誰も選べない
ドラッグストアを出たのは、昼がだいぶ傾いてからだった。
外の様子を何度も窺って、群れの薄い時間を待ち、裏口から一人ずつ抜ける。
慎重だった。
慎重であるはずだった。
けれど、慎重でいられる時間にも限りがある。
食料は少ない。
水も足りない。
いつまでもあの場所に籠もっていれば、どのみち詰む。
だから出るしかない。
優花里は、最後から二番目に裏口を出た。
外の空気は思ったより明るくて、でもまったく優しくなかった。風が生ぬるい。道路にはまだ朝のままの血が残っていて、遠くでは何かが倒れる音がする。静かなのに、どこにも安全がない音だった。
先頭には隼人がいる。
背中越しに見るだけで、少し安心する。
同時に、その背中がまた無茶をするんじゃないかという嫌な予感もあった。
優花里たちの小さな集団は、店の裏手から住宅街へ入り、できるだけ目立たない道を選んで進んだ。壊れたブロック塀の隙間、車の陰、植え込みの裏。まっすぐ進めば早い場所でも、隼人は一度立ち止まって必ず後ろを確認する。
「大丈夫か」
「ついて来れてる?」
「そこ段差ある、気をつけて」
短い声が何度も飛ぶ。
子供がいれば歩幅を落とし、老人が息を切らせば荷物を持ち、負傷した男が足を引きずれば肩を貸す。隼人は本当に、目についた“遅れる誰か”を全部拾おうとする。
そのたびに、優花里の胸の奥で小さく何かがざわついた。
助かる命もある。
隼人がいるから、ここまで来られたのも本当だ。
でも同時に思う。
その優しさは、いつか全員を巻き込むんじゃないかと。
先頭を歩く隼人が手を上げた。
全員が足を止める。
前方、十字路の先でゾンビが二体うろついていた。通りを横切れば気づかれる可能性が高い。右へ迂回するか、しばらく待つか。隼人は少しだけ考え、それから左の細い路地を指した。
「あっち行こう。遠回りだけど静かだ」
誰も異論はない。
今のところは。
優花里は息を整えながら、その細い路地へ入った。民家と民家の隙間みたいな道で、舗装は割れ、雑草が伸びている。途中までは何事もなかった。
途中までは。
子供の泣き声が聞こえたのは、その路地の奥、次の曲がり角に近づいた時だった。
細い、かすれた泣き声。
全員の足が止まる。
優花里は息を呑んだ。
隼人の背中が、ぴくりと揺れたのが見えた。
「……子供?」
後ろの女が小声で言う。
別の男がすぐに首を振った。
「待て。罠かもしれない」
「罠って」
「声で寄せるやつ、前にもあっただろ」
それは本当だった。
生き残った人間が囮にされた例も、泣き声や叫び声に釣られて群れが寄ってきたことも、もう珍しくない。
だからこそ、今ここで立ち止まるのは危険だった。
けれど、隼人の脚はもう半歩前へ出ていた。
「ちょっと見てくる」
「隼人」
優花里が呼ぶより先に、隼人は振り返った。
その顔は迷っているようで、もう決めてもいる顔だった。
「子供の声だ」
「分かってる。でも、今は……」
「だから、ちょっとだけ」
その“ちょっとだけ”が危ないのだと、優花里は言いたかった。
でも言葉になる前に、今度は別方向からうめき声がした。
泣き声とは逆の、路地の奥の塀沿い。
誰かが倒れている。
全員の視線がそちらへ向く。
高齢の男だった。
片足を押さえたまま、壁に寄りかかっている。
逃げ遅れたのか、怪我をして動けないのか、顔色が悪い。
最悪だ、と優花里は思った。
こういうのが一番悪い。
助けたいものが二つある時。
どちらも見捨てられない時。
隼人は絶対、片方を切れない。
案の定だった。
「待って、あっちにも人がいる」
隼人はまず泣き声の方を見て、次に倒れた老人の方を見る。
どちらへ行くか決められない顔。
決められないまま、両方へ身体が向こうとする顔。
「隼人、だめだって」
後ろの男が、今度ははっきり苛立った声で言った。
「どっちかにしろ。いや、違う、どっちも今は無理だ。まずこっちの人数を抜けさせろ」
「でも」
「でもじゃない! 全員抱えられる状況じゃねえだろ!」
隼人の表情が歪む。
優花里はそれを見ているのがつらかった。
だって隼人は本気だからだ。
格好をつけているわけじゃない。
善人ぶっているわけでもない。
本気で、どっちも助けたいと思っている。
だから苦しい。
「優花里」
隼人が名前を呼ぶ。
判断を求めるみたいに。
優花里は一瞬、言葉を失った。
ここで優花里が「行かないで」と言えば、隼人は従うかもしれない。
でもそのせいで子供か老人が死んだら、自分はどう思うのか。
逆に「助けよう」と言えば、この集団全体が危なくなるかもしれない。
どちらも嫌だった。
「……時間、かけないで」
結局、そんな曖昧なことしか言えなかった。
それが一番だめだと分かっていながら。
隼人は頷く。
「すぐ戻る」
そして、まず倒れた老人の方へ駆けた。
たぶん近い方を先に見ようとしたのだろう。
その判断も間違いではない。
でも泣き声はまだ続いている。
細く、弱く、耳に刺さるみたいに。
優花里は後ろを振り返った。
集団の空気がざわついている。
誰も大きな声は出さない。
でも足元の動き、呼吸、視線で分かる。
崩れかけている。
こういう時、恐怖はすぐ伝染する。
「……優花里ちゃん、どうするの」
小さな子供を抱いた女が、不安そうに聞いてきた。
優花里は喉が詰まる。
自分が答えるべきことじゃない。
でも隼人は今、前にいる。
「少しだけ、待って」
「少しって」
「お願い、静かに」
言いながら、自分の声が震えているのが分かった。
その時だった。
路地の入口の方で、金属がぶつかるような大きな音が響いた。
がん、と一発。
続いて、がらがら、と何かが転がる音。
全員が息を止める。
「やばい……」
誰かがそう呟くより早く、遠くから引きずるような足音が複数重なった。
来る。
音に引かれたのだ。
優花里の背中に冷たいものが走る。
隼人も気づいたらしく、老人を抱え起こしかけた姿勢のままこちらを見る。
「優花里! 先に――」
言い終わる前に、今度は泣き声の方から小さな影が飛び出してきた。
子供だ。
本当に子供だった。
五つか六つくらいの、小さな男の子。
涙でぐしゃぐしゃの顔で、路地の角からよろよろ走り出してくる。
「まま……っ」
その声で、全員の空気が完全に崩れた。
隼人が子供へ向かう。
だが同時に、支えかけていた老人の身体が傾く。
放せば倒れる。
放さなければ子供が危ない。
最悪だ。
本当に最悪だ。
隼人の顔が、一瞬だけ真っ白になる。
優花里は動いた。
考えるより先に、集団の前へ出る。
「こっち!」
子供へ向かって手を伸ばす。
その声に、泣きながら走ってきた小さな影がこちらを見る。
だがそのさらに向こう、路地の入口から、もう最初のゾンビの影が差し込んでいた。
間に合わない。
そう思った、その瞬間。
また別の方向で、ひどく大きな物音がした。
今度は路地の外、建物の角の向こう側。
何か重いものがフェンスにぶつかったような音。
続けて、金属が歪む不快な音。
路地の入口に差しかかったゾンビたちの首が、一斉にそちらを向く。
一拍遅れて、身体の向きも変わった。
優花里は目を見開く。
何が起きたのか分からない。
でもその一拍で十分だった。
「優花里、子供!」
「うん!」
優花里は飛び出してきた男の子の腕をつかむ。
同時に隼人が老人の身体を無理やり引き上げ、肩に回した。
後ろの大人たちもようやく動く。
誰かが女を押し、誰かが荷物を持ち、集団が一気に前へ流れた。
「行け!」
「走れ!」
「振り返るな!」
隼人の声が飛ぶ。
路地の先へ。
とにかく前へ。
優花里は子供の手を引いて走った。
小さな手は汗で滑る。
息が苦しい。
背後ではまだ金属音と、群れのぶつかり合う音が続いている。
あれは偶然なのか。
本当にたまたまなのか。
頭のどこかで思う。
思うけれど、今は立ち止まれない。
角を曲がる。
さらに先の駐車場跡へ抜ける。
そこでようやく、優花里は一度だけ振り返った。
路地の入口の向こう。
建物の陰。
群れの最後尾に、見覚えのある影がいた。
汚れていて、ほかのゾンビと変わらない。
背を丸め、半分崩れたフェンスに身体をぶつけたまま、周囲の流れの中で不自然に立っている一体。
あのドラッグストアの前で見たのと、同じ。
そう思った瞬間、隼人の声が飛んだ。
「優花里!」
優花里ははっとして前を向く。
足を止めたのは一瞬だったのに、心臓が嫌なくらい強く打った。
隼人が子供と老人を両方抱えるみたいな無茶な姿勢で、こちらへ手を伸ばしている。
その顔は苦しそうだ。
でもまだ、誰も置いていっていない。
優花里はその手を取り、再び走った。
しばらくして完全に足音が遠のき、ようやく人の気配のない住宅の裏庭みたいな場所へ滑り込んだ時、誰もすぐには喋れなかった。
息を切らし、しゃがみ込み、子供を抱きしめたまま泣き出す女がいる。
老人はまだ青い顔のまま、隼人に支えられて座り込んでいた。
優花里は膝に手をついて呼吸を整えながら、隼人の方を見た。
隼人は、明らかに限界だった。
肩で息をして、額に汗を浮かべ、今にも倒れそうなのに、真っ先に周囲を見て人数を数えている。
「……全員、いるか」
その声がかすれていた。
優花里は返事の代わりに周囲を見渡す。
子供もいる。
老人もいる。
もとの仲間たちも、全員いる。
助かった。
たしかに、助かった。
けれどその事実が、優花里の胸を軽くはしなかった。
「隼人」
呼ぶと、隼人が顔を上げる。
その目にはまだ、間に合った安堵より、“どっちも助けられた”というほっとした色の方が強かった。
たぶん今の隼人は、自分がどれだけ危なかったかを分かっている。
それでも同時に、見捨てなくてよかったと思ってしまっている。
それが隼人なのだ。
「大丈夫?」
聞くと、隼人は少しだけ笑った。
「……大丈夫じゃないけど、なんとか」
その答えに、優花里も少しだけ笑いそうになる。
でもできなかった。
代わりに、さっき見た路地の入口を思い出す。
群れの最後尾にいた、あの一体。
偶然と呼ぶには、二度目だった。
優花里は息を吐く。
「今日もいた」
「え?」
隼人が聞き返す。
優花里は少し迷ってから、首を振った。
「……なんでもない」
本当は、なんでもなくない。
でも今ここで言っても、うまく説明できる気がしなかった。
隼人はそれ以上追及しなかった。
代わりに、泣きじゃくる子供の方へ視線を向ける。
その横顔は、やっぱり優しかった。
優しくて、正しくて、だから危うい。
優花里は自分の手のひらを見る。
さっき掴んだ子供の汗がまだ残っている気がした。
助けられてよかったと、ちゃんと思う。
でも、あの場で隼人が一瞬止まったことも忘れられない。
止まったのではなく、止まらざるをえなかったことも。
誰も選べない。
その優しさが、今はまだみんなを助けている。
でも、いつかそれでは足りなくなる気がした。
風が吹く。
住宅の裏庭に干からびた洗濯物が揺れる。
遠くでまた何かが倒れる音がした。
その音に、優花里の胸の奥の棘が、また小さく疼く。
今日もいた。
あの一体は、今日もそこにいた。
そしてきっと、誰もそのことをちゃんと知らない。
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