎日のように握ってきたもので、指先に馴染んだ重さだった。
けれど。
その針を持ち上げた瞬間、指先に妙な違和感が走った。
……あれ?
手の中が、急に頼りなくなった。
握っているはずの針の感触が遠ざかり、指の関節がうまく曲がらない。力を入れ直そうとしても、指先が思うように動かなかった。
銀の針が、手をすり抜けた。
からん、と乾いた音がした。
細い銀色の針は床の上で一度跳ね、そのまま石床を滑るように転がっていく。
私は慌てて手を伸ばした。
けれど、指に力が入らない。
拾おうとしても、指先が空をつかむばかりだった。
どうして。
さっきまで、何ともなかったのに。
冷たいものが背筋を伝い、私は床へ視線を落とした。
銀の針はカウンターの前を通り過ぎ、やがて、磨き抜かれた黒い革靴の先で止まった。
そこには、セオドアが立っていた。
彼の灰色の目が、床の針から私の手元へとゆっくり移る。
私は何か言おうとした。
けれど、指先の感覚はまだ戻らなかった。




