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ぼくは人間を食べない  作者: きなこもち
第1章

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4/5

幕間1 運がよかっただけ 



 ドラッグストアのバックヤードは、思ったより暗かった。


 店内の照明はもう死んでいて、奥の非常口の上に残った小さな緑色の灯りだけが、頼りなく壁を照らしている。埃っぽい空気の中に、消毒液の匂いと、汗と、血の匂いが混ざっていた。


 優花里はしゃがみ込んだまま、震える指でガーゼを開いた。


「ちょっとしみるよ」


 そう言ってから、自分の声が少し掠れていることに気づく。


 向かいに座っている隼人は、背中を壁につけたまま、苦笑した。


「今さらだろ、それ」


「今さらでも言うの」


「はいはい」


 軽く返す声は、いつもの隼人の声に近かった。


 だから少しだけ、安心しそうになる。


 でも、腕の擦り傷に消毒液を落とした瞬間、隼人の肩がぴくりと揺れた。やっぱり痛いのだ。痛いくせに、平気な顔をする。こういうところが隼人らしいと思う。


 優花里は無言でガーゼを当てる。


 隼人の腕は硬かった。

 走って、人を引っ張って、誰かを押し込んで、最後に自分が入ってきた腕だ。


 その少し離れたところでは、ほかの生存者たちがようやく息を整え始めていた。床に座り込み、壁にもたれ、泣きそうな顔のまま黙り込んでいる人もいる。誰もまだ“助かった”とは思えていない顔だった。


 それでも、少し時間が経つと、人は喋る。


「やばかったな……」

「ほんとに」

「詰んだと思った」


 そんな声が、薄暗い倉庫の空気にぽつぽつと浮かぶ。


 誰かが、疲れたように笑った。


「でも、運よかったっすね。前のゾンビら、勝手にもつれてくれたし」


 別の誰かがそれに乗る。


「分かる。あれなかったら、隼人も危なかったろ」


「だな」


 隼人は包帯を巻かれながら、小さく息を吐いた。


「……まあ、運が良かったのはそうかも」


 その言い方が、少しだけ引っかかった。


 運が良かった。


 たしかにそうなのかもしれない。

 あの場で全員助かったのは、偶然が重なったからだと、普通ならそう考える。


 けれど優花里の手は、包帯を結ぶところでほんの少し止まった。


「優花里?」


 隼人が不思議そうに顔を上げる。


 優花里は自分でも、言うかどうか迷った。


 こんな時に変なことを言うみたいで、少しだけ怖かった。

 自分の思い違いかもしれないとも思った。


 それでも、喉の奥に引っかかったものは消えなかった。


「……ねえ」


「うん?」


「あのゾンビ、ちょっとだけ変じゃなかった?」


 空気が、一瞬だけ止まる。


 正面にいた隼人の表情も、わずかに固まった。

 けれどそれは本当に一瞬で、すぐ近くにいた年上の女が困ったように笑う。


「優花里ちゃん、さすがにそれは考えすぎじゃない?」

「だよなあ。ゾンビはゾンビだろ」

「パニックになってそう見えただけじゃね」


 否定の言葉は強くない。

 でも、まともに取り合う気もない声だった。


 優花里は口を閉じた。


 たしかに、自分でも上手く説明できない。

 変だった、というのも違う気がする。

 異常だったのかもしれない。

 あるいは、ただ一瞬だけ、そう見えただけなのかもしれない。


 隼人が少しだけ眉をひそめる。


「どのへんが?」


 その聞き方に、優花里は少しだけ救われた。

 笑い飛ばさないでくれたから。


 でも、それでも答えは曖昧にしかならない。


「……分かんない」

「分かんない?」

「うん。うまく言えないんだけど」


 包帯の端を結び終え、優花里は視線を落とした。


 脳裏に浮かぶのは、ガラス越しに見たあの一体の姿だ。

 群れの中にいて、群れと同じように汚れていて、怖くて、ちゃんとゾンビだった。

 なのに、一拍だけ、何かが引っかかった。


「追ってくる目じゃなかった気がしたの」


 言い終わったあとで、自分でも変なことを言ったと思った。


 追ってくる目じゃないゾンビって何だろう。

 そんなもの、あるわけがない。


 周囲も困った顔をしている。

 当たり前だ。


 でも隼人だけは、すぐには笑わなかった。


 優花里はその沈黙が少しだけ怖くて、慌てて付け足す。


「ごめん、変なこと言ってるの分かってる。たぶん、疲れてるだけ」


「いや」


 隼人は短く言って、それから自分の巻かれた腕を見た。


「……まあ、優花里がそう見たなら、そうだったのかもしれない」


「でも隼人は見てないでしょ」


「見てない。正直、そんな余裕なかった」


 それはそうだ。

 隼人はあの時、最後まで外にいた。

 自分以外を先に押し込んでいた。


 優花里は小さく息を吐く。


「だよね」


「でも」


 隼人はそこで言葉を切った。


 何か続けようとしたのかもしれない。

 けれど、倉庫の奥から急に子供の泣き声がして、そちらへ気を取られる。

 隼人は反射みたいに立ち上がりかけて、優花里に腕を押さえられた。


「だめ。まだ巻いたばっかり」

「でも」

「でも、じゃない」


 言いながら、自分でも少し強い口調だったと思う。

 けれど隼人は怒らなかった。

 困ったように笑って、もう一度壁にもたれた。


「はいはい」


 その顔を見ていると、さっきの話が急に遠くなる。


 現実には隼人がいて、

 みんながいて、

 今はここに生きている。


 それで十分なはずなのに。


 それでも、優花里の目は一度だけ、バックヤードの奥にある小さな窓へ向いた。


 外はもうすっかり朝になっていた。

 白い光が、汚れたガラスの向こうに滲んでいる。


 そこに何かが見えるわけじゃない。

 見えるはずもない。


 なのに、胸の奥に小さな棘みたいなものが残ったままだった。


 あの一体は、何だったのだろう。


 考えても答えは出ない。

 出ないまま、優花里は膝の上でそっと手を握る。


 隣では隼人が、もう次のことを考えている顔をしていた。

 ここからどう動くか。

 どこへ行くか。

 誰を連れていくか。


 そういう顔だ。


 たぶん隼人は前を見る人なのだ。

 自分はたぶん、さっき置いてきたものを振り返ってしまう人間なのだろう。


 それが少しだけ、寂しかった。


 外ではもう、物音はしなかった。


 でも優花里は、その静けさの向こうに、

 まだ何かが立っているような気がしてならなかった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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