第3話 コスモス
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「なんだ、うるせーなー」
寝起きの錦灘氏がのっそりとリビングにやって来たのは、俺が上げた悲鳴を聞きつけたからだった、まだ眠そうな目をこすりながら、髪には寝ぐせも付いている。
くるみさんも出てきてくれた。
そこで二人が見たものは、驚きのあまり腰を抜かしている情けない恰好の俺と、リビングに現れた二人に笑顔を向ける女子高生だった。
「あら可愛い」
くるみさんも、この女子高生に笑顔を返す。
百四十センチくらいの小柄なセーラー服姿の女子高生、凛とした艶やかな唇、肩まで伸びた黒い髪は艶があって柔らかそうだし、キラキラと輝いた瞳は好奇心いっぱいだと言わんばかりにクルクルと動かし、思わず可愛いと言ってしまうのも理解できる。
が、問題はこの子がそこにあるカンバスから飛び出してきたという事だ。
「だ……がっ、ど、どっ、でぇ……」
今でも信じられない、口だけが痙攣したように動くだけで言葉にならない、床にしりもちをついたまま動けずにいると、女子高生は近づいてきて心配そうにのぞき込んできた。
「どっ、がっ、わ、わあぁ……」
俺は変な声を発しながら、両手を顔の前で振り回し、頭をかばうように体を縮こませる。
「おいおい、その態度はさすがに傷つくだろうが?」
そんなこと言われても、だってこの子は……。
「よしよし、大丈夫よ恐くないからね」
くるみさんが優しそうな声をかけてきたので俺は少しだけ緊張を解いて、そっと目を開けて周りの様子を見た、くるみさんは怯えた様子の女子高生を引き寄せてなだめていたのだった。
いやいや、逆じゃね?
「おめーも、こいつが絵の中から出てきたくらいで、いつまでもビビってんじゃねー!」
いやいやいや、おかしーだろ、ビビるだろ普通!
「だ、だって、信じてもらえないかもしれませんけどね、だって、この絵の中からですね、こうやって……え?」
――錦灘氏、今なんて言った?絵の中からって、知ってた⁉
「見りゃ分かるだろーが」
確かに、絵に描かれた女子高生と全く瓜二つの少女がそこに居るのだ、絵の中から出てきたと考え……る訳ねーだろ普通‼
錦灘氏はそんな俺の動揺など気にも留めないといった様子で少女に近付く、すぐそばにしゃがみこんで、その腕を取り、袖をめくりあげて感触を確かめるようにプニプニと触りまくり、その手を顔に寄せ匂いを嗅いだり、髪をすくい上げたり、またまた匂いを嗅いだり、右から左から全身をくまなくまじまじと見つめる。
知らない人から見たら、完全にセクハラですよそれ。
「成程、体温は無いが感触は普通の人肌のようだ、髪もサラサラでキューティクルもしっかりある、だがこの香りは油絵具だな、しかし目は見えている方向に動いているし、立派な自我が確立している」
あちこちセクハラしまくりながら独り言のようにブツブツつぶやく錦灘氏だった。
「実に不可思議で興味深い!」
やがて腰を上げると、錦灘氏は未だ座り込んだままの俺を見た。
「芝の野郎、この絵について他に何か言ってなかったか?」
「え、えっと……」
他にって言われても、昨日芝さんから聞いた事は全部伝えたつもりだったが、他に何か言っていたかな……
「とにかく、不明な点があったら、連絡しろと……」
「そっか」
不明な点って何だよ、今のこの状況の事か?
しかも何でこの二人はこんなにも落ち着いていられるんだよ。
「あらあら、ナダはトド君に何も説明していなかったの?」
俺の疑問を代弁するかのように、くるみさんが錦灘さんに問うている。
すると錦灘氏は、めんどくさそうな表情を浮かべて俺に言った。
「怖い話は大好きだったんじゃねーのかよ」
好きだけど、確かに好きだけど、そういう意味じゃない、リアルに起こるなんて聞いてないよお~ぉ~ぉ~ぉ~!
「仕方ない、芝に連絡を取る」
そう言って錦灘氏は北欧風のおしゃれなリビングボードの上に置かれていたメモ用紙を取り、何かを書きだした。
「手紙?」
「芝さんはね、電話を持っていないのよ」
くるみさんがそう教えてくれた。
「は?」
今どきそんな人いるのか、携帯は仕方ないとしてせめて家電とか。
手紙を書き終えて今度はリビングボードを開き、中から細長い棒のようなものを取り出した。
「何ですかそれ?」
「やだ」
俺の質問に答えるのがそんなに嫌なのかと思ったら、手に持っていたのは一本の矢だった、ちゃんと答えてくれていた。
その矢の先に、さっき書いたメモ紙を括り付け、リビングボードの横に立て掛けていた弓を取り出し、リビングの窓を開け、その窓から矢を放った。
うぃよんうぃよんといい音を立てて飛んでゆく矢を見送る、矢を放った錦灘氏の立ち姿がカッコいいなと考えたところでふと我に返る。
「え―――――っ!良いんですかそんなことして!」
「心配するな、ちゃんと届く」
そういう問題じゃない、だったらどういう問題なのかと言われても、矢は無いだろう矢は!
「しかたねーだろ、他に方法がねーんだからよ」
「だって、こんな住宅地で矢を撃ったら、誰かに当たって怪我するかもしれないじゃないですか!」
「あぁ、それは心配いらねぇ、ちゃんと芝のところに届くようになっている」
どういう原理なのか、ラジコン操縦なのか?それとも矢にレーダーが付いているのか?
とにかく俺の脳みそではこの状況をうまく処理できない。
「とにかく腹減った、飯はまだか⁉」
朝ご飯?この状況でできてるわけねーだろ!
「あぁ!使えねぇなぁ、ったく……」
ごめんなさいよ、作りますよ、作らせていただきますよ、まだ足がガクガクしているけれど。
とにかく俺はフラフラになりながらもキッチンに向かう、途中で女子高生が心配そうに駆け寄ってきたが、手を伸ばしてそれ以上近づかないでとアピールしながら、壁際をカニ歩きで進んだ。
「まったく、失礼な奴だなぁ」
「失礼とかそういう問題じゃないです!」
米を仕込む余裕がなかったので、三時のおやつに食べようと買っておいたクロワッサンを袋から出して、だから後は洋風のメニューに切り替える羽目になった、だし巻きはカボチャと玉ねぎも加えてスパニッシュオムレツにして、みそ汁は代りに豆腐とわかめのコンソメスープだ。
デーブルに運んで、それぞれテーブルに着く。
「いただきます」
いつもの朝の風景だ、昨日と違うところは、くるみさんの隣に得体の知れないオカルト女子高生が座っていることだ。
何で一緒に座ってんだよ……。
って言うか何で律義に四人分作ってんだよ俺。
「おいしい?トド君の作った朝ごはん、お口に合うかしら?」
くるみさんが、普通の少女に話しかけるみたいに、隣に座った女子高生に話しかけている、女子高生は上手にナイフとフォークを使ってオムレツを口に運んで一口食べた。
表情が美味しいと言っている。
「あらあら、この子お話が出来ないみたいですわ」
「声帯がねぇのかもな、トド、アフレコしてやれ」
「ワァイ、トンデモナイコトニナリマシター……」
何なんだこの状況、錦灘氏もくるみさんも何で普通にしていられるんだよ、と少々訝しみながらクロワッサンをもさもさと咀嚼していたら、どこからか風を切るような音が聞こえてきたかと思うと次の瞬間テーブルの上に矢が突き刺さった。
「来たか」
飛び上がるほどびっくりしたのは俺だけで、錦灘氏とくるみさんは平然とスープを飲んでいる。
空になったカップをテーブルに置いてから、突き刺さった矢を引っこ抜く錦灘氏。
矢の先には手紙が付いていた、しかも白い普通の封筒だ、錦灘氏が放った矢の先に付けたのはメモ紙だった、だからこれは他の誰かが意図的に付けてここへ向けて放った矢という事になる。
誰か、と言われても昨日のあの芝さんしか思い浮かばないけれど。
錦灘氏が封筒の中身を取り出す、複数の便せんが入っていた、そしてそれを静かに読む。
読み終えた分の便箋は俺の手元に回ってきた、読んでもいいのだろうかと思う前にそこに書かれていた文字が飛び込んでくる。おそらく筆で書かれたものだろう、達筆すぎて読めない。
まずは突然この絵を一方的に押し付けてしまったことを詫びる文章から始まって、この絵を手に入れた経緯が書かれている。と、錦灘氏が解読してくれた。
数日前中年の夫婦が、この絵を持ってギャラリー芝を訪ねてきた、夫婦は芝さんにこの絵を買ってくれと言った。夫婦は有名な画家の描いたものだと言い張るが、芝さんの鑑定眼は騙せない、上手に描かれてはいたものの、どう見ても素人の絵だ、素人の絵には値段はつけられないと返すと、怒って帰ってしまったのだそうだ、この絵を残して。
そういう訳で、芝さんはこの絵をここに持ってきた。
「どういう訳で芝さんはこの絵をここに持ってきたんですか?」
今の話では何も分からなかった。
「芝さんなりに感じるものがあったのよね」
「何をですか?」
くるみさんが当たり前のように言うけれど、俺には意味が解らない、すると錦灘氏が教えてくれた。
「訳アリの絵を見つけたら全部ここに持ってくるんだよ、芝の野郎は」
「訳アリ?」
パンにミミあり絵画に訳アリ。
いわくつきの絵という事だ。そうな。
例えば、人物画の髪が伸びたり、配置が変わっていたりはまだ序の口だと錦灘氏は説明する。酷いものになると騒がしく動いたり涙を流していたり、奇声を発していたり。
「キセイ⁉」
「玄関がやけに騒がしいと思って見にいったらね、芝さんが居て、ひまわりの描かれた絵を抱えて立っていたのよ」
「すげーぞ、花瓶に差してあった五本のヒマワリがにぎやかにしゃべってんだぜ、しかも何しゃべってるのか解らねぇ、関西のおばちゃんかよ!って突っ込んださ」
それどんなダンシングフラワー、そんな絵を抱えている芝さん、想像したら、うわぁシュールだぁ……。
知らなかった、絵画の世界にも稲川淳二バリの怪談があったなんて。
「そういうのよくある話なんですか?」
「他はどうか知らねぇが、芝の野郎が、こういういわくつきの絵が集まりやすい、引き寄せ体質なんだろうな」
引き寄せ体質、うん、厄介すぎる。
「それで、ここに持ち込まれた絵は、どうなるんですか?」
少なくとも今は奇声を発する絵なんかないぞ。
「すぐに祓ってやってる」
「祓う、んですか……」
やっぱ、ヤクザのひと睨みってやつかな?
「あぁ、殆どはその場で祓ってやれるものばっかりだからな、関西のおばちゃん達は少々面倒だったから一晩かかっちまったけど」
あぁ判るような気がする、関西のおばちゃんは手ごわいから……。
「だが、今回のように実体化して飛び出してきたというのは初めて見た」
「祓えない、んですか?」
「可哀そうだろ」
「いやいやいや、確かに可愛いから可哀そうだと思いますけど、けどそういう問題じゃないような気もしますけど⁉」
俺の強い抗議に錦灘氏は、少しうんざりしたような表情を見せた。
「今のは冗談だ、だがさっきも言った通り、俺だってこんなケースは初めてだから、どうやって祓ってやればいいかわかんねぇんだよ」
「祓えない、んですね?」
「……今は、な」
そう言って、錦灘氏は再び芝さんからの手紙を手に取った。
「この絵を描いた奴に会いに行く、話を聞いてそこから何か解決のヒントがあればなんとかなるかもしれない」
描いた人――その言葉に俺の心臓がドクンと跳ねた。
描いた人がいるんだ、そりゃそうだよな、でもこんなオカルトホラーな絵を描くんだ、どんな人物だろう。
芝さんからの手紙の最後に、この絵を持ち込んだという中年夫婦の連絡先が書かれている、そこから話を聞いて描いた人を探し出そうというのだ。
「よし、話は決まった、行くぞトド!」
「え、俺も行くんですか?」
「嫌か?嫌なら彼女と一緒に留守番していてもいいんだぞ」
「うっ……」
一瞬、絵から飛び出してきたオカルトホラー女子高生とくるみさんだけにしてもいいのだろうかという心配も心をよぎったけれど、今この二人はリビングのソファーに並んで座り、一緒にテレビを見ている。
くるみさんは大丈夫そうだけど、俺はあの瞬間を見てしまったという恐怖心もあって、未だ彼女にはなじめない、それにこの絵を描いたという人にもものすごく興味がある。怖いけれど会ってみたいという好奇心が勝つ。
「先生についていきます」恐いけれど。
という訳で、芝さんの手紙に書かれていた住所を頼りに俺たちがやって来たのは、とある住宅街。
車を横付けできそうにない細い道が続く住宅街だったので、近くのスーパーの駐車場に車を停めて、そこから二人でてくてく歩くことになった。
殺人級の暑さもようやく治まり、外を歩くのが気持ちいい季節になった、通りすがりの家の庭にも、コスモスが風に揺れている。
これから行く先に、あの絵を描いた人がいる、錦灘氏はその人と会って、そこからどうやって解決策を見つける気なんだろう。
って言うか、そもそも錦灘氏って何者なんだ?
歩きながら俺は、錦灘氏に尋ねてみた。
「先生って、霊感があるんですか?」
「あぁ、まぁな」
錦灘氏がそう言うタイプの人だったとは、今まで一緒に居て全く気が付かなかった。
「どれくらいです?」
「あー、どれくらいって言われてもなぁ……」
答えに困ってる、頭を書いて少し照れているようだ、見た目がチンピラだから可愛くはないけれど。
「やっぱ、俺には見えないモノとか見えちゃったりするんですか」
俺は、今までそういう心霊の類は、興味があるとはいえ、見た事も感じた事も無い。
以前錦灘氏に怪談は好きと言ったけれど、確かにホラー映画はよく見に行くし、心霊写真とか心霊ビデオを特集したチャンネルも好きだ、でもその程度だ、その夜はトイレに行くのが怖い。
「そうだなー、さっきそこの角に血まみれの女の人が立っていたぞ」
「えっ⁉」
俺は驚いて振り返る、お分かりいただけたであろうか、分かりませんでした。
「またまたぁ~そうやって驚かせようとするんだからぁ」
もう一度振り返る、やっぱり誰もいない。
「あんまり振り返るな、気があると思われてついてきちまうぞ」
「ひぃっ!」
全身に鳥肌が立った、そこに立っていると言われるのもヤバイが、付いてこられるのはもっとヤバイ。
「ヤバいイじゃないですか、大丈夫なんですか⁉」
「ヤバイっちゃーヤバイだろうな、でもまぁ通りかかる人をじっと見ながらそこに立っているだけだし、特別何かしようという訳では無かったから、無視するのが一番だ」
「無視て」
「お前もそうだけど、他の人には彼女の姿が見えてねーんだからよ、なのに俺だけ反応してりゃぁ、こっちがおかしな人に見られちまうじゃねーか」
そんな事をしらっと言ってのける錦灘氏の方が怖いです。
「この間も、みんなで行ったビストロで落武者がウロウロしてたんだが」
「はぁ?」
ビストロて、この間て、くるみさんと三人で行った美味しかったお店。
あれは、ビーフストロガノフの次の日、錦灘氏の一声で俺の祝賀会と称して外食したんだ。
「落武者がウエイトレスて、どんなコスプレ、っていうか、そんな人いましたっけ?」
そう言えばあの時、錦灘氏はやたらと店内を気にしていましたっけ、あぁあれは俺の目に見えないものを目で追っていたのか。
「お前が怖がると思って黙ってたけどよ、やっぱり見えてなかったな?」
「はい、全然!」
よかった、俺見えない人で、落武者が運んでくれたハンバーグステーキ、ゾンビパウダーがトッピングされて至極の味だよ~んって、想像しただけでも怖いわ!
「まぁ、害の無いモノは放っておいても良いんだけどよ、昨日お前が可愛い男の子を連れ込んできたじゃねぇか、そいつはちょっとタチの悪い子だったから少し焦っちまった」
「何を人聞きの悪いことを……」
昨日?連れ込むって何?しかも可愛い男の子、おっしゃる意味がわかりませんが。
焦ったという割には、今は面白そうに笑ってるし。
「お前は根が純粋で優しいから、すぐ何にでも同情しちまうだろ」
錦灘氏の話を聞いて、そう言えばと思い出したのが昨日、買い物途中の道端に花束が供えられていたのだが、それが枯れて茶色くなっていたのを見て、〝あぁ、可哀そうに〟って思ったのだ、という話をすると錦灘氏は、その花の近くにいた可愛い子が同情に同調して、お前に惚れて付いてきたんだな、と言った。
「でもその後は強制的にお帰り願ったからもう大丈夫だ、安心していいぞ」
鼻で笑い飛ばしたよこの人。
笑いごとなのか、そうなのか?
「でも、お帰り願ったって、どうやって帰ってもらったんですか?」
やっぱりチンピラのひと睨みかな、子ども相手に大人げない。
「あぁ、ちょっとこいつでな」
そう言って錦灘氏は、コートの裏ポケットから何やら取り出した。
尖った指を少し丸めたような形をしたものか両端についている二十センチほどの金色の棒、中央で握るものらしい。
「何ですかこれ?」
「これは五鈷杵と言って仏教で使う神具だ、これを使って強い悪霊なんぞを除霊するんだ」
「ゴコショ?」
錦灘氏の話を聞きながら俺も手に持ってみた、大きさの割にかなりの重さがある、どう使うのかはわからないし、知りたくもないし使いたくも無いけれど、子ども相手に武器を使うなんて本当に大人げない。
「ガキだからって甘く見るんじゃねぇ、純粋なガキだからこそ手ごわい時もあるんだよ」
「関西のおばちゃんより?」
「……かもしれんな、だからお前も気ぃ付けろや」
どうやって見えない相手に気を付けろというのか。
「おっ、どうやら着いたらしいぜ」
その家は、どこにでもあるような中流家庭の、まさに昭和成長期に建てられたような平凡な普通の二階建ての小さな一軒家、隣との壁が今にもくっ付きそうだ。
小さい門から玄関まで二歩で行ける、その隙間の小さなお庭スペースでは雑草が元気に咲いていて、土と落ち葉まみれで小汚い。
笹島という標識が出ていた、ササジマと読むのかな。
錦灘氏がチャイムを押しても反応がない、お留守なのかな、仕方ないからまた後で出直そうかと思っているところに、犬と散歩している近所の人らしき女性が居たので、錦灘氏は声をかけた。
思いっきり警戒されているので、俺がフォローしてあげた、満面の笑みで。
ここの家の人なら、この時間は買い物に行っているのだろうと教えてくれた。
犬が可愛い、マロ眉の黒柴だ、尻尾を振り振り俺の足にすり寄ってきたのでつい手を出してしまった。人懐っこくて可愛いなぁ。
「可愛いですね、なんて名前なんですか?」と俺。
「チロです」と、にこやかに答える飼い主さん。
チロは俺にもっとなでろと言わんばかりに前足を出してきた、白い靴下を履いているみたいに足先だけ白い、そのしぐさが可愛くてスイッチが入っちゃった俺は、ついチロの前にしゃがみこんで。
「おぉ、チロ~そうかそうか、おぉぉよしよし~」
両手でチロの顔をくしゃくしゃにしてやると、チロも俺に抱き着いてきたので体中なでなでモギュモギュとムツゴロウさんみたいな事をやってしまった。
人様の犬にやりすぎたかも、と思って飼い主さんを見上げると、彼女もニコニコ笑顔だったので安心した。
場が和んだところで錦灘氏が。
「この家には今は誰が住んでいるんでしょう?」
チンピラオーラをすっかり消して穏やかに話をしている、だからチロの飼い主さんも気を許したのだろう。
「笹島さん夫婦だけですよ」
「そうなんですか、ずっと夫婦だけで、お子さんとかはいらっしゃらないのでしょうか?」
「子供、っていうか、その……」
何か言い淀んでいる様子だ、そこに錦灘氏が。
「例えば、高校生くらいの女の子、とか?」
その言葉に俺の方がドキッとしたよ、あの絵のモデルになった女の子の事を聞きたかったんだろうか。
「……もしかして、サクラさんの事かしら?」
サクラさん、笹島夫婦の子供なのかな、それにしてもさっきの言い淀んだのは何だ?
錦灘氏、今度はジーンズのケツポケットからスマホを取り出して、チロの飼い主さんに見せる、画面を一目見るなり「そうそう、この子よ」と言い出した、スマホにはあの絵が映されているのだろう、俺はずっと座ったままチロをなでなでしているからよく見えなかったけど。
「そうですか、やっぱりこの子は笹島さん夫婦の子供でしたか」
すると、チロの飼い主さんはちょっと顔をしかめてから。
「いえ、笹島さん夫婦の子供じゃないらしいんだけどね」
ん、どういう事なんだろう、と思っていたら詳しい話を教えてくれた、もともと話好きな人なのだろう。この家には昔から笹島さん夫婦だけが住んでいたのだが、数年前から女の子が一緒に住むようになったのだという、笹島夫婦からは、親戚の子を預かっているのだと聞いていた。
「凄く優しくて、心根の綺麗な素敵なお嬢さんでしたよ」
「今は何処に?」
「どこにって言われても……」
するとチロの飼い主さんは、急に声を潜めた。
「あの子、亡くなったの、この間……」
「えっ!」
「どういうことですか⁉」
俺は思わず立ち上がっていた、撫でる手が急に止まったからと、足元でチロがキュゥンと鳴いたけれど、今はそれどころではない、飼い主さんは「ここだけのはなしにしてね」と、更に声のトーンを落として話をつづけた。
「実は去年の春からしばらく彼女の姿を見ないなーって思っていたの、笹島さんは、病気で亡くなったって言っていたんだけどね」
「一年も療養していたんですね……」
「そう、だと思うんだけどねぇ、でもあの子、ここに居た頃はよく顔や腕に、あざを作っていたのよ」
「あざ?」
「そうなの、私たちがどうしたの?って聞いても『ちょっと転んじゃって』とか言ってごまかすんだけどね、それにしてはあざがあちこちにあってね、その頃は主人の怒鳴り声なんかもよく聞こえてきてたし、これ絶対暴力を振るわれているんだわって近所でも話ししていたのよ」
「警察とかには訴えなかったんですか?」
俺が素直な意見として尋ねると、女性は急にばつの悪そうな顔をして言った。
「だ、だってねぇ、恐ろしい人たちですからねぇ、いえ、何もしなかったわけでは無いのよ、近所の善良な人が、笹島さん夫婦に直接その子のあざの事を聞いたんですって、もちろん笹島さんはすぐに強く否定したんですけどね、そしたら次の日から、その、色々とあって……」
急に言葉を濁し始めたよ、何があったんだ?
「執拗な嫌がらせにあった、とか?」
錦灘氏の言葉に、女性は静かにうなずいた。
「それでその近所の人、心を病んじゃって、半年もたたない間にどこかへ引っ越してしまって」
何があったんだ、心を病むほどに嫌がらせを受けたとか、怖い怖い。
「だから、きっとサクラちゃんも、ねぇ……」
家庭内暴力、そう考えるのが普通だろう。
「この話、私がしたことは内緒にしてね」
そう言いながら、余計な事を言いすぎたかしらと、あたりを警戒しながら、犬を引っ張るように去って行きました、名残惜しそうに引っ張られてゆくチロを見送りながら俺は。
「サクラさんは本当にあの夫婦に殴り殺されたのでしょうか……」
酷い話だ、胃の辺りがキリキリする。
「さぁな、今はまだ何とも言えねぇけど」
眉間に力が入ってこめかみの血管が浮き出ている、錦灘氏のチンピラオーラが復活した。
「これは是非、話を聞いてみねーとな」




