幕間1 運がよかっただけ
ドラッグストアのバックヤードは、思ったより暗かった。
店内の照明はもう死んでいて、奥の非常口の上に残った小さな緑色の灯りだけが、頼りなく壁を照らしている。埃っぽい空気の中に、消毒液の匂いと、汗と、血の匂いが混ざっていた。
優花里はしゃがみ込んだまま、震える指でガーゼを開いた。
「ちょっとしみるよ」
そう言ってから、自分の声が少し掠れていることに気づく。
向かいに座っている隼人は、背中を壁につけたまま、苦笑した。
「今さらだろ、それ」
「今さらでも言うの」
「はいはい」
軽く返す声は、いつもの隼人の声に近かった。
だから少しだけ、安心しそうになる。
でも、腕の擦り傷に消毒液を落とした瞬間、隼人の肩がぴくりと揺れた。やっぱり痛いのだ。痛いくせに、平気な顔をする。こういうところが隼人らしいと思う。
優花里は無言でガーゼを当てる。
隼人の腕は硬かった。
走って、人を引っ張って、誰かを押し込んで、最後に自分が入ってきた腕だ。
その少し離れたところでは、ほかの生存者たちがようやく息を整え始めていた。床に座り込み、壁にもたれ、泣きそうな顔のまま黙り込んでいる人もいる。誰もまだ“助かった”とは思えていない顔だった。
それでも、少し時間が経つと、人は喋る。
「やばかったな……」
「ほんとに」
「詰んだと思った」
そんな声が、薄暗い倉庫の空気にぽつぽつと浮かぶ。
誰かが、疲れたように笑った。
「でも、運よかったっすね。前のゾンビら、勝手にもつれてくれたし」
別の誰かがそれに乗る。
「分かる。あれなかったら、隼人も危なかったろ」
「だな」
隼人は包帯を巻かれながら、小さく息を吐いた。
「……まあ、運が良かったのはそうかも」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
運が良かった。
たしかにそうなのかもしれない。
あの場で全員助かったのは、偶然が重なったからだと、普通ならそう考える。
けれど優花里の手は、包帯を結ぶところでほんの少し止まった。
「優花里?」
隼人が不思議そうに顔を上げる。
優花里は自分でも、言うかどうか迷った。
こんな時に変なことを言うみたいで、少しだけ怖かった。
自分の思い違いかもしれないとも思った。
それでも、喉の奥に引っかかったものは消えなかった。
「……ねえ」
「うん?」
「あのゾンビ、ちょっとだけ変じゃなかった?」
空気が、一瞬だけ止まる。
正面にいた隼人の表情も、わずかに固まった。
けれどそれは本当に一瞬で、すぐ近くにいた年上の女が困ったように笑う。
「優花里ちゃん、さすがにそれは考えすぎじゃない?」
「だよなあ。ゾンビはゾンビだろ」
「パニックになってそう見えただけじゃね」
否定の言葉は強くない。
でも、まともに取り合う気もない声だった。
優花里は口を閉じた。
たしかに、自分でも上手く説明できない。
変だった、というのも違う気がする。
異常だったのかもしれない。
あるいは、ただ一瞬だけ、そう見えただけなのかもしれない。
隼人が少しだけ眉をひそめる。
「どのへんが?」
その聞き方に、優花里は少しだけ救われた。
笑い飛ばさないでくれたから。
でも、それでも答えは曖昧にしかならない。
「……分かんない」
「分かんない?」
「うん。うまく言えないんだけど」
包帯の端を結び終え、優花里は視線を落とした。
脳裏に浮かぶのは、ガラス越しに見たあの一体の姿だ。
群れの中にいて、群れと同じように汚れていて、怖くて、ちゃんとゾンビだった。
なのに、一拍だけ、何かが引っかかった。
「追ってくる目じゃなかった気がしたの」
言い終わったあとで、自分でも変なことを言ったと思った。
追ってくる目じゃないゾンビって何だろう。
そんなもの、あるわけがない。
周囲も困った顔をしている。
当たり前だ。
でも隼人だけは、すぐには笑わなかった。
優花里はその沈黙が少しだけ怖くて、慌てて付け足す。
「ごめん、変なこと言ってるの分かってる。たぶん、疲れてるだけ」
「いや」
隼人は短く言って、それから自分の巻かれた腕を見た。
「……まあ、優花里がそう見たなら、そうだったのかもしれない」
「でも隼人は見てないでしょ」
「見てない。正直、そんな余裕なかった」
それはそうだ。
隼人はあの時、最後まで外にいた。
自分以外を先に押し込んでいた。
優花里は小さく息を吐く。
「だよね」
「でも」
隼人はそこで言葉を切った。
何か続けようとしたのかもしれない。
けれど、倉庫の奥から急に子供の泣き声がして、そちらへ気を取られる。
隼人は反射みたいに立ち上がりかけて、優花里に腕を押さえられた。
「だめ。まだ巻いたばっかり」
「でも」
「でも、じゃない」
言いながら、自分でも少し強い口調だったと思う。
けれど隼人は怒らなかった。
困ったように笑って、もう一度壁にもたれた。
「はいはい」
その顔を見ていると、さっきの話が急に遠くなる。
現実には隼人がいて、
みんながいて、
今はここに生きている。
それで十分なはずなのに。
それでも、優花里の目は一度だけ、バックヤードの奥にある小さな窓へ向いた。
外はもうすっかり朝になっていた。
白い光が、汚れたガラスの向こうに滲んでいる。
そこに何かが見えるわけじゃない。
見えるはずもない。
なのに、胸の奥に小さな棘みたいなものが残ったままだった。
あの一体は、何だったのだろう。
考えても答えは出ない。
出ないまま、優花里は膝の上でそっと手を握る。
隣では隼人が、もう次のことを考えている顔をしていた。
ここからどう動くか。
どこへ行くか。
誰を連れていくか。
そういう顔だ。
たぶん隼人は前を見る人なのだ。
自分はたぶん、さっき置いてきたものを振り返ってしまう人間なのだろう。
それが少しだけ、寂しかった。
外ではもう、物音はしなかった。
でも優花里は、その静けさの向こうに、
まだ何かが立っているような気がしてならなかった。
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