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ぼくは人間を食べない  作者: きなこもち
第1章

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誰も選べない



 ドラッグストアを出たのは、昼がだいぶ傾いてからだった。


 外の様子を何度も窺って、群れの薄い時間を待ち、裏口から一人ずつ抜ける。

 慎重だった。

 慎重であるはずだった。

 けれど、慎重でいられる時間にも限りがある。


 食料は少ない。

 水も足りない。

 いつまでもあの場所に籠もっていれば、どのみち詰む。


 だから出るしかない。


 優花里は、最後から二番目に裏口を出た。


 外の空気は思ったより明るくて、でもまったく優しくなかった。風が生ぬるい。道路にはまだ朝のままの血が残っていて、遠くでは何かが倒れる音がする。静かなのに、どこにも安全がない音だった。


 先頭には隼人がいる。


 背中越しに見るだけで、少し安心する。

 同時に、その背中がまた無茶をするんじゃないかという嫌な予感もあった。


 優花里たちの小さな集団は、店の裏手から住宅街へ入り、できるだけ目立たない道を選んで進んだ。壊れたブロック塀の隙間、車の陰、植え込みの裏。まっすぐ進めば早い場所でも、隼人は一度立ち止まって必ず後ろを確認する。


「大丈夫か」

「ついて来れてる?」

「そこ段差ある、気をつけて」


 短い声が何度も飛ぶ。


 子供がいれば歩幅を落とし、老人が息を切らせば荷物を持ち、負傷した男が足を引きずれば肩を貸す。隼人は本当に、目についた“遅れる誰か”を全部拾おうとする。


 そのたびに、優花里の胸の奥で小さく何かがざわついた。


 助かる命もある。

 隼人がいるから、ここまで来られたのも本当だ。

 でも同時に思う。

 その優しさは、いつか全員を巻き込むんじゃないかと。


 先頭を歩く隼人が手を上げた。


 全員が足を止める。


 前方、十字路の先でゾンビが二体うろついていた。通りを横切れば気づかれる可能性が高い。右へ迂回するか、しばらく待つか。隼人は少しだけ考え、それから左の細い路地を指した。


「あっち行こう。遠回りだけど静かだ」


 誰も異論はない。

 今のところは。


 優花里は息を整えながら、その細い路地へ入った。民家と民家の隙間みたいな道で、舗装は割れ、雑草が伸びている。途中までは何事もなかった。


 途中までは。


 子供の泣き声が聞こえたのは、その路地の奥、次の曲がり角に近づいた時だった。


 細い、かすれた泣き声。


 全員の足が止まる。


 優花里は息を呑んだ。

 隼人の背中が、ぴくりと揺れたのが見えた。


「……子供?」


 後ろの女が小声で言う。

 別の男がすぐに首を振った。


「待て。罠かもしれない」

「罠って」

「声で寄せるやつ、前にもあっただろ」


 それは本当だった。

 生き残った人間が囮にされた例も、泣き声や叫び声に釣られて群れが寄ってきたことも、もう珍しくない。


 だからこそ、今ここで立ち止まるのは危険だった。


 けれど、隼人の脚はもう半歩前へ出ていた。


「ちょっと見てくる」

「隼人」


 優花里が呼ぶより先に、隼人は振り返った。

 その顔は迷っているようで、もう決めてもいる顔だった。


「子供の声だ」

「分かってる。でも、今は……」

「だから、ちょっとだけ」


 その“ちょっとだけ”が危ないのだと、優花里は言いたかった。

 でも言葉になる前に、今度は別方向からうめき声がした。


 泣き声とは逆の、路地の奥の塀沿い。

 誰かが倒れている。


 全員の視線がそちらへ向く。


 高齢の男だった。

 片足を押さえたまま、壁に寄りかかっている。

 逃げ遅れたのか、怪我をして動けないのか、顔色が悪い。


 最悪だ、と優花里は思った。


 こういうのが一番悪い。


 助けたいものが二つある時。

 どちらも見捨てられない時。

 隼人は絶対、片方を切れない。


 案の定だった。


「待って、あっちにも人がいる」


 隼人はまず泣き声の方を見て、次に倒れた老人の方を見る。

 どちらへ行くか決められない顔。

 決められないまま、両方へ身体が向こうとする顔。


「隼人、だめだって」


 後ろの男が、今度ははっきり苛立った声で言った。


「どっちかにしろ。いや、違う、どっちも今は無理だ。まずこっちの人数を抜けさせろ」

「でも」

「でもじゃない! 全員抱えられる状況じゃねえだろ!」


 隼人の表情が歪む。


 優花里はそれを見ているのがつらかった。

 だって隼人は本気だからだ。

 格好をつけているわけじゃない。

 善人ぶっているわけでもない。

 本気で、どっちも助けたいと思っている。


 だから苦しい。


「優花里」


 隼人が名前を呼ぶ。

 判断を求めるみたいに。


 優花里は一瞬、言葉を失った。


 ここで優花里が「行かないで」と言えば、隼人は従うかもしれない。

 でもそのせいで子供か老人が死んだら、自分はどう思うのか。

 逆に「助けよう」と言えば、この集団全体が危なくなるかもしれない。


 どちらも嫌だった。


「……時間、かけないで」


 結局、そんな曖昧なことしか言えなかった。

 それが一番だめだと分かっていながら。


 隼人は頷く。


「すぐ戻る」


 そして、まず倒れた老人の方へ駆けた。

 たぶん近い方を先に見ようとしたのだろう。

 その判断も間違いではない。

 でも泣き声はまだ続いている。

 細く、弱く、耳に刺さるみたいに。


 優花里は後ろを振り返った。


 集団の空気がざわついている。

 誰も大きな声は出さない。

 でも足元の動き、呼吸、視線で分かる。

 崩れかけている。


 こういう時、恐怖はすぐ伝染する。


「……優花里ちゃん、どうするの」


 小さな子供を抱いた女が、不安そうに聞いてきた。

 優花里は喉が詰まる。

 自分が答えるべきことじゃない。

 でも隼人は今、前にいる。


「少しだけ、待って」

「少しって」

「お願い、静かに」


 言いながら、自分の声が震えているのが分かった。


 その時だった。


 路地の入口の方で、金属がぶつかるような大きな音が響いた。


 がん、と一発。

 続いて、がらがら、と何かが転がる音。


 全員が息を止める。


「やばい……」


 誰かがそう呟くより早く、遠くから引きずるような足音が複数重なった。


 来る。


 音に引かれたのだ。


 優花里の背中に冷たいものが走る。

 隼人も気づいたらしく、老人を抱え起こしかけた姿勢のままこちらを見る。


「優花里! 先に――」


 言い終わる前に、今度は泣き声の方から小さな影が飛び出してきた。


 子供だ。

 本当に子供だった。

 五つか六つくらいの、小さな男の子。

 涙でぐしゃぐしゃの顔で、路地の角からよろよろ走り出してくる。


「まま……っ」


 その声で、全員の空気が完全に崩れた。


 隼人が子供へ向かう。

 だが同時に、支えかけていた老人の身体が傾く。

 放せば倒れる。

 放さなければ子供が危ない。


 最悪だ。


 本当に最悪だ。


 隼人の顔が、一瞬だけ真っ白になる。


 優花里は動いた。

 考えるより先に、集団の前へ出る。


「こっち!」


 子供へ向かって手を伸ばす。

 その声に、泣きながら走ってきた小さな影がこちらを見る。


 だがそのさらに向こう、路地の入口から、もう最初のゾンビの影が差し込んでいた。


 間に合わない。

 そう思った、その瞬間。


 また別の方向で、ひどく大きな物音がした。


 今度は路地の外、建物の角の向こう側。

 何か重いものがフェンスにぶつかったような音。

 続けて、金属が歪む不快な音。


 路地の入口に差しかかったゾンビたちの首が、一斉にそちらを向く。


 一拍遅れて、身体の向きも変わった。


 優花里は目を見開く。


 何が起きたのか分からない。


 でもその一拍で十分だった。


「優花里、子供!」

「うん!」


 優花里は飛び出してきた男の子の腕をつかむ。

 同時に隼人が老人の身体を無理やり引き上げ、肩に回した。

 後ろの大人たちもようやく動く。

 誰かが女を押し、誰かが荷物を持ち、集団が一気に前へ流れた。


「行け!」

「走れ!」

「振り返るな!」


 隼人の声が飛ぶ。


 路地の先へ。

 とにかく前へ。


 優花里は子供の手を引いて走った。

 小さな手は汗で滑る。

 息が苦しい。

 背後ではまだ金属音と、群れのぶつかり合う音が続いている。


 あれは偶然なのか。

 本当にたまたまなのか。


 頭のどこかで思う。

 思うけれど、今は立ち止まれない。


 角を曲がる。

 さらに先の駐車場跡へ抜ける。

 そこでようやく、優花里は一度だけ振り返った。


 路地の入口の向こう。

 建物の陰。

 群れの最後尾に、見覚えのある影がいた。


 汚れていて、ほかのゾンビと変わらない。

 背を丸め、半分崩れたフェンスに身体をぶつけたまま、周囲の流れの中で不自然に立っている一体。


 あのドラッグストアの前で見たのと、同じ。


 そう思った瞬間、隼人の声が飛んだ。


「優花里!」


 優花里ははっとして前を向く。

 足を止めたのは一瞬だったのに、心臓が嫌なくらい強く打った。


 隼人が子供と老人を両方抱えるみたいな無茶な姿勢で、こちらへ手を伸ばしている。

 その顔は苦しそうだ。

 でもまだ、誰も置いていっていない。


 優花里はその手を取り、再び走った。


 しばらくして完全に足音が遠のき、ようやく人の気配のない住宅の裏庭みたいな場所へ滑り込んだ時、誰もすぐには喋れなかった。


 息を切らし、しゃがみ込み、子供を抱きしめたまま泣き出す女がいる。

 老人はまだ青い顔のまま、隼人に支えられて座り込んでいた。


 優花里は膝に手をついて呼吸を整えながら、隼人の方を見た。


 隼人は、明らかに限界だった。

 肩で息をして、額に汗を浮かべ、今にも倒れそうなのに、真っ先に周囲を見て人数を数えている。


「……全員、いるか」


 その声がかすれていた。


 優花里は返事の代わりに周囲を見渡す。

 子供もいる。

 老人もいる。

 もとの仲間たちも、全員いる。


 助かった。


 たしかに、助かった。


 けれどその事実が、優花里の胸を軽くはしなかった。


「隼人」


 呼ぶと、隼人が顔を上げる。

 その目にはまだ、間に合った安堵より、“どっちも助けられた”というほっとした色の方が強かった。


 たぶん今の隼人は、自分がどれだけ危なかったかを分かっている。

 それでも同時に、見捨てなくてよかったと思ってしまっている。


 それが隼人なのだ。


「大丈夫?」


 聞くと、隼人は少しだけ笑った。


「……大丈夫じゃないけど、なんとか」


 その答えに、優花里も少しだけ笑いそうになる。

 でもできなかった。


 代わりに、さっき見た路地の入口を思い出す。

 群れの最後尾にいた、あの一体。

 偶然と呼ぶには、二度目だった。


 優花里は息を吐く。


「今日もいた」


「え?」


 隼人が聞き返す。

 優花里は少し迷ってから、首を振った。


「……なんでもない」


 本当は、なんでもなくない。

 でも今ここで言っても、うまく説明できる気がしなかった。


 隼人はそれ以上追及しなかった。

 代わりに、泣きじゃくる子供の方へ視線を向ける。

 その横顔は、やっぱり優しかった。

 優しくて、正しくて、だから危うい。


 優花里は自分の手のひらを見る。


 さっき掴んだ子供の汗がまだ残っている気がした。

 助けられてよかったと、ちゃんと思う。

 でも、あの場で隼人が一瞬止まったことも忘れられない。

 止まったのではなく、止まらざるをえなかったことも。


 誰も選べない。


 その優しさが、今はまだみんなを助けている。

 でも、いつかそれでは足りなくなる気がした。


 風が吹く。


 住宅の裏庭に干からびた洗濯物が揺れる。

 遠くでまた何かが倒れる音がした。


 その音に、優花里の胸の奥の棘が、また小さく疼く。


 今日もいた。


 あの一体は、今日もそこにいた。


 そしてきっと、誰もそのことをちゃんと知らない。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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