第4話 黒
最近、部屋にコバエが多いので、ラケット型の虫をやっつけるやつ買いました
意気揚々と構えたとたん、虫の姿が見えなくなりました。でも小説を書くのは好きです。
しばらく家のそばの目立たないところでさりげなく待ち構えていると、ほどなくして一人のおばさんがパンパンに膨れ上がったエコバックを手に笹島家へと入って行くのが見えた。
「帰ってきたようだな」
帰ってくるなり尋ねていくと待ち構えていたのかと怪しまれるので(実際待ち構えていたのだけれど)少し時間をおいてからインターフォンを押した。
バタバタと音がして出てきたのはさっきのおばさん、人を見た目で判断してはいけないとは言うけれど、かなりふくよかでワイドショーが好きで文句たれで、何かあったらすぐお店にクレームを入れるような、人当たりが悪く怖くてとっつきにくそうな人だとお見受けした。
ドアを開けたら玄関に見知らぬチンピラとひ弱な青年が立っていたのだ、かなり警戒して俺たちを見るその目つきに嫌悪感を抱いてしまう俺、こういうタイプの人は苦手だ。
錦灘氏はとりあえず自己紹介をして、ギャラリー芝の名前と、そこに持ち込んだ絵の事で聞きたいことがあると伝えると、渋々だが玄関へは入れてくれた。
しかし、入れてもらえたのはここまでで、この先は上がり框に座り込んだおばさんが結界となり入れそうになかったので、男二人が何とか入れるくらいの狭い玄関で話をすることになった。
錦灘氏がその場にしゃがみこんだので、俺はその後ろの狭いスペースで立ったまま話を聞くことにした。実はさっき錦灘氏に「俺が話をするからお前は黙っていろ、余計な事は何も言うな」ときつく言われていたので、俺は静かにそれに従う。
玄関にはおばさんの脱ぎ捨てた小汚いサンダルがあっち向きこっち向きで転がっていたのを錦灘氏がさりげなく揃えたのを見て、おばさんは一瞬気まずそうな表情を浮かべたがその後は見て見ぬふりだ。
おばさんの背後は、二階へ通じる細い急な階段、その横は奥の部屋に通じる薄暗い廊下、何かを飾っている様子もない、外見が平凡なら中も平凡でつまらない。
ふと下駄箱の上に目をやるとみっしりと埃が、手を置こうとしたけどひっこめた、もう少しちゃんと掃除しろよ。
「あの絵のモデルは、以前ここに住んでいたサクラさんというお嬢さんでまちがいないですね?」
錦灘が話を切り出した、笹島夫人は「え、えぇ、まぁ」とあいまいな返事。
「あの絵の女の子と、あなた達とは、どういう関係だったのでしょう?」
夫人はいぶかしむような表情で錦灘氏を睨みつけたが、すぐに諦めたような表情に変わり、話し始めてくれた。やくざの一睨みってやつか?
「夫の弟の子だったのよ」
夫人の話によると、笹島主人とサクラさんの父親、この兄と弟はすごく仲が悪かったという。
それというのもサクラさんの父親がとんでもない人で、何かあるたびすぐトラブルを起こし、暴力だの事件だのと、警察が絡んでくることも少なくはなかった、そのせいで周りや親戚中にも迷惑をかけまくり、仕事も定まらず、いたるところに借金をし、そのおかげで笹島一家も周りから攻められ、年老いた両親も相次いで亡くなり、積もり積もった恨みは計り知れないものがあるという。
その後、弟は、サクラさんの母親となる女性とデキてしまいサクラさんが生まれたのだ、子どもが幼いころは弟も大人しくしていたというが、母親が幼いサクラさんを残して男と消えた途端にまた荒れだした。
幼いサクラさんに暴力は振るうわ何日もほったらかしで遊びに行くわで「何度家で面倒見たかわからないわ」と夫人はため息をつく。
おや、最初のイメージとは少し違うぞ、笹島夫婦が暴力をふるっていたんじゃないのか。
サクラさんを預かっている時も、父親が何度か来たらしい、そのたびに主人と口論になって大変だったのよと夫人は言う。
近所の人が聞いたという怒鳴り声はこの時のものだったのかも。
暴力をふるう父親からサクラさんを守っていたのか「サクラを返せ!」と怒鳴りこむ酔った父親に「お前みたいな奴にサクラは渡せん!」「なんだと、俺は父親だぞ!」「父親なら父親らしくしたらどうだ、この子が可哀そうだと思わんのか‼」とか、ダメ親父から可愛いサクラさんを守る笹島夫婦の図、を想像してしまった。すると夫人が言う。
「いつも金の無心だったのよ、まったく、子供の面倒くらい自分で見ろってのよ!」
「え?」
守っていたんじゃ無いのか「金を出せ」「やらん、それよりこの子を何とかしろ」「知るか、お前らが面倒見ろよ」「冗談じゃない、お前の子だろうが!」って、何だそれ、サクラさんの押し付け合いなのか、その怒りの矛先が家庭内暴力となってサクラさんへと向いたのか?
「あら、いやだわぁ人聞きの悪い」
夫人の顔が急にひきつって俺を見た、その瞬間錦灘氏の肘鉄を足にお見舞いされた、また知らぬ間に口に出していたのか?ごめんなさい。
でも、図星みたいじゃないか。
それにこれは俺の想像だが、この汚くて雑草の生えた玄関や下駄箱の埃、きっと掃除全般をサクラさんに押し付けていたに違いない、で、少しでも埃が残っていたりなんかしたら殴るとか夕飯抜きにしたとか。今はもう掃除をしてくれる人もいなくなったのでこんな有様に……
だったらこの笹島夫婦は百年絶食の刑だ!と強く強く心の中で、うん、しゃべってない大丈夫。
「仕方ないじゃない、実の親子じゃないんだし、それにあの子がいるせいでまたあの父親が来るともしれないって事でね、守る意味でも施設に預けようともしたのよ」
悪びれることなく言ってのけた。
しかし施設側は、この笹島夫婦に面倒を見させようとあれこれ理由を付けて、またサクラさんを押し付けてきたのだという。
「それがまたウザくてねぇ、いえね、私はね、面倒を見てあげても良かったのよ、でもうちの人がねぇ……」
まるで、私は善人ですよと言いたげに、太い体をゆすっている。
「でも、中学卒業までは何とか我慢して面倒見ないといけなくなって仕方なくて」
しかし本当に善人なら我慢するだの仕方ないだの言わない。
酷い話だ、だってサクラさんは何も悪くはない。むしろ近所では評判のいい優しくていい子だったんだろ、この家での生活はどんなに酷い環境だっただろう、想像したら――俺ならグレるぞ。
「それで、中学を卒業したサクラさんをどうしたんですか?」
中学を出るまでは面倒を見る、と言った笹島夫人、そこを錦灘氏に聞かれて、笹島夫人は。
「だってねぇ、あの子だってもう一人でやっていけるだろうし、それにこれ以上この家に居てもねぇ、世間体もあるし」
「そう言って追い出したんですか?」
「まだ高校生になったばかりの女の子を⁉」
錦灘氏に続いて俺もつい叫んでしまった。追い出したってどういう事!
「いいじゃない、あの子が住める安いアパートは探してあげたんだから感謝するべきじゃないの‼」
「その後の生活費は出していたのかよ!」
「何よ、他人のあんたたちにとやかく言われる筋合いはないわよ、それにもうあの子は死んだんだからいいじゃないのよそんな事!」
死んだからもう済んだ話だとかそういう問題じゃない、横から錦灘氏の止める声が聞こえたけれど、スイッチの入った俺はもう止まらない。
「良くないだろ、あんないい子を殴り殺しておいて!」
「冗談じゃないわよ!何を証拠にそんな事、あの子は病気で死んだんだ、何なら診断書見せてやろうか!」
「診断書が何になるって言うんだ、それでもお前たちは血の通った人間か!」
「うるさいわねぇ、これ以上変なこと言うと警察呼ぶわよ‼」
「あぁ、呼ぶならサッサと呼びやがれ、この人殺――」
俺はこのババァに何を言われても引き下がるつもりはなかったのだが、錦灘氏にラリアットを喰らって引っ張られて止められて笹島家を後にしたので、これ以上何も出来なかった。
「落ち着けトド、これ以上怒鳴りあっても何も解決しねぇ、むなしいだけだ」
「それはそうなんだけどさぁ、でもこれじゃぁあんまり……」
何という酷い叔母さん、それに何という酷い叔父さん、こんな夫婦の下で虐げられながら暮らせというのも酷な話しかもしれないけれど、それにしてもなんだよこの理不尽な話は。
もっと酷いのは、この子を産んでおきながら育てようともせず捨てた母親だろうか、父親でありながら父親らしいこと、それ以前に人としてどうかと思う父親はもっと酷い。こいつのせいでサクラさんは酷い目に合ってきたのだから。
その上助けようとしなかった施設、お役所仕事は国民を困らせるためにあるのか!
なんだこれ、この世界は一人の女の子を救う事も出来なかったのか。
俺は腹が立つやら情けないやらでもうどうしていいかわからず、ブチブチと文句を言っていると、錦灘氏が。
「もう泣くな、泣いたって俺たちにはどうすることも出来ねぇ」
錦灘氏がハンカチを取り出してくれたけれど、受け取る前に急いで袖口で目をこすった、泣いてるとか恥ずかしい、ましてこんな路上で。
すると錦灘氏は、ハンカチをポケットにしまいながら、右の口角をぐっと上げた。
「俺たちに何も出来ねぇ分、あの家にタチの悪い霊体を二三体置いて来た、それをどう使うかはあいつら次第だ」
「はい?」
「きっと今夜からクレージーで過激で素敵な夜を過ごすことになるだろうな、だからこれで勘弁してやってくれ」
振り返ると笹島夫婦の家が遠くに見えた、何という事でしょう、錦灘氏はチンピラの他にそのような事までできてしまうのですね。その笑顔が悪魔に見える。
俺は思った。この先どんなに世界を敵に回すようなことがあっても、このチンピラさんだけは敵に回さない様にしよう。と。
それはそれでいいとして、車に戻ってから急に不安になった。
「でも、これからどうするんですか?」
サクラさんの哀しい生い立ちを聞いて喧嘩して帰ってきました、だけじゃあ何の成果にもなっていない、まだ肝心なことが分かっていない。
錦灘氏はしばらく考えていた様子だったが、やがて。
「高校の学費は、誰が払っていたんだろう」
そう言われればそうだ、あの叔父叔母夫婦が払っていたのかな、そんな風には見えなかったし、自分で払うにしてもどうやって……。
「とにかく行ってみるか」
そう言って錦灘氏は車を出した、目指すは彼女が通っていた高校。もしかしたらあの絵を描いた人の手がかりもあるかもしれない。
校門から中庭を抜け校舎の玄関へとやって来た、何か話が聞けたらと思って期待を込めてまずは事務室に向かう。
ちょうど休憩時間だったらしく、あちこちでサクラさんと同じ制服の女子たちがワラワラしていた、生きていれば今頃はまだあの子たちと同じように楽しく過ごしていたに違いないのに。
しかし対応してくれた事務員さんからの返事は意外なものだった
「笹島サクラという生徒はこの学校にいませんよ」
俺たちのナリを訝しんで、個人情報は他人には公表できませんという以前の話だった。
そんな筈はない、もっとよく調べてくれ、笹島サクラ、おそらく一年か二年生、最近亡くなったけど、確かにここの生徒だったはず!
納得いかずに詰め寄ったが、データの入ったパソコンをカタカタさせても、どこをどう調べてもそのような名前の生徒は存在していない、たとえ亡くなったとしてもそのデータはちゃんと残している、と答えるばかり。
どういう事だろう、何も解らないまま時間はお昼、学校で話を聞くのは諦めて二人で牛丼屋に入った。
ここから先はどうしたらいいんだろう、何も考え付かない俺に、肉が隠れるくらい紅しょうがを入れながら錦灘氏は。
「あとは、病院に行ってみるかな」
そうか、入院したと言っていたから、そこで何か聞きだせるかもしれない、でも。
「――どこの?」
その瞬間、錦灘氏の手が止まる。
「どこだと思うよ?」
逆に尋ねられたけれど、この近辺だけでも大きいのから小さいのまでその数は多い、何処に入院していたかなんて俺が知るわけない――いや……。
「診断書貰ってくればよかったですごめんなさい俺のせいですごめんなさい」
そうだ、笹島夫人が言っていたサクラさんの診断書、見せてもらえばよかったんだ、あの時は頭に血が上ってそれどころじゃなかったから、今から戻っても、塩水を撒かれるかそれこそ本当に警察を呼びかねない。
「二回も謝らなくていい、過ぎたことはしょうがねぇやな」
さらに紅しょうがをぶち込んだ真っ赤な牛丼をかき込んだ錦灘氏とすっかり食欲がなえてしまった俺が食事を終え、車に戻り運転席に座った錦灘氏はエンジンをかけるでもなく、店からパクってきた紙ナプキンを取り出すと、何かを折り始めた。
こんな時に何やってんだと見ていると、一羽の鳥が出来上がった。
柔らかいナプキンなのに、折り紙の定番である鶴よりも複雑な形状ですごくリアルで、今にも動き出しそうに羽を大きく広げている、その鳥を錦灘氏は掌に載せ窓の外に出すと、鳥は羽をはばたかせて本当に飛び立った。
「――何ですか、今の?」
目をまん丸にして口ポカンな俺の質問も無視して、エンジンをかける。
白い鳥は車の前方の上空をグルグルと旋回した後、羽根をはばたかせて、風に乗るように飛んで行った。
「俺の使い魔だ、ああやって実体を持たせてやると現れるんだ、サクラの痕跡を探すのは彼女にやってもらえばいい」
鳥の後を追うように車を出しながら話してくれた。
ごめんなさいちっぽけな俺の脳みそでは理解できませんでした。
使い魔て何?ラノベの世界でしか聞いた事無いぞ、今のは鳥の形に折られたナプキンが風に飛ばされていったようにも見えなくも無いです……
ナプキン鳥は、もうどこかへ飛んで行ってしまい姿は見えないのだが、錦灘氏は迷うことなく車を走らせる、時に右折や左折やらしながら。
「分かるんですか?」
「分かるよ」
「じゃぁ、もう、先生に全てお任せします」
「おう、任せろ」
自信に満ちた錦灘氏の横顔を見て俺は考える事をやめた。
車はやがて広い駐車場に入って行った、そこはすでに他の車で満員御礼の状態だったが、錦灘氏は迷うことなく奥へと入って行った、そっちへ行けば行くほど入り口に近いので空いているスペースなどない様に思われるのだが、意外な場所に一台分だけ本当に空いていた。
そこに車を寄せていると、さっきのナプキン鳥が俺たちを待っていたかのように、スペースの脇に止まっているのが見えた。
車を降りると、ナプキン鳥はふわりと錦灘氏の差し出した指先に止まる、錦灘氏もお礼を言いながらその鳥を愛おしそうに撫でると、あたりにやわらかくて温かい気配が広がり、何かがゆっくりと離れて空に還ってゆく気配が俺にも感じられた――ような気がする。
それを見送るように空を見上げる時の錦灘氏、そんな優い表情もするんだ、と、感動にも似た感情を抱いていると、いつものチンピラに戻った錦灘氏から、もう動かなくなったナプキン鳥を渡された。
「よかったらやるよ」
「え……」
こ、これを俺にどうしろと、さっきまで動いていたとは思えないくらい普通のナプキンで折られた紙の鳥だ、大事に持っていなきゃいけない訳でもなさそうなんだけど、かといって捨ててしまうのも心苦しい……。
見上げるのは白い巨塔。
この地域で名のある大きな総合病院だ、ここにサクラさんも入院していたのか、そしてあの絵を描いた人も。
「とにかく行ってみるか」
中に入ると、ホテルかと見間違うほどの広くてきれいなロビーには多くの人でにぎわっていた。
受付もたくさんあって何が何だか解らない、俺たちは患者ではないし、この話を誰に何と説明すればいいのか迷う。
「心配いらねぇ、俺が話付けてくるからお前はここで待ってろ」
余裕の表情でそう言った錦灘氏は、俺を独り残して総合受付へと進んでいった、なのでここは錦灘氏に任せて、待合用の長椅子に座って待つことにした。
しばらく座っていると、二歳くらいの男の子を抱いた母親が俺の横に座った、その子は今診察を終えたばかりなのか、目に涙をいっぱい溜めて母親にしがみついていた。
小さな細い腕には包帯がまかれ、倍ほどの太さにされていて痛々しい、何でケガしたのかは知らないけれど、子どもは活発に動くからお母さんも大変だなぁ、なんて思いながら見ていると、ふと子供と目が合った。その瞬間子供は慌てた様子でクルリと頭を向こうに向けた。
その動きが可愛かったのでしばらく見ていると、また頭をこっちに向けて俺を見た、再び目を合わせるとまたクルリと向こうを向く。そしてまたそぉ~っと俺の方を見る。
うわ、なにこの子超可愛い。髪の毛が柔らかそう。
だから俺は、次にこっちを向いた時、持っていたナプキン鳥を出して見せた。
最初子どもは、まん丸な目をきょとんとさせていたのだが、俺が鳥のようにヒョコヒョコと動かして見せ、鳥なんだと気付いた瞬間、表情がぱぁぁっと明るくなった。
今度は子供の前で動かしてみせると、ものすごく興味を持ったようで、ちっこい手を伸ばしてきた、やっぱ子供ってかわいいなぁ。
母親が気付いて恐縮する中、俺は構わないと言って男の子に渡してあげた。すごく喜んでる。
使い魔さんも、このまま捨てられるよりも、たとえすぐボロボロになろうとも、こうやって少しでも誰かに喜んでもらえたら悪い気はしないだろう。
心がほっこりして錦灘氏の戻るのを待っていた俺、親子も名前を呼ばれて受付へと消えてしまい、手持無沙汰になってロビーの流れる人たちを眺めていると、ふとそこに、何やら異質なものを見かけた。
ふんわりとした黒いワンピース姿の女性が壁際に立っていた、俺の事をまっすぐにじっと見ている。
「え⁉」
彼女に気付いた俺が驚いて立ち上がると、その女性は長い黒髪をふわりとさせ、背を向けて立ち去ろうとする。
「ちょっと、待っ――」
後を追おうとしたその時、俺の手を誰かに捕まれた、錦灘氏だった。
「どうした、話付けてきたから、行くぞ」
でも、とさっきまで彼女が居た方を向くと、そこにはその姿はもう見えなくなっていた。
「どうした?」
俺の様子に気付いた錦灘氏が聞いてききたので俺ははっきりと言う。
「さっきそこに、黒髪で黒いワンピース姿のくるみさんが」
「何⁉」
そうなのだ、そこにくるみさんが居たのだ。
いや正確には、いつものふんわりした茶髪にフェミニン春色ワンピースの優しそうなくるみさんとは雰囲気の全く違う、黒いワンピースに黒い髪、目つきも鋭く気の強そうな、でもその顔はくるみさんそっくりだった。
「どこに行った‼」
俺よりも錦灘氏の方が驚いた様子でさっきまでくるみさんが居た場所へと駆け出す、しかしもうそこにはいるはずもなく、あたりを探してもくるみさんの姿はとうとう見つけられなかった。
錦灘氏は悔しそうに舌打ちすると、俺は胸ぐらを掴まれる。
「本当に見たんだな?」
このまま首を締めあげられるんじゃないかという恐怖で、俺は首がもげ落ちそうなくらい縦に振る、たとえもげ落ちてもここが病院だから何とかなるんじゃないかと思って。
もげ落ちる前に解放されたけど、今度は俺を睨みつけて。
「いいか、次にそいつを見つけた時は、何でもいい、絶対に捕まえろ、いいな‼」
この様子は尋常じゃない、いったい何がどうなっているか解らないけど、さっきのくるみさんは、いつものくるみさんとは違う人なのかな、全く同じ顔だったけど雰囲気はまるで違うし、もしかしたら双子なのかな、生き別れとか。
余計な詮索はするなと言われているので、俺がどんなに想像力を豊かにしても、錦灘氏は何も教えてはくれないだろう、とにかく次に彼女を見たら捕まえればいいんだ、捕まえて話を聞き出してやる。
そう決意を固め俺は、エレベーターに乗り込む錦灘氏の後を追った。
エレベーターを降り、どうやらナースセンターに向かうようだ、点滴をぶら下げたスタンドを連れて歩く患者とすれ違った。
消毒液の匂いと混じって俺の鼻腔をくすぐるのは、生命という名の香しき匂い。こんなに大きな病院に来たのは中学の頃、俺が盲腸で入院して以来だ。
『面会謝絶』と書かれた病室がある。
廊下の隅で泣いている人と、慰めている人がいる。
看護師さんが早足で廊下を歩く。
救急車のサイレンの音がかすかに聞こえる。ここは戦場だ。




