第1話 本日の開花、一輪
十月の聖樹苑は、秋の陽を受けた銀の葉が、風に揺れるたびにきらきらと輝いていた。
王都ルミエールの中心に建つ大聖堂では、百人ほどの貴族が祭壇を取り囲んでいる。高い天井から降り注ぐ銀色の光が磨き抜かれた石床に映り、甘い香の匂いが漂っていた。
そんな神聖な場所で、私は今、金貨二百枚のために膝をついている。
解呪屋ミルテといえば、王都の裏通りではそれなりに名の知れた魔女だ。呪いを解く仕事を始めて六年になるけれど、これほど大勢の貴族に囲まれて仕事をするのは初めてだった。
今日は薬草の染みが少ないほうの深緑のローブを選び、癖の強い赤茶の髪もそれなりに整えてきた。ただ、聖堂では帽子を脱ぐ決まりだと言われたので、愛用の黒いとんがり帽子だけは脇に抱えている。
「ミルテ様、まだですの? わたくし、もう一時間もこの姿勢ですわ。そろそろ首が痛くなってまいりました」
目の前で、ヴィオレッタ・ランベール様が扇の陰から不満を漏らした。
高く結い上げた金の巻き髪に、紫のドレス。細い首には宝石が幾重にも輝いている。ランベール公爵家の令嬢であり、王太子妃候補でもある彼女の左の鎖骨には、ひと月前から蔓のような黒い痣が浮かんでいた。
「申し訳ございません、お嬢様。あと少しでございます。ここで急いでしまうと、呪いの根が残る恐れがございますので」
営業用の笑顔を崩さずに答えると、彼女は仕方なさそうに扇を閉じた。
私はその隙に、頭の中で金貨を数え直す。
二百枚。
この国では魔女は登録制で、店を開くにも街を出るにも役所の許可が必要になる。けれど、金貨二百枚を納めれば、魔女としての身分を買い戻せるのだ。
今日の報酬は、ちょうどその二百枚。つまり、この仕事さえ終われば、長年の夢だった自由が手に入る。公爵令嬢の文句を一時間聞くくらい、安いものである。
私は銀の針を持ち直し、彼女の鎖骨に浮かぶ痣へと意識を戻した。
呪いの術式は、複雑に絡み合った糸の結び目によく似ている。編み始めさえ見つけられれば、あとは一本ずつ順番にほどいていけばいい。
ところが今回の呪いは、ずいぶん手が込んでいた。
細い糸が百本も束ねられ、その奥には見たことのない花の模様が編み込まれている。銀の針で糸を持ち上げるたび、淡い魔力の光が指先に揺れた。
妙なのは、その花の模様だった。
花びらの重なり方も、中心から伸びる曲線も、驚くほど丁寧に編まれている。誰かを苦しめるための呪いにしては、ずいぶん美しい。
窓の外で銀の葉が揺れ、光が祭壇の上をゆっくり横切った。聖樹苑に植えられた銀の木々は、王都の結界や街灯を支える魔力の源だという。大聖堂の燭台にも炎はなく、あの葉と同じ銀色の灯がともっていた。
私は最後の結び目を探り当て、針先をそっと差し入れた。
糸がほどける感覚が、指先に伝わる。
「はい、解けました。これで痣も――」
そこまで言ったところで、異変が起きた。
ほどけたはずの糸が、消えない。
細く光る糸は私の指に絡みつき、手首を伝ってするすると這い上がってきた。慌てて針を引き抜いたけれど、もう遅かった。
左の鎖骨に、焼けた薬匙を押し当てられたような痛みが走る。
「っ……!」
息が詰まり、思わず胸元を押さえた。熱は肌の下を這うように広がっていき、ローブの襟を引き下ろすと、そこには先ほどまでヴィオレッタ様の肌にあったものと同じ蔓の紋様が浮かんでいた。
「まあ! 消えていますわ! わたくしの痣が、綺麗さっぱり!」
おめでとうございます、お嬢様。
その痣なら、ただいま私の胸元で元気に成長しております。
「呪いが移ったぞ!」
最前列にいた老貴族の叫びをきっかけに、聖堂が一斉に騒がしくなった。
扇を取り落とす夫人、席から立ち上がる貴族たち。司祭に至っては、聖水の瓶を抱えたまま祭壇から後ずさっている。
解けない呪いを無理にほどくと、解いた者に移ることがある。
解呪師なら最初に習う基本中の基本だ。私はこれまで六年間、一度だってそんな失敗をしたことがなかった。
まずい。非常にまずい。
けれど、ここで取り乱したら商売人として終わりである。私は痛みの残る鎖骨から手を離し、できるかぎり平然とした顔を作った。
落ち着け、ミルテ。原因の特定、症状の確認、それから解呪方法の調査。報酬の請求は、そのあとでも遅くない。
「静粛に願います」
騒ぎの中に、低く澄んだ声が通った。
決して大きな声ではなかった。それなのに、ざわめきが少しずつ静まり、人々が自然と左右に道を開けていく。
その向こうから、一人の男が歩いてきた。
濃紺の制服に、磨かれた黒い革靴。几帳面に撫でつけられた黒髪は一筋も乱れず、背筋は定規を当てたようにまっすぐだった。片腕には書類の束を抱え、革の手袋をはめた手でその端を押さえている。
制服の胸元には、魔女監視局の徽章が光っていた。
よりによって、監視局の人間である。
魔女を管理する役所の人間など、私がこの国で最も関わりたくない相手だ。ましてや、金貨二百枚を手に入れて自由になろうとしていた矢先に。
「魔女監視局、一等監視官のセオドア・グレイです。本日付で、ミルテ・アルノー殿の担当となりました」
男は私の前で足を止め、銀縁の眼鏡を指先で押し上げた。
私は膝をついたまま、その顔を見上げた。
そして、言葉を失った。
切れ長の灰色の目は、秋の光を受けると銀に近い色を帯びていた。すっと通った鼻筋に、引き締まった顎の線。薄い唇は固く結ばれているのに、その形まで妙に整っている。
神様が定規を使って引いたような顔だった。
しかも、その顔でこちらを見下ろしている。銀縁の眼鏡の奥から向けられる視線は冷静そのものなのに、目が合った途端、私はなぜか先に逸らせなくなった。
近くで見ると、ますます整っている。
睫毛まで長い。どうしてこんなものまで無駄に長いのだろう。
左の鎖骨はまだ焼けるように痛むし、百人の貴族に囲まれているし、私は今まさに人生最大の失敗をしたところだ。
そんな状況で、考えるべきことはいくらでもあった。
それなのに。
顔がいい。
ぽん。
間の抜けた音が、頭のてっぺんで鳴った。
わずかに髪を引かれたような感覚がして、頭の上が妙に重くなる。目の前の監視官が、一瞬だけ視線を上げた。
さっきまで騒いでいた貴族たちも、今度は別の理由で静まり返っている。
全員、私の頭を見ていた。
「あの……何か、ついておりますか?」
「動かないでください」
セオドア・グレイ監視官は、書類を片腕に抱え直して一歩近づいた。
そして、私の頭に手を伸ばすため、少し身をかがめた。
不意に視界の片側が濃紺の制服で埋まる。整えられた白いシャツの襟元が目の前にあり、かすかにインクの匂いがした。
ち、近い。
見上げれば、その端正な横顔がすぐそこにある。眼鏡の銀縁が光を拾い、黒髪の一筋が額に影を落としていた。
「そのままでお願いします」
耳の近くで声がした。
さっきまで人垣の向こうから聞こえていた声が、今は驚くほど近い。言葉の終わりに混じったかすかな吐息が耳の脇を通り、私は反射的に肩をすくめそうになった。
監視官はそんな私の様子など気にも留めず、革の手袋をはめた指を髪の上に伸ばす。
指先が髪をわずかに持ち上げ、ぷつり、と何かを摘み取った。
「確認しました」
彼が背筋を伸ばすと、視界が急に広くなった。私はようやく息を吐き、それから彼の指先を見て固まった。
薄紅色の、小さな花。
五枚の花びらが星の形に開き、聖堂の銀色の光を受けてみずみずしく輝いている。
「……それ、今、私の頭から生えました?」
「はい。頭頂部より一輪、開花しました」
監視官は表情ひとつ変えず、胸のポケットから小さな紙袋を取り出した。花を丁寧に収め、袋の口を折りたたむと、ペンを取り出して番号を書き込んでいく。
流れるような手つきだった。
「証拠品第一号として押収します」
「私の頭から生えたものを、ですか?」
「あなたの頭から生えたものなので、押収します。以上です」
以上らしい。
千年の歴史を誇る大聖堂の真ん中で、魔女の頭に花が咲き、顔のいい役人がそれを押収した。
どう考えても、今日の見積もりには含まれていない。
私はようやく立ち上がり、抱えていたとんがり帽子を頭にかぶり直した。帽子の下に残った髪の感触が気になったけれど、そんなことを考えている場合ではない。
今は仕事だ。仕事を終わらせて帰るのだ。
乱れたローブを整え、ヴィオレッタ様に向き直ると、私はこれ以上ないほど丁寧に微笑んだ。
「お嬢様、解呪は完了でございます。お代の金貨二百枚は、明日までにお願いいたします」
背後で、監視官が何かを書きつける音がした。
私は決して振り返らなかった。
◇
裏通りの店に帰り着いた頃には、すっかり日が傾いていた。
石畳の上には長い影が伸び、向かいのパン屋からは焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。いつもなら、仕事帰りに一つ買って帰るところだけれど、今日はそんな気分になれなかった。
大聖堂で起きたことを思い返すと、頭が痛くなる。
呪いを移されたことも、そのあと花が咲いたことも、あの監視官の顔も。
……最後のは、今すぐ忘れよう。
私は「解呪屋ミルテ」と書かれた看板の下をくぐり、店の扉を閉めた。
一階は仕事場で、二階が住まいになっている。壁際の棚には薬草の瓶や呪術書が並び、カウンターには使い込んだ道具箱と、小さな素焼きの鉢が置いてあった。
監視官は「手続きがあります」と言って聖堂に残ったので、ひとまず逃げ切った形だ。
私は閉店の札を返すと、ようやく肩の力を抜いた。
「なんじゃ、小娘。金貨を抱えて帰ると言うておったのに、ずいぶん不細工な顔じゃな」
カウンターの鉢から、しゃがれた声が飛んできた。
素焼きの鉢に収まっているのは、マンドラゴラのゴラだ。むくれた顔の根っこに二枚の葉が生えていて、感情に合わせて葉を動かす。師匠から預かった使い魔だけれど、一日の大半を私への文句に費やしているので、使い魔というより口の悪い同居人である。
「呪いが移ったの。今から調べるから、少し静かにしてて」
「ほう。王都一の解呪屋様が、呪いをもらって帰ったとな」
「笑いたければ笑えばいいでしょ。原因が分かれば、ちゃんと解けるんだから」
私はローブの袖をまくり、棚から『呪詛総覧』の第七巻を引っぱり出した。
分厚い革表紙を開くと、古い紙と乾いたインクの匂いが広がる。銀の針で読み取った花の模様を頼りに、呪いの図を一つずつ調べていった。
窓の外は少しずつ暗くなり、聖樹苑の方角に銀色の灯が増えていく。やがて、見覚えのある蔓の図が目に入った。
「あった。花葬の呪い」
名前を読み上げた瞬間、ゴラの葉がぴたりと止まった。
いつもなら、呪いの名前についても一言くらい文句を言うはずなのに、何も言わない。
私は少し気になったものの、すぐに本文へ視線を戻した。
記述は驚くほど短かった。
花葬の呪いを受けた魔女は、ときめくたびに自らの魔力を養分として花を咲かせる。体には百の蕾を宿す蔓の紋様が現れ、すべての蕾が開くと満開を迎える。
そして、満開の日。
魔女は木となる。
私は目を細めて、その一文をもう一度読んだ。
木となる。
念のため三回読み直してみたけれど、三回とも同じことが書いてある。誤植でも、比喩でもなさそうだった。
「……木になるのね、私」
「木になるのう」
「嫌なんだけど」
ゴラは返事をしなかった。
私は本の上に肘をつき、窓の向こうへ目を向けた。遠くには聖樹苑の銀の梢が見えている。夕暮れの街に、ほかの木々とは違う淡い銀色が浮かび上がっていた。
同じ木になるなら、せめてあのくらい立派なのがいい。
大聖堂のそばに植えてもらって、みんなにお参りされて、お供え物をもらえるやつだ。冬になったら綺麗な飾りでもつけてもらいたい。
……いや、待って。
何を前向きに木になる準備をしているのだ、私は。
呪いは解くものだ。諦めて受け入れるものではない。
私は本を引き寄せ、続きを読む。
幸い、そこにはまだ希望が残っていた。
花葬の呪いで咲く花には、二種類あるらしい。
一時のときめきで咲くのが、徒花。数時間でしおれてしまうもので、百輪には数えない。
対して、本花と呼ばれる花は、恋をした魔女に咲くものだ。本花が一輪開くたび、胸元の紋様にある蕾が一つ開き、百輪へと近づいていく。
そこまで読んで、私はほっと息を吐いた。
「ほら、やっぱり。あれは徒花よ」
「何がじゃ」
「聖堂で咲いた花。ちょっと顔のいい男を見たくらいで、本花が咲くわけないでしょ」
思い出すのは、銀縁の眼鏡の奥からこちらを見下ろしていた灰色の目だった。
あんなに整った顔を間近で見たことがなかったから、驚いただけだ。
そう。顔がいいだけ。
誰だって、あんな顔が突然目の前に現れたら、多少は動揺する。人間として正常な反応である。
「顔面由来の一過性の症状ね。薬効もないし、経過観察で十分」
「誰の顔じゃ」
「知らない役人の顔」
「ほう」
ゴラは二枚の葉をゆっくりと折りたたんだ。
いつもなら、ここから三倍くらい余計なことを言ってくるはずなのに、そのまま黙ってしまう。
妙に静かだった。
けれど、今日はすでに十分面倒なことが起きている。これ以上、鉢植えの機嫌まで気にしていられない。
私は本を閉じると、二階の寝室へ向かった。
◇
窓から差し込む夕暮れの光が、寝室の鏡を薄い橙色に染めていた。
鏡の前に立ち、ローブの留め具を外す。襟元をそっと開くと、左の鎖骨から胸元へ、細い蔓の紋様が伸びていた。
大聖堂で見たときよりも、ずっとはっきりしている。
蔓は肌の上に繊細な線を描き、小さな蕾をいくつもつけていた。指先でなぞってみても、痛みはない。ただ、皮膚の下に何かが根づいているような、奇妙な感覚が残っている。
私は鏡に顔を近づけ、蕾を端から数え始めた。
十、二十、三十。
数が増えるにつれ、指の動きが遅くなっていく。
百。
本に書いてあったとおり、本当に百個あった。
そして、そのうちの一つだけが。
花の形に、開いている。
「…………」
私はしばらく鏡を見つめたあと、その一つを指でこすってみた。
消えない。
もう一度数えてみても、開いているのはやはり一つだけだ。
どうして。
今日、初めて会った男だ。名前だって、聖堂で聞いたばかりだった。
確かに顔はよかった。非常によかった。思わず見入ってしまったことも否定しない。
けれど、それだけではないか。
鏡の中の自分を見つめているうちに、あの監視官が近づいてきたときのことを思い出した。
濃紺の制服が視界を遮ったこと。
眼鏡の銀縁が、すぐ目の前で光ったこと。
耳のそばに落ちてきた、低い声。
吐息がかすめたとき、反射的に肩をすくめそうになったことまで、妙にはっきり覚えている。
……何を思い出しているんだ、私は。
急いで襟を戻した。
こんなものは恋ではない。そもそも私は、生まれてこのかた一度だって恋をしたことがないのだ。
たった一度、顔を見ただけで本花が咲くなんて、呪いの診断としても納得がいかない。
おそらく、術式の不具合だろう。
解呪師として、明日から詳しく調べればいい。
私はそう結論づけて、ローブの留め具を掛け直した。
そのときだった。
階下で、扉を叩く音がした。
閉店の札は出してある。最初は放っておこうと思ったけれど、少し間を置いて、もう一度音がした。
こん、こん、こん。
三回。
どれも同じ強さで、同じ間隔だった。
私は鏡から離れ、階段を下りた。カウンターのゴラは葉を閉じたままで、扉の向こうからは人の気配だけがする。
こんな叩き方をする客を、私は知らない。
「本日はもう閉店で――」
扉を開けて、言葉が止まった。
夕暮れの裏通りに、濃紺の制服の男が立っていた。
銀縁の眼鏡。
几帳面に撫でつけられた黒髪。
整いすぎた顔。
セオドア・グレイ監視官である。
昼間とは違い、聖堂の銀色の光はない。代わりに、通りの街灯が横顔を淡く照らし、灰色の目に小さな光を映していた。
私は思わず一歩後ずさった。
どうして、さっきより近く見えるのだろう。
聖堂ではあれほど大勢の人に囲まれていたのに、今は狭い戸口に私とこの人しかいない。目の前に立たれると、見上げなければ顔が見えないことに、今さら気づいた。
「アルノー殿。先ほどの件について、ご説明があります」
落ち着いた低い声だった。
私は反射的に耳へ手をやりそうになって、途中でやめた。
「……何でしょう。解呪の件なら、明日から調査するつもりですけど」
「そちらについても、今後は当職が記録します。それとは別に、魔女登録法に基づく手続きが必要です」
監視官は淡々と答え、足元の荷物を示した。
書類箱が三つ。
どれもきっちりと紐で結ばれ、角を揃えて積み上げられている。
嫌な予感がした。
彼はそのうちの一つから書類を取り出し、私の目の高さに掲げた。
「魔女登録法第十二条により、呪いを帯びた魔女は、担当の監視官と同居するものとします」
「……同居?」
聞き間違いだろうか。
私は書類と彼の顔を交互に見た。そこには冗談を言っている様子も、こちらの反応を楽しんでいる様子もなかった。
むしろ、当然の手続きを説明しているだけという顔だ。
彼は書類の端を揃えると、銀縁の眼鏡を指で押し上げた。
「本日より、同居します」
ぽん。
頭のてっぺんが、また少し重くなった。
私は慌ててそこへ手を伸ばし、髪の上に生えたばかりの何かを隠した。
監視官の灰色の目が、私の手元へ向く。
その視線から逃げるように、私は一歩、店の中へ下がった。
夕暮れの戸口には、書類箱を三つ積み上げた監視官が、少しも表情を変えずに立っていた。




