第25話 昔の私と日向①
目が覚めた私は、自分の汗の不快感で意識がはっきりしていくにつれ、昨日の夜のことが鮮明に蘇ってくる。小景。私の警戒は正しかった。正しかったが、結局何もできないまま手掛かりを与えてしまった。
あの異常な空間に気圧されてしまっていたこともあるが、何より私が日向を誤解していた可能性に思い至ったことで、動揺してしまった。
◇ ◇ ◇
中学3年になってしばらく経ったある日。最近の日向はどことなく暗くなった、と私は感じていた。それはこの梅雨の季節によるものなのか、それとも他の原因があるのか、このときの私はまだ知らない。
「日向、最近なんかあった?大丈夫?」
「え?あぁ、うん。……大丈夫」
放課後、生徒が捌けた教室で私と日向は、いつも少しだけ雑談をしてから帰る。理由は2つ。他の生徒の下校と被らないようにするためと、今読んでいる本の話をするため。要するに、理由を付けて一緒にいる時間を伸ばしているだけ。友達なんてそういうものだろう。
私が日向と知り合ったのは1年生のころ。私の読んでいる本を見た日向が、声をかけてくれたことから始まった。一緒にテスト勉強をしたり、たまに一緒に本を買いに行く。馴れ初めも普通なら、関係性もごくごく普通の友人。ただ強いて言うなら、お互い他に親しい友人がいないといったところだった。
だからこそ、私は日向の変化が気になっていたし、何かがあること自体は直観していた。
「そう?そういえば最近読んでる本なんだけどね――」
結局私は、最後まで自分から踏み込むことはできなかった。
◇ ◇ ◇
仕事で帰りが遅い両親の代わりに家事をするようになってもう数年が経つ。もはや冷蔵庫は母親の場所ではなく、私の場所になっていた。日向といつもの放課後を過ごしてから帰宅した私を待っていたのは、ここ数日の私がサボっていたせいで空っぽになった冷蔵庫だった。
「はあ」
ため息をついてから出かける準備をする。制服を着替えるのも面倒で、そのまま買い出しに向かう。空は暗く、今にも雨が降り出してしまいそうな色をしていたので、私は自転車を気持ち早めに漕いでいた。
川沿いを走っていると、橋の方に見慣れた姿があった。さっき別れたはずの日向の姿だ。でも、日向の向かう先は、日向の家とは反対の方向だった。最近の様子を心配していた私は、日向に追いつきながら声をかける。
「日向!」
「っ!……優里」
「珍しいね、散歩中?」
私は自転車から降りて日向のペースに合わせる。私は日向から少し嫌な空気を感じつつも、なるべく普段通りに接する。
「うん、ちょっとね」
ずっと歯切れの悪い日向。きっと何か悩みがあるんだろうけど、私に打ち明けるつもりはないみたいだ。それは唯一の親友としては悲しいが、私も私で踏み込む勇気は持っていなかった。
しばらく無言のまま歩き続けていると、横断歩道に差し掛かる。なんてことない普通の交差点。ただ、信号は赤だった。交通量の関係でこちらの信号は信じられないくらい待たされる。とりあえず歩くという逃げ場が無くなれば、何か聞けるかもしれないなどと考え、横断歩道の前で止まった。私だけ。
「――!日向!」
ぼんやりと赤信号の交差点を渡ろうとする日向の手を、私は慌てて掴むと、力任せにこちらに引っ張った。とっさの出来事だったので、押していた自転車は支えを失って倒れ、私は日向を地面に押し倒しているような形で歩道に転がった。私は心臓が脈打つのを感じながら、日向の安全を確認するように全身を見る。
「いってて、日向、大丈夫だった?あぶないじゃな――」
私は口を開けたまま言葉を失っていた。
日向のはだけた制服から見える腹部には、いくつもの痣があり、少し捲れてしまったスカートの奥、普段は見えない足にも、帯状の跡がいくつも走っていた。誰が見たってわかる。これはただの怪我じゃない。
「――!」
私の目線に気が付いた日向は慌てて傷跡を隠すと、来た道の方へ逃げるよう走り出す。私も自転車をその場にほったらかしにして、急いで日向を追いかける。運動音痴ふたりの追いかけっこは、普段から弟の相手をしている私の方に軍配が上がり、すぐに距離を詰めることができた。完全に追いついた私は、日向の手を掴む。
「っ、やめて!はなっ、放して!はなしてよ!」
初めて聞く日向の荒らげた声に怯みつつも、掴んだ手を強く引き寄せる。癇癪を起こした弟を落ち着かせるように、優しく日向を抱きしめる。最初こそ暴れていた日向も次第に大人しくなり、最後は私の腕の中で静かに泣いていた。私は日向の背中をさすりながら考える。正直これは私の手に負える問題ではない。だからといって、ただ一人の親友を見捨てることもできない。私は苦肉の策を提案した。
「日向、今日はうちに来なさい。晩御飯だけ食べて帰ってもいいし、私の部屋なら泊まっていってもいい。私、妹も欲しかったしちょうどいいのよ」
訳の分からない理由で日向を家に誘う。日向は小さく「うん」とだけ言うと私の腕から離れた。ひとまず、今日のところはこれで正解だったはずだ。安心したところで私はさっきほったらかしにしてしまった自転車の存在を思い出した。
「あ!自転車置きっぱなしだわ!日向、取りに戻るわよ!というか買い物の途中だったわ」
「うん」
何も解決していないふたりは、ひとまず自転車の回収と買い物だけ解決することにした。




