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第一章 雪の都クリスチャニア

 1829年、ノルウェーの王都クリスチャニア。暦は3月にさしかかっていたが、街はまだ雪の白いベールをまとっていた。


 夜明け前から細かな雪が降り続き、家々の屋根を白く覆っている。


 26歳のニルス・アーベルの家の窓にも、薄い氷の膜が張っていた。

 その向こうで、若き数学者は机に向かい、震えそうになる指で必死にペンを走らせていた。


 ストーブの火はほとんど消えかけ、室内の空気は冷たい。

 だがニルスは石炭をくべようとしなかった。意識は、紙の上に広がる数式の世界に向けられていた。


「……もう少しだ」

 かすれた声が、寒い部屋の中に落ちる。

 彼はハンカチで口を押え、咳をした。白い布に赤い染みがじわりと広がる。

 それでも、彼の手は止まらなかった。


 ◇   ◇   ◇


 雪を踏みしめる足音が、家の前で止まった。

 少しそばかすのある丸顔の女性、クリス・ケンプ。ニルスより少し年長に見える女性だった。


 クリスは、コートの襟をぎゅっと握りしめ、扉を叩いた。

「ニルス、少しだけ……いいかしら」

 中から、弱々しい声が返ってきた。

「……開いてるよ」


 クリスはそっと扉を押し開けた。

 冷えきった部屋の中。彼女はストーブに視線を移した。

「やだ、火が消えかかってるじゃない」

 慣れた手つきで石炭をくべると、やがてパチパチと音を立てて炎が蘇った。

「……ありがとう」

 ニルスは振り返らず、それだけ言った。


 クリスは、今にも倒れそうなニルスの背中を見つめた。

「ニルス、あなた、無理をしているわ」

 それを聞き、ニルスが答えた。

「心配はいらない」

「心配するわよ。私は……あなたの婚約者なんだから」

 ニルスの肩が、わずかに揺れた。

「……ああ」

 しばらく沈黙が流れた。ニルスのペンの音だけが響く。

 クリスは勇気を振り絞り、問いかけた。

「……私、あなたに愛されていないの?」

 ニルスはペンを止め、深く息を吐いた。

「そんなことはない。だが今は……」

「『今は』って何? 私はあなたの隣にいたいだけなのに」

 ニルスは少し黙ったあと、再びペンを走らせた。

「クリス。今は、論文をどうしても仕上げたい。悪いけど、今日は帰ってくれないか」

 その言葉は、外の雪よりも冷たく、クリスの胸に突き刺さった。

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