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まだ名もなき怪物達 第3部ー断翼の誓ー  作者: HANA


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第3話 濁流の先

いつもと同じ朝のはずなのに煙の匂いが、いつもより重かった。

喫煙室の換気は動いているはずなのに、空気がやけに淀んでいる気がする。

「……なんか、嫌な感じだな」

蒼真がぼそっと呟いた。

蓮は答えない。ただ書類から目を上げず、灰を落とす。

喫煙室を出ると廊下の窓際に、麗華がいた。

外はまだ昨日からの雨が降っている。

その背中を見つけた時、蒼真は自然と足を止めていた。

「…ぇ、どうした?」

「昨日、帰って来なかったから、ここかなって」

「あ…ごめん、泊まり込みになった…」

昨日の子供の救助の報告書を作成し、各部隊の報告書を受け取り、さぁ帰るぞ。となったその瞬間に訓練事故が発生したと連絡が入り、対応と報告に走り回り、気が付けば深夜の0時を過ぎていて、そのまま仮眠室で寝てしまった。

「仕事もタバコも程々に」

麗華は少しイタズラな顔をした。

「……はい」

朝の勤務開始前に麗華は会いに来てくれたのだろう。

申し訳ない事をしたな。と蒼真は反省した。せめて連絡を入れるべきだった。

「だから、お前、連絡はしろって」

蒼真の後を追って喫煙室から出てきた蓮が言う。

「うっせ。……善処する」

そんなやり取りを見て麗華は少し笑った。

その瞬間だった。

ーピピッ。

無機質な電子音が、静かな空間を裂く。

2人の視線が同時に無線へ落ちた。

「第一特務遊撃隊、至急応答願う」

いつもの声。だが、どこか緊張が混じっている。

蓮が先に手を伸ばした。

「こちら第一」



サイレンの音が、街全体を覆っていた。

雨は止む気配を見せず、叩きつけるように降り続いている。

道路はすでに水没し、視界の端では車が半分以上沈んでいた。

「……想像以上だな」

蒼真が呟く。

「昨日の渓谷の雨、そのまま全部こっちに来てるな」

足元の水は膝の高さを超え、流れも速い。

油断すれば簡単に足を取られる。

「上流で堤防が一部決壊したらしい」

蓮が周囲を確認しながら言う。

「避難が間に合ってねぇ地区がある。取り残されてるのが相当数いる」

遠くで誰かの叫び声が聞こえた。

水音に掻き消されそうなほど弱い声。

蒼真の視線が一瞬でそちらを捉える。

「……いた」

「ああ、見えた」

二人は同時に動いた。

水を蹴り上げながら進む。

濁流が脚に絡みつく。

重い。

一歩進むごとに体力が削られる。

「第一、各員に通達。流速強い、単独行動は禁止だ」

蓮の声が無線に飛ぶ。

「奏、上流の流入確認しろ」

「了解っす!でもこれ、やばいっすよ!水位まだ上がってる!』

「白石、避難ルート確保」

『……了解。だが長くは保たない』

雨宮の声が静かに続く。

『三分以内に移動しないと、この区画は飲まれます』

三分。

蒼真は一瞬だけ目を細めた。

「十分だ」

そう言って、さらに速度を上げる。

水を切り裂くように進む。

その先。

電柱にしがみつく人影が見えた。

「おい!聞こえるか!!」

叫びながら手を伸ばす。

その瞬間——

ゴォォッ!!

背後から、水の塊が押し寄せた。

「っ……来るぞ!!」

蓮の声が飛ぶ。

振り返る暇はない。

蒼真は歯を食いしばった。

「離すなよ!!」

言葉と同時に、水の塊が叩きつける。

ゴォォォッ!!

視界が一瞬で白く弾けた。

「っ——!!」

衝撃で身体が持っていかれる。

足が浮き、流される。

——まずい。

蒼真は反射的に腕に力を込めた。

掴んだ手は、小さくて、冷たい。

「離すな!!」

叫びながら、逆流するように身体を捻る。

だが水の力は想像以上だった。

足場は完全に消え、身体ごと流された。

「蒼真!!」

蓮の声が飛ぶ。

次の瞬間——

ガンッ!!

背中に衝撃が走った。

流された先で、半分沈んだガードレールに叩きつけられたらしい。

「ぐっ……!」

肺の空気が一気に抜ける。

だが、腕は離さない。

絶対に。

「……掴まれ!!」

蒼真は無理やり体勢を起こし、子供の腕を自分の肩に引っ掛けた。

流れが強い。

このままじゃ持たない。

「神代!!ロープ!!」

白石の声が聞こえた直後、空気を裂く音。

バシュッ!!

投げられたロープが水面を叩く。

「蒼真、右だ!!」

蓮の指示。

蒼真は歯を食いしばりながら、片手を離しロープを手繰り寄せた。

一瞬でも気を抜けば終わる。

それでも——掴む。

「っ……!」

ロープを握った瞬間、腕に激痛が走る。

握力はもう限界に近い。

それでも、引く。

「引け!!」

蓮の声が飛ぶ。

上流側で白石と雨宮が同時にテンションを掛ける。

水に引かれる力と、上から引く力。

身体が軋む。

「はぁっ……はっ……」

息が荒い。

だが、少しずつ位置が動き、蒼真が蓮達のそばまで辿り着いたその時だった。

「……まだいる」

蒼真が呟いた。

「何?」

蓮が聞き返す。

蒼真の視線は、流れの先を捉えていた。

屋根の上。

取り残された数人の影。

水位は、すぐそこまで来ている。

「……クソ」

時間がない。

「蓮」

短く呼ぶ。

一瞬の沈黙が部隊に流れたかに見えた。

「分かってる」

蓮は即答した。

「一旦この子、上げる。その後、奥行く」

「ああ」

躊躇はない。

ロープに引かれながら、蒼真は視線を離さなかった。

屋根の上。

取り残された人影。

水位は、もう足元を舐めている。

「……上げろ!!」

蒼真が叫ぶ。

子供の身体を押し上げる。

上で白石と雨宮が引き上げ、奏が必死に手を伸ばす。

「来い!!」

小さな身体が、水から引き剥がされる。

その瞬間。

蒼真の身体が一気に軽くなった。


——行ける。


蒼真はロープを強く握り直した。


「離せ!!」

「了解」

蓮が即座にテンションを緩める。

蒼真はその反動を使って、再び水の中へ飛び込んだ。

「蒼真さん!!」

奏の叫びが背中に刺さる。

だが、止まらない。

水を蹴り、流れを横切る。

屋根へ辿り着くには、直線じゃ無理だ。

「……流れ」

独り言のように呟き、角度を変える。

濁流に身体を預け、斜めに進む。

一歩、誤れば終わる。

それでも——

屋根に手が届いた。

「……っ!!」

瓦を掴み、強引に身体を引き上げた。

水がすぐ下を削り取るように流れている。

屋根の上には、三人。

顔面蒼白で固まっていた。

「動けるか」

短く問う。

「む、無理です……」

震える声。

蒼真は息を整えながら、すぐに判断を下す。

「順番に行く。指示通り動いてくれ」

返事を待たない。

迷わせる時間はなかった。


——同時刻。

救護班。

水際ぎりぎりに設置された簡易拠点。

麗華は濡れた手袋を引き抜き、新しいものに替えた。

「次、低体温疑い。体温測定急いで」

指示は短く、的確だった。

だが視線は、何度も同じ方向へ向く。

濁流の向こう。

第一特務遊撃隊のいる区域。

「……遅い」

小さく呟く。

救護班員が顔を上げた。

「え?」

「いいえ、何でもない」

すぐに表情を戻す。

だが指先に、ほんの僅かな力が入る。

水位が、また上がった。

「……嘘でしょ」

誰かが呟く。

流れが変わっている。

さっきより速く、強い。

麗華の目が鋭くなる。

「全員、搬送準備を前倒し。いつでも引けるように」

「了解!」

声が飛ぶ。

それでも——

視線は外れることがない。

「……帰ってきなさいよ」

誰にも聞こえない声。

だが、その言葉だけがやけに重く残った。


——再び、屋根上。

「次、来い!!」

蒼真が一人の腕を掴む。

ロープを体に回し、固定。

「絶対離さないで」

恐怖で震える相手の目を真っ直ぐ見る。

「俺が引き上げる」

その一言で、相手の呼吸が少しだけ落ち着いた。

「……行け!!」

合図。

上からロープが引かれる。

一人、また一人。

確実に数を減らしていく。

だが——

ゴゴッ……

低い音が響いた。

「……み…水が…」

最後に残った一人が震えた声を出す。

蒼真も気付いていた。

屋根が、沈んでいる。

水位が上がって来ていた。

想定より早い。

「……時間ねぇな」

吐き捨てるように蒼真は呟いた。


最後の一人。

ロープを回す時間すら惜しい。

蒼真は迷わなかった。


「捕まれ」

「え……」

「いいから来い!!」

そのまま腕を引き寄せ、肩へ担ぎ上げる。

「っ……!!」

体勢が崩れる。

水がもうすぐそこまで来ている。

「蓮!!」

蒼真が叫ぶと

「引くぞ!」

蓮は即答だった。

ロープが張ったその瞬間、屋根が崩れた。

バキッ!!

足場が一気に抜ける。

「っ……!!」

蒼真は反射的に身体を捻った。

肩に担いだままの重さを、無理やり引き上げる。


下は、濁流。

飲まれれば終わりだ。


「離すな!!」

自分にも、相手にも言い聞かせるように叫ぶ。

足場はもうない。

完全に宙吊り。

ロープ一本に全てを預ける形になる。

「引け!!」

蓮の声。

上で一斉にテンションがかかる。

だが——

ゴゴッ……

さらに大きな音。

「また来るぞ!!」

白石の声が飛ぶ。

上流から、濁った水の塊が迫っていた。

「蒼真さん!!」

奏の叫び。

時間がない。

このまま引き上げられるか——

否。


間に合わない。


「……っ」

蒼真は一瞬で判断した。

ロープを握る手を、わずかに緩める。

「何してる!!」

蓮の声が鋭くなる。

「このままだと巻き込まれる!!」

言葉は短い。

だが意味は明確だった。

一度、流れに乗るしか方法はない。

「バカが!!」

蓮の怒声が響いた。


だが、止めない。

止められない。


蒼真はそのまま身体を落とした。

「うぉぉぉぉ!!」

水に叩きつけられる。

衝撃で視界が揺れる。

だが、離さない。

担いだまま、流れる。


流されるのではなく——

さっきと同じく流れを使うんだ。


「……右だろ」

歯を食いしばりながら呟く。

流速、角度、地形。

全部頭に入れる。

次に掴める場所を探す。


——あった。


「っ!!」

手を伸ばす。

沈みかけた街灯の柱。

ガンッ!!

掴む。

腕に激痛は走ったがそれでも離さない。

身体は振られているが、止まった。

「……はっ……」

息が荒い。

だがまだ終わりじゃない。

「蓮!!位置変えろ!!」

叫ぶ。

「東側、街灯!!」

一瞬の沈黙。

そして——

「……見えた!」

蓮の声が返る。

「全員、再固定!!」

上で一斉に動きが変わる。

ロープの角度が変わる。

今度は、引ける。

「引くぞ!!」

「来い!!」

蒼真は叫び返す。

腕が軋む。

限界が近い。

それでも——

「……離すかよ」

一歩ずつ、引き上げられていく。

水が、すぐ下を流れている。


数秒。

だが永遠みたいに長い時間。

そして ーー手が届く。


「掴め!!」

白石の声。

蒼真は最後の力で腕を伸ばす。

白石の腕をしっかり掴むと奏もやって来て2人の力に引かれた。

身体が地面に叩き上げられた。

「はっ……はっ……」

肩の重みが消える。

救助対象が引き離され、奏が抱きかかえる。

「生きてる!!」

その声で、やっと息を吐いた。

空を見上げる。

雨はまだ止まない。

横で、蓮が立っていた。

「……お前な…」

低い声。

蓮の顔がめちゃくちゃ怒ってる。

でも——

ほんの少しだけ、笑っていた。

蒼真は息を整えながら言う。

「……間に合っただろ」

「ギリギリだ」

「十分だろ」

短いやり取り。

だが、全てが詰まっていた。


——同時刻、救護班。

「来た!!」

隊員から声が上がった。

担架が走り、テントへ滑り込む。

麗華はすでに動いていた。

「こっち!!」

救助者を受け取り、即座に状態確認に入る。

脈、呼吸、体温。

「……大丈夫、生きてる」

小さく呟く。

その直後、誰かの視線を感じた。

びしょ濡れで、息を荒げている蒼真だった。


——無事。


ほんの一瞬だけ。

本当に一瞬だけ、麗華の表情が緩んだ。

「……遅い」

それだけ言う。

蒼真は少しだけ笑った。

「悪い」

いつも通りのやり取り。

でも——

その一言で、全部伝わっていた。


サイレンの音が、少しだけ遠のいた。

さっきまで耳を塞いでいた水音も、ようやく落ち着きを見せ始める。

「……この区画、以上だ」

蓮の声が無線に落ちる。

『了解、第一。各機関と連携して撤収準備に入ります』

それだけで、現場の空気が変わった。


——終わった。


張り詰めていた何かが、一気に緩んだ。

「はぁ……っ」

蒼真はその場に座り込んだ。

全身が重い。

いや、正確には——

「……腕、終わった」

力が入らない。

握る感覚が、ほとんど残っていなかった。

指を伸ばすことも曲げることも出来なかった。

「おい」

蓮が覗き込む。

「動けるか」

「無理」

即答だった。

「マジで無理」

両手をあげずにそのまま掌を見せる蒼真。

ふやけた皮膚、擦れた跡、微かに震える指先。

「……やりすぎだろ」

「普通だろ」

「その“普通”が異常だって言ってんだ」

軽くため息をつく蓮。

「お前だって、同じだろ」

疲れきった顔で蒼真は笑った。

その時だった。

「蒼真さん!!」

奏が走ってきた。

びしょ濡れで、顔だけやたら元気だ。

「やばかったっすよ、さっきの!!死ぬかと思ったっす!!」

「俺もだよ」

「え、嘘っすよね!?」

「いやマジで」

即答。

「副隊長でもそういうことあるんすね!?」

「あるに決まってんだろ」

そのやり取りを横で聞いていた白石が呟く。

「いや、普通は死ぬよw」

そんな白石の軽口が今はありがたい。

その空気を切るように、

「手、見せて」

低い声が落ちた。

全員の動きが止まった。

振り向かなくても分かる。

「……麗華」

「見せなさい」

有無を言わせない声。

さっきより低い。

むしろ、少し怒っているようだ。

蒼真は無言で掌を差し出した。

麗華はそれを取る。

一瞬、止まる。

「……何これ」

冷静な声なのに、ほんの少しだけ震えている。

「ロープの痕」

「それは、分かる」

即答。

そのまま救護班員から処置キットを受け取る。

「消毒する」

「消毒、痛いから嫌だ」

「する」

「……はい」

強制。

周りがニヤつく。

消毒液が触れた瞬間——

「っ!!」

「うるさっ」

「だって、痛ぇんだよ!!」

「我慢しなさい」

容赦ない。

でも手つきは、驚くほど丁寧だった。

包帯を巻きながら、麗華がぽつりと呟く。

「……無茶したわね」

「してねぇって」

「してる」

短い応酬。

だが、その後に続いた言葉は小さかった。

「……でも」

一瞬だけ、手が止まる。

「無事でよかった」

それだけ。

蒼真は少しだけ目を逸らした。

「……当たり前だろ」

いつもの調子で返す。

でも声が少しだけ低い。

横で見ていた奏が小声で言う。

「……やっぱこの2人いいっすね」

白石が即座に奏の頭を叩いた。

蓮はそれを見ながら、ふっと息を吐いた。

「……撤収だ」

その一言で、全員が動き出す。

だが蒼真は立たない。

「おい」

「……動けねぇ」

「腕か」

「腕」

一拍。

そして——

「……背負うか?」

蓮が言った。

一瞬の沈黙。

「やめろ」

即答だった。

「それだけはやめろ」

「そうか」

少しだけ笑う。

「じゃあ、肩は貸してやる」

結局、蒼真は自力で立ち上がれず、蓮に支えられながらなんとか立ち上がった。



足元はまだ水に濡れている。

空は、まだ曇っていた。

それでも——

全員、生きている。

それだけで、十分だった。





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