第2話 雨の帰還
雨は一気に勢いを増した。
数秒前まで視界を保っていた渓谷が、灰色の幕に閉ざされていく。
岩肌を打つ雨音が激しく響き、水量も目に見えて増していた。
「蒼真、急げ」
蓮の声が無線から飛ぶ。
ーピピッ。
「分かってる」
短く返した蒼真は、胸元に固定した子供の頭へ自分の顎を寄せた。
「寒いよな〜、でももう少しだけ我慢してな。お兄さん頑張るからね」
子供は震えながらも、小さく頷く。
その手には、まだ花が握られていた。
蒼真は息を整えると、濡れた岩壁へ足を掛けた。
一歩。
二歩。
ロープを引き、体を持ち上げる。
胸に守る命が一つ増えただけで、重さは数字以上に違った。
「副隊長、右上の岩、滑ります!」
奏の声が聞こえる。
「見えてる」
蒼真は呟くと即座に左へ重心をずらし、別の足場へ飛び移る。
「わっ……」
子供が小さく声を漏らし、蒼真はすぐ背を撫でた。
「大丈夫、落ちない」
上では白石と雨宮がロープを制御している。
「テンション維持」
「了解」
白石が泥だらけの手でロープを引き、雨宮が角度を微調整する。
「あと八メートル」
淡々と雨宮が告げた。
「蒼真、急げ。上流の水量が増えてる」
蓮の低い声が無線から届く。
その直後だった。
ゴゴッ――
渓谷の奥で、岩が崩れる音が響いた。
濁流が勢いを増し、蒼真の足元へ飛沫が跳ねた。
「っ……!」
一瞬、足場が滑る。
ロープが大きく揺れ、上で奏が悲鳴を上げた。
「蒼真さん!!」
「騒ぐな、保持しろ!」
白石の怒声。
蒼真は腕力だけで身体を引き戻し、岩へ肘を叩き込むように体勢を立て直した。
子供を母親に届けるまでその覚悟は微塵も緩まない。
「行くぞ」
誰に向けて言ったのかは分からない。
滑る足場、雨で視界不良。
ーだが、進む。
誰も死なせない。
自分も死なない。
そこから先は速かった。
岩を蹴り、腕で引き、脚で押し上げる。
雨など関係ないとでも言うように、蒼真は一気に駆け上がる。
「はっ……はっ……」
数秒後。
上から白石の手が伸びるのが見えた。
「遅ぇよ!」
「うるせっ……!」
その腕を掴み、最後の一歩で地面へ転がり上がるとそのまま座り込んだ。
同時に奏が泣きそうな顔で駆け寄った。
「蒼真さぁぁぁん!!」
「うるせぇって……子供優先、代わりに固定とハーネス取れ。腕疲れた」
「了解っす!」
握力と腕力を使い切った感覚だ。
絶対に落とさない、落ちない。
その思いを込めて、登った。
子供が身体から離れたタイミングで上を見上げた。
麗華がすでに毛布を広げ、救護班と共に到着していた。
「引き継ぎます」
「頼んだ」
子供を受け取り、麗華は素早く体温確認へ移る。
「お母さん……」
子供のか細い声に、少し離れた場所から女性の泣き声が上がった。
「勇気っ!!」
母親が駆け寄り、涙を流しながら我が子を抱きしめる。
その手の中に、潰れかけた花が見えた。
ー良かった。
名前の通り、とても勇気のある子だった。
ーピピッ。
『蒼真』
無線から蓮の声が飛んできた。
『上出来だ。……俺ならもっと早く登ったけどな』
蒼真は鼻で笑った。
ーピピッ。
「うるせぇよ、隊長様」
いつもの軽口で蒼真は無線を飛ばし返した。
撤収作業が始まり、各機関が慌ただしく動き出す。
その中を、救護班の車両から麗華がこちらへ歩いてきた。
雨具を羽織っていても分かる、真っ直ぐな歩き方。
第一特務遊撃隊車両付近で座り込む 蒼真の前で立ち止まると、彼女はしゃがみ込んだ。
「腕、見せて」
「別に平気」
「見せなさい」
「……はい…」
有無を言わせぬ声だった。
蒼真は渋々、両手を差し出す。
ロープ摩擦で赤く腫れ、皮も少し剥けていた。
ぶつけた肘からは出血もしていた。
麗華は眉を寄せる。
「……無茶したわね」
「してねぇよ。普通だ」
「あなたの普通は信用ならないの」
救護班員から受け取った軟膏を丁寧に塗り、肘は消毒し包帯を巻いていく。
その手つきは驚くほど優しかった。
奏が遠くから叫ぶ。
「蒼真さん! 麗華さん独占ずるいっすー!」
白石が即座に後頭部を叩く音がした。
蒼真は小さく笑った。
「……あいつ、うるさくて仕方ねぇ…」
「元気でいいじゃない」
包帯を巻き終えた麗華が、ふっと表情を和らげる。
そして誰にも聞こえない声で言った。
「……かっこよかったわよ」
蒼真の動きが止まる。
「……え?」
「二度は言わない」
立ち上がって去ろうとする麗華の手首を、包帯だらけの手で思わず掴んだ。
「……今日も行く」
麗華は振り返らずに答えた。
「住み着いてるのに、今さらその確認いる?」
雨音の中、蒼真の耳だけが少し赤かった。
「……やっぱ同棲してるんすね」
奏が何故が目を輝かせている。
「同棲じゃなくて、住み着いてるらしいぞ」
雨宮が冷静に呟く。
「もう引っ越せって」
呆れた蓮の顔だ。
「ってか、籍入れろ」
白石の追撃が腕の痛みよりも蒼真に1番のダメージを与えた。
本部庁舎へ戻り、帰還報告を済ませ、蒼真は麗華を迎えに行くために今回の活動報告書の作成にすぐに取り掛かる。
まだ握力は戻っていなかったが、パソコンで作成なので問題はなかった。
蓮は戻ると会議に遅刻だ。とダッシュで部屋を出ていった。
隊長と副隊長になってからの業務量は隊員時代よりも格段に増えていた。
加えて…蓮は本部戦術部、副主任、蒼真は各戦闘部隊統括を任されている。
時には睡眠時間を削る事も多くなった。
それでも、麗華と過ごす時間を削りたくはなかった。
各部隊統括責任者の蒼真の元には他の部隊の1日の活動報告書が上がってくる。
まだそれには時間がありそうだなと、蒼真は席を立った。
向かった先は、喫煙室だった。
喫煙室内には蓮が書類を睨みつけながらタバコを吸っていた。
「何、まだ会議終わんねぇの?」
電子タバコを取り出しながら蒼真が問いかけた。
電子タバコを取り出す手が僅かに震えて居るのを蓮は見逃さなかった。
2人は忙しさから、いつの間にか過剰な糖分摂取とマヨネーズ摂取の時間がなくなり、少しの空き時間にタバコを吸うようになっていた。
「…終わったけど…予算で上がごねてる。手、力入んねぇの?」
タバコの灰を落としながら蓮が言う。
「でもよー適正予算だろ…。明日には手は治るだろ」
「それはお前が猿だからか?」
バカだろ。と蓮が笑った。
会議続きでげんなりしていた蓮の表情が明るくなった。
俺は猿じゃない。と蒼真は怒っている。
忙しさと隊長、副隊長のオフが重なる事も滅多に無くなってしまい、組み手をする時間も減ってしまった。
部隊の部屋でもどちらかが不在の事が多く、すれ違いだ。
この喫煙室だけが2人がゆっくり話す時間となっていた。
ある任務終わりに鷹宮隊長にここに連れて来られた。
橘が先に吸っていて、うるさいの連れてくんな。と嫌そうな顔をされた。
“任務終わりの一服、美味いぞ。糖分とマヨネーズよりいいぞ”と唆された。
蓮は橘の火をつけるタバコをもらって蒼真は鷹宮の電子タバコだった。
それから任務終わりは隊長にくっついてここに来て、任務中のフィードバックを貰ったり、書類地獄から逃げる口実に通ってしまった。
「まぁ、こうなる未来が鷹宮隊長には見えてたんだろな」
「俺らが忙しくなるってなー。次期総統候補ナンバー2の黒瀬蓮は大変だ」
「お前だってナンバー3だ」
「……なんか、昔は天音の後を継ぎたかったけど、忙し過ぎて今は分かんねぇ」
はっと蒼真は笑った。
ーブブッ。
電子タバコの終了の合図だ。
切り替えて報告書の時間だ。
「戻るか」
「ああ」
大人になって、語らう時間は減ってしまった。
それでも約束を胸に2人は歩き続けていた。




