第10話 沼
読んでいただきありがとうございます。
ラストまでもうひと踏ん張り。
全体がすぐ見渡せられるくらいの小さな沼は、一面の落ち葉のせいで境界が解りづらい、小さい子供とかが誤って近づくと危険かもしれないが、こんな山の中までは入ってこれないだろうと思う、それくらい隠れた秘密の沼なのか、神秘的だ。
子供の頃、田舎の爺ちゃん家の近くに小さな池があって、そこで兄ちゃんと一緒に魚釣りをしたことがある、全然釣れなかったけど都会では経験できない事だったから、池で遊ぶこと自体が凄く楽しかったのを覚えている。
「何かいるかな?」
ちょっとワクワクしながら、そっとのぞき込んでみる、落ち葉の隙間から見える水面には周りの木と空の青が綺麗に反射しているものの、中は深緑の濁った水のせいで何も見えず、どれくらい深いのかも気になる、長い木の枝でかき回してやろうと思って当たりを見渡すと、ちょうど良い感じの手ごろな棒が落ちてあった、手を伸ばして拾おうとした瞬間。
小さなお地蔵さんと目が合った。
「うわ」
思わず小さく低い声が出た、俺のくるぶしくらいの小さなお地蔵さんが、沼の横に建てられていたのだ。
薄汚れて古そうなお地蔵さんだったが、顔の下にかけられていた赤い前掛けはまだ新しい物のように見受けられる。このまだ新しいって言うのがかえって不気味なんだよな。
ここに沼の主でもいるのだろうか、大鯰とかオオサンショウウオとか、いや案外ブラックバスかもしれない。
お地蔵さんが見張っているので、かき回して遊ぶのは諦めて、向こうにいるであろうナダさんのところに戻ろうかと姿勢を戻した時、なぜか足が前に出なくて、俺は勢い前のめりに転んでしまった。
「痛ったぁ~」
脛と両手を地面にしたたかに打ち付けてしまった。子供か!
何かに引っかかってつまずいたのか、こんなところで転ぶなんてついてない、お気に入りのジーンズが汚れてしまったじゃないか。
何につまずいたのだろう、だが、起き上がろうとしても足が動かない、引っかかった何かがまだ足に絡みついている、足首が柔らかくてひんやり冷たい、何だろうと思って上半身を起こして目線を足下にやると、青白くて細くて長いものが俺の足首を掴んでいた。
その青白くて細くて長いものは沼から出ていた。
沼から延びる青白くて細くて長いものの先端がまるで人間の手のようになっていて俺の足首を掴んでいる。
「――っ手ぇぇぇ‼」
手のようなものじゃない、これは手だ!手が!手が足に!沼から手が伸びて俺の足にぃ‼
声にならない悲鳴をあげパニックになりながら、死に物狂いでその手を振りほどこうとするが離れてくれそうにない。それどころか俺を沼に引きずり込もうとして引っ張られる。
どうしよう、周りに掴めそうなものは何もない、雑草を握りしめたら根っこからズッポリと抜けた、足が冷たい、このままでは引きずり込まれてしまう。
そして俺は見てしまった。沼の水面から人の頭が出てきたのを。
この手は、こいつのものなのか、どろりと濡れた頭髪は短く、現れたその顔は黒く滲んだような色をしてでもその目だけはギラリと俺を睨みつける。
「誰⁉」
見たところ男性のようだが、知り合いにこんな奴はいない!
しかし沼から出てくるのだ、こいつがもうこの世のものではない事くらい馬鹿な俺でもわかる。
凄い力で引っ張られて俺は、抵抗もむなしくとうとう沼の中にズッポリと沈められてしまった。
沼の中は真っ暗だった。
俺は今、どこにいるのかさえ解らないような、暗い闇の中に浮かんでいる。
浮かんでいるという表現で正しいのだろうか、でも足元に感触が無い、体を動かして手を伸ばしてみても何も触れない、上も下も右も左もただ何もない空間に漂っているような感覚だった、眼も開いているのか閉じているのか、それさえも解らない。
なのに、見た事も無い映像が浮かんでいる、実際見えているわけではなさそうだ、俺の中に、意識の中に流れてくる赤い炎の映像。
何かが燃えているのか、大きな炎だった、建物が燃えている、民宿ひなたが燃えている、他にも何人かの人たちが同じように炎を眺めていた。
炎だけがやたらと紅く、辺りに大きな闇が広がっている、夜のようだ。
やがてそこにいた人たちに取り囲まれる映像に変わった、炎は消えていた、空は明るくなった、数人の人たちに取り囲まれている、その格好からも成人の男性、年配の人たちだ。
空と大地の映像が交互に押し寄せてくる、何で俺が、俺は何もしていないのに。あれはここだ、山の中に入って行ったのか木の根と草と土が見える。
山道ではない場所を行く数人の地味な色の足、祠が見えた、誰かの体が当たって祠が倒れた、そして仄かに暗い水の中。
俺はただあの母娘と仲良くしていただけじゃないか、あの母娘は何も悪くない、悪いのはお前たちの方じゃないか!
息が出来ない、苦しい、体中が痛い、苦しい、痛い、息が出来ない、苦しい痛い息が出来ない悔しい苦しい悔しい苦しい悔しい悔しい悔しい恨んでやるくやしいくやしいくやし
ヤバイ、俺まで苦しくなってきた。
体を水面に戻そうともがくものの、浮上できるどころか、体はどんどん沈んでゆく。
息が苦しくて、ゴボリと空気を吐き出してしまった。泥の混じった濁った水が容赦なく俺に襲い掛かってくる。
誰か助けて――ナダさん‼
――。
「ナダさんじゃないけど、助けてあげたわよ」
気が付くと俺はさっきまでいた地面に転がされていた。
ゲホゲホと泥水を吐き出す。
体力を使い果たし荒い呼吸のまま仰向けになると、大きな高い木が空に向かって伸びているのが見えた、あの高い場所は風が強いのか、ふらふらと風に大きく揺れている、他の木も同じ、みんな一緒に揺れていた。
風に揺れ振り落とされた葉っぱが何枚も俺の顔に舞い落ちてきた、紅葉の季節らしく葉っぱの色は赤かった。
横にはなぜかくるみさんが居た、黒いワンピース姿の軽装だ、しかも髪の毛まで黒い、気の強そうな顔をしたくるみさんが俺の横に座って俺を見下ろしている。
このくるみさんには見おぼえがあるぞ、いつかの病院で見かけたくるみさんだ。
「黒い方のくるみさんだ、どうしてここに……?」
「何よあんた、とっても危ないところだったのよ、助けてあげたんだから礼くらい言ったらどうなの⁉」
そう言えば俺は、この寒空の下全身びしょぬれだった、沼の主に足を引っ張られてあの沼に落ちたのか、でも、その前に俺はやらなければいけない事がある。
「捕まえた」
びしょぬれで全身だるくて力の入らない体から無理やり力を振り絞って、腹ばいになりながらくるみさんの左足首に両手でしがみつく。
「はぁ?」
俺の手は水に濡れていて冷たくなっていたけれど、くるみさんの足首も随分と冷たい。
「離しなさいよ!」
「嫌ですぅ!」
俺の手を離そうともがいたくるみさんは、その勢いでバランスを崩し「キヤッ」とかわいい悲鳴をあげながら派手にしりもちをついてしまった、でも手は離さない。
「痛~っ、命の恩人に何セクハラしてるのよ!」
「パンツは見ていません!」
スカートの中まで真っ黒だったから。
「ナダさんに頼まれたんですぅ、次にあなたを見つけた時は絶対に捕まえろって!」
「だからって、今捕まえなくてもいいじゃないの!」
「だめです、この手は死んでも離しません!」
「そう、じゃぁ死ねばいいじゃん!」
頭部に衝撃が走った、しりもちをついた状態のまま、くるみさんのパンプスが俺の頭を蹴っているのだ、痛い!
痛いけど手は離すものか、だって、俺はまだみんなの事何も知ってはいないんだ、知りたいんだみんなの事!
「トドっ!」
向こうの方でナダさんの声がした、良かった。
「ナダさんっ、くるみさん捕まえましたぁ!」
「ちょっと、離しなさいよぉ!」
俺の頭を蹴る力がより強くなった、冷たい水がしたたり落ちる俺の顔に、ヌルリと温かい感触が流れてきた。多分血が出てるのだろう、でもこれ以上馬鹿になる事も無いから。
「そんなに、私に死んでほしいの?」
「死にそうなのは俺の方です!」
頭を蹴っていた足が止まった、ナダさんがくるみさんの手を取っていたのだ。
ナダさんが来てくれた。安心した俺は腕の力を緩める。
俺はうつぶせに転がった状態のまま動く事が出来なかったから、頭の上でナダさんとくるみさんが何か言いあっているようだったがよく聞こえない。でも最後にくるみさんがナダさんの手を振りはらった、このままじゃまた逃げられてしまう。
「待て、話はまだ終わってねぇ!」
ナダさんが追いかけようとするが、そんなナダさんの手をくるみさんはするりと交わして。
「それよりも先にこの子を助けてあげたらどう、このままだと死んじゃうわよ」
ナダさんの足が止まった。
ナダさんがこっちに近付いてくる、あれほどきつく絶対に捕まえろと言っていたナダさんが、くるみさんより俺を選んだという事なのか。
どうしよう俺のせいだ、俺が不甲斐ないばっかりに。
「大丈夫か、怪我は無いか?」
ナダさんが俺のすぐ横にしゃがみこむ。
「お、おでこが痛いですが大丈夫です、そんな事より早くくるみさんを追ってください……」
そうは言ったものの、ナダさんを見て、急に自分がこの寒空の下、びしょぬれだったのを思い出し、寒くなってがたがた震えだした。
ナダさんは、俺の体を抱き起してくれて、冷たくなったジャンバーを脱がすと、代わりにナダさんの黒いコートを肩にかけてくれた。
下着まで濡れて冷たくなっていたけれど、ほのかに温かさが伝わってくる、これ以上体温を奪われることはなさそうだ。
頭の傷も見てくれたが、大したことはなさそうだった。
「俺、頑張りましたよね……?」
「あぁ、そうだな、礼を言うよ」
想像以上に腰が抜けていた俺は、そのままナダさんに背負われてしまった、この年でおんぶだなんて恥ずかしいし、こんな大変な山道を歩いてナダさんだって辛いはずなのに、それでも俺を降ろそうとはしなかった。
「沼に引きずり落とされたんです」
「沼に?」
「知らない人でした、沼の中で俺の知らない映像が見えました、大きな家が燃えてました、そしたら村の人たちが何人か来て俺のせいだって言うんです、俺何もしていないのに
でも男たちに連れてこられてあの沼に落とされたんです、流石に俺だって抵抗します
その時の勢いで誰かがあの祠を倒したみたいです、俺、悔しくて苦しくてもがいているうちにだんだん沈んで行って、そのまま浮かんでこなくなりました。
だから誰か来たら足を引っ張って同じ目に合わせてやろうって……だから俺の足を引っ張って……」
自分でも何を言っているのか解らなくなった、見えたままそのままを自分じゃない意思でしゃべっているような不思議な感覚だった、それでもナダさんは黙って俺の話を聞いてくれた。
「そうか、もう大丈夫だから何も心配するな」
ナダさんの声と背中は温かい。
ようやく山を抜けて民宿ひなたに戻って来た。
ひなたさんとひよりちゃんだけはこの村人とは違う優しい、早く戻って温泉に入りたい。
ナダさんの背中を降り、玄関入り口の引き戸を開くと、俺たちが帰ってきたことに気付いた女将のひなたさんが奥から出てきて、優雅なしぐさで俺たちの前に三つ指をついて出迎えてくれた。
「これはこれは、ようこそおいで下さいました」
「え……?」
尋常じゃない俺たちの姿を見ても何とも思わないような反応、しかも初めてここにやって来たときみたいな丁重なご挨拶。
そして立ち上がった後は、俺たちを部屋へと案内する。ある程度は乾いているので水がしたたることはなくなったが、靴はびちゃびちゃのままだし、でもタオルとかは出してくれない、とりあえず俺は靴下を脱いで上がった。
「何がどうなってるんです……?」
サービス云々の話以前の問題だと思う、前を歩くひなたさんの後姿を追いながら、ナダさんにそっと尋ねてみる。
「……何も考えるな、気にしたら負けだ」
この状況で勝ち負けは関係ないと思うんだが。
そして俺たちが泊まっている部屋へ再び案内された。
「どうぞ、こちらのお部屋でございます」
知ってます。俺たちの荷物は置いたままだし。でもきれいに掃除してくれている、布団も引き直してくれていた。




