第3話 魔女、倒れる
銀の針が、黒い革靴の先で止まっていた。
私はカウンターに片手をついたまま、床に落ちた針を見つめていた。拾おうとしても、指先が思うように動かない。何度か握り直してみたけれど、手の中に力が集まる感覚がなかった。
セオドアは私の様子を見て、すぐに腰を落とした。
長い指が銀の針を拾い上げ、懐から取り出した布で丁寧に拭う。そのまま私に返そうとして、差し出しかけた手を止めた。
「アルノー殿、指が震えています。いつからこの状態ですか」
「……ついさっきです。今朝のお茶が少し濃かったのかもしれません」
「茶葉も湯量も適量でした。少なくとも、手の震えが出るほど濃くはしていません」
そこまで正確に答えなくてもいいのに。
反論したかったけれど、今はそんなことをしている場合ではなかった。
私はカウンターに体重を預け、右の人差し指を立てた。
魔女は指先に灯をともすことで、残っている魔力の量を確かめられる。師匠のベルタに弟子入りして最初に習った、ごく基本的な術だ。
普段なら、指先に親指ほどの淡い緑の光がともる。
けれど、今朝は違った。
何度か意識を集中させて、ようやく小さな光が生まれた。頼りなく揺れるその灯は、米粒ほどの大きさしかなかった。
「……嘘でしょ」
昨日までは、何ともなかった。
大聖堂で呪いを解いたあとも、多少疲れた程度で、店に帰って文献を調べる余力は十分にあった。昨夜だって、きちんと眠っている。
それなのに、一晩でここまで魔力が減るなんて。
私は昨夜読んだ『呪詛総覧』の記述を思い返した。
花葬の呪いは、魔女の魔力を養分にして花を咲かせる。
そこで、ようやく気づいた。
花は、咲いて終わりではない。
左の鎖骨に浮かんだ蔓の紋様には、百個の蕾がある。本花が咲くたびにその一つが開き、開いた蕾は、根を張った薬草のように魔力を吸い続けるのだろう。
つまり、昨日咲いた一輪も、今朝のお茶で咲いた一輪も、今この瞬間まで私の魔力を飲んでいる。
まだ二輪なのに、指先の灯は米粒ほど。
十輪も咲いたら、どうなってしまうのだろう。
私は襟元を押さえた。蔓の紋様は服の下に隠れているけれど、そこだけ少し熱を持っているような気がした。
「本日の往診は中止してください。魔力が著しく低下している以上、解呪作業を続けるのは危険です」
顔を上げると、セオドアが銀の針を道具箱へ戻していた。
私はすぐに首を振った。
「行きます。今日は馬具屋の奥さんから依頼を受けているんです。七日前から靴が脱げなくなっているそうで、これ以上待たせるわけにはいきません」
「ほかの解呪師への引き継ぎはできませんか」
「できますけど、もう私が引き受けた仕事です。それに、店賃だって待ってくれませんから」
私は道具箱の蓋を閉め、持ち手を握った。
いつもより重く感じるものの、持ち上がらないほどではない。少し休めば魔力も戻るだろうし、靴にかかった程度の呪いなら、それほど力を使わずに済むはずだ。
セオドアは私の手元を見つめたあと、書類をまとめて立ち上がった。
「それなら、私も同行します。外出時の同行は担当監視官の義務ですし、途中で体調が悪化した場合にも対応できます」
「……ずいぶん心配性なんですね」
「職務です」
彼は当然のようにそう答え、私が持ち上げようとしていた道具箱へ手を伸ばしかけた。
私は素早く箱を抱え直した。
「これくらい、自分で持てます。商売道具まで持ってもらったら、解呪屋としての立場がありませんので」
セオドアは一度だけ私の顔を確かめ、それ以上は何も言わなかった。
代わりに店の扉を開け、私が外へ出るまで、そこに立って待っている。
こういうところだけ、妙に気が利く人だった。
◇
十月の王都は、朝の空気に少しずつ冷たさが混じり始めていた。
裏通りには焼きたてのパンの香りが漂い、道端の木々は秋の色に染まりかけている。石畳には落ち葉が散り、馬車が通るたびに乾いた音を立てて舞い上がった。
隣を歩くセオドアは、相変わらず姿勢がよかった。
濃紺の制服に皺はなく、黒い革靴は朝の光を受けて艶やかに光っている。歩幅は私よりずっと大きいはずなのに、いつの間にかこちらに合わせて歩いていた。
そのせいで、歩くたびに制服の袖が視界の端に入ってくる。
昨日までは、こんなところに男の人がいることなどなかったのに。
「ミルテちゃん、おはよう!」
向かいのパン屋の奥さんが、店先から声をかけてきた。
「今朝、残り九十九って聞こえたけど、大丈夫なの? 頑張ってね!」
私は足を止めそうになった。
聞かれていた。
やっぱり聞かれていたのだ。
しかも、よりによって残りの輪数を。
「……ありがとうございます。ご心配なく、ちゃんと解呪しますので」
なんとか営業用の笑顔を作り、軽く頭を下げた。
隣では、セオドアが何かを書こうとして手帳を取り出している。
私は道具箱の角で、その腕をそっとつついた。
「今のは記録しなくていいですからね」
「近隣住民への情報伝達について、確認が必要かと」
「必要ありません。お願いですから、何も書かないでください」
彼は一度だけ手帳を見つめ、静かに閉じた。
私は帽子のつばを深く下げ、足早に歩き出した。
呪いを解くより先に、近所の噂をどうにかしたほうがいいかもしれない。
◇
馬具屋は二つ先の通りにあった。
店の扉を開けると、革と油の匂いが鼻をくすぐる。壁には馬具や金具が整然と並び、奥の作業台には作りかけの鞍が置かれていた。
店主の奥さんは丸椅子に腰かけ、私たちを見るなり、ほっとした表情で右足を差し出した。
その足には、ぴかぴかの赤い靴が履かれている。
「来てくれて助かったわ、ミルテちゃん。七日前に露店で買ってから、どうしても脱げないのよ。寝るときも、お湯に入るときも、ずっとこのままでね」
「それは大変でしたね。まずは呪いを確認しますので、楽にしていてください。無理に脱ごうとすると、足を傷めるかもしれませんから」
私は奥さんの前に膝をつき、道具箱を開いた。
少し離れた場所では、セオドアが手袋を外している。
彼は手帳とペンを取り出すと、作業台の端に置かれていた紙を避け、私の邪魔にならない位置へ移動した。
長い指でペンを持つ姿は、昨日から何度も見ている。
けれど、手袋を外した手を間近で見るのは初めてだった。
白い肌に、骨ばった指。
指の付け根には小さな豆があり、見た目ほど柔らかそうな手ではなかった。
役人の手にも、あんな豆ができるのだろうか。
私は一瞬だけ気になったものの、すぐに靴へ意識を戻した。
仕事中だ。余計なことを考えている場合ではない。
銀の針を取り出し、赤い靴のつま先にそっと当てる。
魔力を流し込むと、細い糸が三本、淡い光を帯びて浮かび上がった。
私は少し肩の力を抜いた。
なんだ。思っていたよりずっと簡単な呪いだ。
糸の編み方は単純で、強い悪意も感じられない。誰かが悪戯半分にかけたものなのだろう。
これなら、いつもはお茶を一杯飲む間に解ける。
「すぐに終わりますよ。少しだけ、じっとしていてくださいね」
私は針先を一本目の糸に差し入れた。
細い結び目がほどけ、淡い光となって消えていく。
ここまでは問題なかった。
二本目の糸に針をかけた、そのときだった。
急に、目の前の光が揺れた。
……あれ?
奥さんが何か話している。
けれど、その声がひどく遠い。
膝をついているはずなのに、床が斜めになって見えた。目の前の赤い靴も、細い糸も、輪郭がぼやけていく。
まずい。
そう思った瞬間、指先から魔力の感覚が消えた。
手にしていた銀の針が傾き、視界の端で光を反射する。
私はとっさに体を支えようとしたけれど、腕が思うように動かなかった。
体が、横へ倒れていく。
その先には、馬具を掛けるための鉄の金具が並んでいた。
避けなければ。
分かっているのに、足も手も動かない。
「アルノー殿!」
低い声が、すぐ近くで響いた。
次の瞬間、濃紺の袖が視界に飛び込んできた。
強い腕が私の肩を受け止め、倒れかけた体を支える。金具にぶつかる寸前で引き戻された私は、思わずその制服をつかんだ。
背中を支えられ、もう片方の腕をしっかりと押さえられる。
すぐ近くに、彼の胸元があった。
白いシャツの襟と、制服の硬い生地。かすかにインクと石鹸の匂いがする。
けれど、その匂いを意識する余裕はなかった。
頭の奥がじんじんと痛み、指先は冷たいままだ。
そのとき。
彼の素手が触れている腕の内側から、温かなものが流れ込んできた。
「……え?」
淡い緑の光だった。
セオドアの手のひらと私の肌が触れている場所から、細い光がにじみ出て、腕の内側を伝っていく。
それは、私が普段使っている魔力と同じ色だった。
冷えきっていた指先に、少しずつ感覚が戻ってくる。
乾いた土に水が染み込むように、体の奥へ温かな魔力が満ちていった。
まるで、誰かが失くしたものを返してくれているみたいだった。
「アルノー殿。聞こえていますか」
耳元ではなく、すぐ頭の上から声がした。
セオドアは私を支えたまま、顔を覗き込んでいる。
普段は落ち着き払っている灰色の目が、今は私の顔をまっすぐ見つめていた。
「意識があるなら、ご自分の名前と今日の日付を言ってください。ゆっくりで構いません」
私は何度か瞬きをして、ようやく口を開いた。
「……ミルテ・アルノー。十月の、九日」
「結構です。今から床に座っていただきます。急に動かないでください」
彼は私の体をゆっくりと下ろし、背中が作業台に当たらないよう位置を確かめてから、腕を離した。
その瞬間だった。
流れ込んでいた魔力が、ぴたりと止まった。
私は思わず顔を上げた。
「……待って」
セオドアが、手を離した姿勢のまま動きを止める。
私は右の人差し指を立てた。
魔力を集めると、淡い緑の灯がともる。
米粒ほどだった光が、今は親指の半分ほどにまで戻っていた。
間違いない。
さっきまで、ほとんど魔力が残っていなかったはずなのに。
私は自分の指先と、セオドアの手を交互に見た。
「監視官……今の、見ました?」
「はい。あなたの腕に触れているあいだ、淡い緑の光が流れていました。私にも確認できています」
彼は自分の手のひらを見下ろした。
先ほどまで私の腕を支えていた、その手だ。
「原因について、説明を求めます」
「説明はあとです。先に靴の呪いを解きます」
私はそう答えて、銀の針を拾い直した。
馬具屋の奥さんが、心配そうにこちらを見つめている。
さっきまで倒れていた魔女に、もう一度仕事を頼むのは不安だろう。そう思って顔を上げると、奥さんは何度も私の名前を呼び、無理をしなくていいと言ってくれた。
「大丈夫です。もう手に力も戻っていますし、あと二本ほどくだけですから。終わったら、ちゃんと休みますね」
私は安心させるように微笑み、もう一度赤い靴へ針を当てた。
二本目の糸は、先ほどよりずっと滑らかにほどけた。
三本目も問題ない。
最後の結び目をすくい上げると、細い光がふわりと消えて、赤い靴が奥さんの足からすぽんと抜けた。
「まあ! 脱げたわ!」
奥さんは七日ぶりに自由になった足を動かし、何度も喜びの声を上げていた。
私は差し出された銀貨を受け取り、道具箱にしまった。
その指は、もう震えていなかった。
◇
店に戻ると、セオドアはカウンターの向かいに腰を下ろした。
私が外套を脱いでいるあいだに、彼は手帳を開き、何かを書きつけている。
先ほどの出来事を記録しているのだろう。
私はカウンターの椅子に座り、指先に小さな灯をともしてみた。
やはり、親指の半分ほどの光がある。
魔力は戻っている。
それも、明らかにあの人に触れられたあとからだ。
考えれば考えるほど、妙な話だった。
「監視官。ひとつ聞いてもいいですか?」
セオドアはペンを置き、こちらへ顔を向けた。
「先ほど、私に触れたときのことです。あの光には、何か心当たりがありますか?」
「その件については、私の体質を先に説明したほうがよいでしょう。私は、無魔です」
私は思わず眉を上げた。
無魔。
魔力をまったく持たず、魔法の影響も受けない特殊な体質のことだ。
魔女の呪いも、治癒魔法も、無魔の体には効かない。魔力による干渉を受けないため、監視局では特に重宝される体質だという。
「……無魔?」
「はい。魔法が一切効かない体質です。呪いも、魔女の惑わしも、私には作用しません。そのため監視官として採用されました」
私はしばらく彼の顔を見つめた。
そして、もう一度、彼の手に目を向けた。
おかしい。
それなら、さっき流れ込んできた魔力は何だったのだろう。
「でも、それって変じゃないですか? 魔力を持たない人から、魔力が流れてくるはずありませんよね」
「そのとおりです。私自身にも、説明できません」
彼はまるで、他人の話でもしているかのように答えた。
私は少し身を乗り出した。
「それに、あの光の色です。監視官の手から流れてきたのに、私の魔力とまったく同じ淡い緑色でした。魔力には人それぞれの色があるので、偶然にしては妙なんです」
魔力は、水と同じだ。
持っていないものを流すことはできない。
それなのに、無魔の監視官から私の魔力が流れ込んできた。
しかも、彼が手を離した途端に、その流れは止まってしまった。
つまり、あの現象は接触しているあいだにだけ起きるのだろう。
私は急いでカルテを引き寄せた。
頭の中では、もういくつもの仮説が浮かんでいる。
もしかすると、花葬の呪いによって奪われた魔力が、何らかの理由で彼を通して戻ってきているのかもしれない。
あるいは、彼の無魔という体質そのものに、まだ知られていない仕組みがあるのだろうか。
見たことのない現象だった。
それも、私自身に起きている。
解呪師として、こんなに面白い研究材料はない。
「監視官、もう一度腕を貸してもらえませんか。肘から先だけでいいんです。今度はきちんと魔力の動きを確認したいので」
私はカルテを開いたまま、彼に手を伸ばした。
けれど、セオドアは手帳を閉じただけだった。
「検証には、手順が必要です。接触の範囲や時間を決めずに行うべきではありません。それに、今日は一度倒れていますから、まずは体調の回復を優先してください」
「でも、今ならまだ感覚を覚えています。こんな機会を逃したら、次にいつ同じ現象が起きるか分からないじゃないですか」
「だからこそ、明日以降に検証の時間を設けます。今日は休んでください」
言い方は穏やかなのに、少しも譲る気配がない。
私は不満を飲み込み、開いたカルテへ視線を落とした。
こんなときまで規則だなんて。
ただ、彼の言うことにも一理ある。
確かに私は、つい先ほどまで倒れていたのだ。いくら魔力が戻ったとはいえ、原因も分からないまま同じことを繰り返すのは危険だろう。
仕方なくペンを置いたところで、ふと彼の手元が目に入った。
右手の甲に、細い赤い筋が走っている。
「……その手、どうしたんですか?」
私が尋ねると、セオドアは自分の手を見下ろした。
「先ほどの救護中に負ったものです。業務上の負傷として、すでに記録しています」
私は目を細めた。
赤い筋は、手の甲から指の付け根にかけて伸びている。
馬具屋の奥にあった鉄の金具。
私が倒れかけたとき、彼はあの金具と私のあいだに腕を差し込んだのだ。
そのときに、手を切ってしまったらしい。
「記録はいいですから、手を見せてください」
私は棚から軟膏の瓶と清潔な布を取り出した。
無魔の体には治癒魔法が効かない。だから、普通の薬を使って傷の手当てをする必要がある。
彼が差し出した手をカウンターの上に置かせ、私は軟膏を少量取って傷に塗った。
指の骨がくっきりと浮かぶ、大きな手だった。
間近で見ると、手の甲にも細かな傷がある。仕事で紙を扱うだけなら、こんな傷はできないだろう。
私は傷口を避けながら布を巻き、最後に端を結んだ。
「……痛くないんですか?」
「痛みます」
「全然、顔に出ていませんけど」
「出し方が分かりません」
真面目な顔でそう言うので、私は思わず彼を見上げた。
冗談ではないらしい。
銀縁の眼鏡の奥にある灰色の目は、いつもと変わらず落ち着いていた。
この人は、本当に何を考えているのか分かりにくい。
けれど、さっき私が倒れかけたとき、真っ先に手を伸ばしてくれたのは彼だった。
もしあの腕がなければ、私は鉄の金具に頭をぶつけていたかもしれない。
魔力が戻らなければ、奥さんの靴だって脱がせられなかった。
助けられたのだ。
それくらい、ちゃんと分かっている。
私は軟膏の蓋を閉め、布の端を整えた。
「……あの、監視官」
セオドアは静かに顔を上げた。
こちらを見つめる灰色の目と、まっすぐ視線が合う。
こんなに近くで見ると、やっぱり顔がいい。
長い睫毛の影が頬に落ち、銀縁の眼鏡の奥には、光を受けて淡く色を変える瞳がある。
私は思わず目を逸らしそうになった。
だめだ。
今はお礼を言おうとしているのに。
ちゃんと、言わなければ。
「……本日の魔力の損失は、あなたのお茶が原因なので、請求します」
…………。
何を言っているんだろう、私は。
自分でも呆れるほど、ひどい言い間違いだった。
セオドアは一度だけ瞬きをした。
そして、何事もなかったように手帳へ視線を戻す。
「承知しました。請求内容を確認します」
違う。
そうじゃない。
私はお礼を言おうとしたのだ。
それなのに、どうして請求の話になってしまったのだろう。
顔を伏せた私の背後で、ぽん、と小さな音がした。
左の鎖骨が、ちくりと痛む。
私は嫌な予感に襲われた。
監視官の視線が、私の肩の向こうへ移る。
「アルノー殿。水色の釣鐘形の花が、一輪咲いています。花はうつむいており、花弁は五枚です」
「……見なくていいです」
「記録します」
私は両手で顔を覆いたくなった。
今日の診断。
魔力不足による失神、および原因不明の羞恥症状。
経過観察の必要、大いにあり。
◇
その晩、私は本当に請求書を書いた。
金額は銀貨三枚。
名目は、魔力損失に伴う精神的苦痛、および不必要な羞恥心の発生による慰謝料。
我ながら、なかなか立派な請求理由だと思う。
私は丁寧に紙を折り、二階の物置へ向かった。
扉の向こうからは、昨日と同じようにペンを走らせる音が聞こえてくる。
私はしばらく扉の前に立ち、結局、声をかけずに紙を差し入れた。
これで今日のことは帳消しだ。
そう思って自分の部屋へ戻ろうとしたとき、背後でかすかな音がした。
振り返ると、扉の下から一枚の紙がすっと出てきていた。
さっき差し入れた請求書だ。
私は拾い上げ、廊下の灯にかざした。
余白には、定規で引いたような整った字が並んでいる。
『金額の根拠を提出してください』
……そこまで求める?
私は思わずため息をついた。
けれど、その下にもう一行書かれているのに気づき、手を止めた。
『明朝八時、魔力回復の条件を検証します。協力者として、ガレス・ボウ、鍛冶屋トマス氏を手配済みです』
私はしばらく、その一文を読み返した。
ガレスさんは分かる。
監視局の部下なのだから、検証に協力してもらうのも自然だろう。
けれど、鍛冶屋のトマスさんまで呼んだというのは、どういうことだろうか。
トマスさんは、腕の太さが私の胴ほどもある大男だ。
どうやら明日の朝は、あの人たちにも触れて、魔力が戻るかどうかを確かめるらしい。
私は請求書を持ったまま、しばらく動けなかった。
物置の向こうでは、またペンの音が始まっている。
規則正しいその音を聞きながら、私は昼間のことを思い返した。
倒れかけた体を受け止めた、あの強い腕。
肌に触れた手のひらから、流れ込んできた淡い緑の光。
あれは一体、何だったのだろう。
私は請求書を胸元に抱え、静かに自分の部屋へ戻った。




