主人公が拾えない死
男は、這うたびに短い息を吐いた。
片足がもう使いものになっていないらしい。膝から下が妙にねじれていて、動くたびに擦れた靴底が地面を引っかく。血の匂いもする。新しい血だ。乾いていない。朝の冷たい空気の中で、その匂いだけがひどく生ぬるく感じられた。
悟は男から少し距離を取ったまま、あとを追う。
追う、という言葉が正しいのか分からない。
助けるわけでもない。
襲うわけでもない。
ただ、見失わないようにしているだけだ。
男はドラッグストアの裏手へ回り込むように、狭い通路へ身体を引きずり込んだ。表の入口前よりは静かだ。壊れた自転車、倒れた灯油缶、壁際に積まれた段ボールの残骸。そういうものが散乱していて、群れの視線から少し隠れるには悪くない場所に見える。
ただし、悪くないだけだ。
安全ではない。
男もそれくらい分かっているはずだった。
分かっていて、それでもここまで来るしかなかったのだ。
壁に背をつけ、男はようやく動きを止めた。
荒い呼吸。
汗。
血。
生きた人間の匂い。
悟の喉がひどく鳴る。
離れろ、と思う。
でも足は動かない。
離れたら、他の連中が先に見つける。
近づいたら、自分が噛むかもしれない。
男は震える指で、腰のあたりを探った。
ポケットから何かを取り出そうとしているらしい。
財布か、スマホか、それとも武器か。
うまく掴めないまま、何度も指が滑る。
そのたびに、悟は目を逸らしたくなる。
生きている人間は、必死だ。
必死に生きようとする。
その姿を見るたび、腹が減る。
そのくせ、胸の奥のどこかが、嫌な形に縮む。
男はようやく小さな写真立てみたいなものを掴み出した。
折れた透明ケースに入った証明写真だった。
女と子供が写っている。
家族なのだろう。
男はそれを見て、何か言おうとした。
「……み……」
声は続かなかった。
咳き込むように喉が鳴る。
吐き気を堪えるみたいに顔が歪む。
悟は一歩だけ後ろへ下がった。
だめだ。
近い。
匂いが近い。
さっきから頭の中で、同じ言葉ばかりが回る。
食べたい。
食うな。
食べたい。
食うな。
男は今度こそ悟を見た。
さっき表通りで目が合った時の、むき出しの恐怖とは少し違う顔だった。恐れているのは変わらない。だがもう、逃げ切れないと分かっている人間の顔だ。
「く、るな……」
また同じことを言う。
かすれた声だった。
それでも意味は分かる。
近寄るな。
たぶん、そうだ。
悟は動かない。
男の目が揺れる。
どうして来ないのか分からないという戸惑いが、その奥にわずかに混ざる。
でもその戸惑いより先に、別の音がした。
通りの方から、がらり、と何かが倒れる音。
群れの足音。
引きずるような、重い、ばらばらな複数の足音。
来る。
悟は振り返った。
狭い通路の入口の向こう、朝の白い光の中に二つ、三つ、人影が揺れている。
さっきの入口前から流れてきた連中だ。
まだこちらには気づいていない。
だが時間の問題だった。
悟は通路の半ばまで戻った。
自分でも、何をしようとしているのかよく分からない。
戦うわけじゃない。
勝てるわけがない。
ただ、少しでも遅らせる。
いつもそうだ。
できるのはせいぜいそれだけ。
入口のそばに転がっていた灯油缶を蹴る。
缶は壁に当たって派手な音を立て、そのまま反対側へ転がった。
群れの先頭がそちらを向く。
一体、二体がわずかに逸れる。
足りない。
悟はさらに前へ出て、倒れた自転車を押し倒した。
車輪が回り、金属音が通路いっぱいに響く。
先頭の一体が自転車へぶつかり、もつれた。
少しだけ流れが詰まる。
それだけだ。
それだけしかできない。
背後で、男が短く息を呑む気配がした。
見ているのだろう。
自分を。
目の前のゾンビが、自分ではなく他のゾンビを足止めしている、その異様さを。
でも、分かったところで何も変わらない。
悟は通路の入口で一体の肩を押しのけた。
腐った腕が顔の横をかすめる。
爪が首筋を裂いた気がする。
もう痛くはない。
ただ、自分の中の何かがまた少し剥がれたような感覚だけがある。
群れの数は増える。
音と匂いが重なって、だんだん頭が白くなっていく。
飢えが強い。
近くに人間がいる。
すぐ後ろにいる。
壁に追い詰められて、逃げ場のない、生きた肉が。
喉の奥から、ひどく低い音が漏れた。
危ない、と自分で分かる。
このまま振り返れば、噛める。
簡単に噛める。
だから振り返らない。
悟は通路の入口で、半分崩れたゴミ箱をさらに蹴り飛ばした。
その音に引かれて、先頭の何体かがそちらへ群がる。
ほんの数秒。
数歩分の時間。
それだけ稼いで、悟はようやく背後を見た。
男は壁にもたれたまま、写真を握りしめていた。
顔色が変わっている。
呼吸が浅い。
目の焦点も少しおかしい。
血の匂いだけじゃない、別の熱が滲んでいた。
発症が始まっているのかもしれない。
男は悟を見て、息を吸った。
「……なん、で……」
その続きは言葉にならなかった。
なんで襲わないのか。
なんでそこに立っているのか。
なんで助けるみたいなことをしているのか。
たぶん、そういう意味だった。
悟は答えられない。
答えたいとも思わない。
答えたところで信じられないだろうし、自分でもうまく説明できない。
食べたら終わるから。
まだ人間でいたいから。
見たくないから。
おまえが食われるのを、少しでも遅らせたいから。
そんなの、全部ただの自己満足かもしれなかった。
男の肩が震える。
そのまま写真を胸に押し当てるようにして、目を閉じた。
諦めたのか。
祈ったのか。
悟には分からない。
分からないまま、通路の外でまた音がした。
今度はもっと近い。
もう流れは止めきれない。
一体が自転車を踏み越える。
次が来る。
その次も。
悟は半歩だけ前へ出た。
それで何かが変わるわけじゃない。
でも、そうせずにはいられなかった。
最初の一体が通路へ入ってくる。
悟はその肩にぶつかり、軌道をずらした。
続く一体の脚がそれに引っかかる。
少しだけ、もつれる。
その隙に男が逃げられるわけでもない。
ただ、ほんの一拍だけ時間が伸びる。
男は目を開いた。
その目はもう、悟を見ていなかった。
もっと遠くを見ている。
家かもしれない。
家族かもしれない。
そういう、ここじゃない場所。
「……彩、花……」
女の名前だろうか。
「……春、斗……」
子供の名前かもしれない。
それだけ言って、男の喉がひどく鳴った。
次の瞬間には、群れが通路へ流れ込む。
悟は横へ身体を逃がした。
逃がすしかない。
そこで男を庇えば、自分ごと食いつかれる。
いや、それ以前に、後ろを向いた瞬間に自分が噛みつくかもしれない。
男の短い悲鳴が、通路の壁に反響した。
それも長くは続かなかった。
鈍い音。
布の裂ける音。
湿った咀嚼音。
悟は壁に背を打ちつけたまま、目を閉じることもできずにそれを聞いていた。
聞こえる。
全部。
助けてくれ、も。
痛い、も。
ごめん、も。
たぶん全部、今までにも何度もあった。
そのたびに、少しずつ慣れていくはずだった。
なのに、慣れない。
慣れたくないのかもしれない。
どれくらいそうしていたのか分からない。
群れが通路の奥へ押し寄せ、やがて食うものを食い終えた何体かが、別の匂いを探すみたいに動き始める。
悟はその隙に壁沿いへ身体を滑らせ、通路の奥から外へ抜けた。
男がいた場所には、もう男はいなかった。
あったのは、血と、破れた服と、握り潰された写真だけだ。
写真の透明ケースは割れ、女と子供の顔に血がにじんでいた。
男の財布も落ちている。
中から免許証か何かが半分飛び出していた。
名前を見ようと思えば見られたかもしれない。
でも悟は、それをしなかった。
名前を知ったところでどうしようもない。
覚えても、誰にも伝えられない。
写真の横に、スマホが落ちていた。
画面は割れて真っ黒だ。
着信も通知も、もう来ないだろう。
悟はそれらをしばらく見下ろしていた。
風が吹く。
血の匂いが薄まる。
代わりに、ドラッグストアの換気口か、少し開いた裏窓か、どこかから人間の声が流れてきた。
「分かる人だけでも、名前、書いておきたいの」
女の声だった。
静かで、でもはっきりした声。
「分からない人は?」
と別の誰かが聞く。
「……分からないままでも、いたってことは残したい」
悟は動きを止めた。
声の主が誰か、考えるまでもなかった。
さっき入口の隙間からこちらを見ていた女の子だ。
優花里。
まだ名前は知らない。
でも、あの声だと思った。
名前が分からなくても、いたことは残したい。
その言葉が、壊れた通路の空気の中で妙にはっきり残った。
悟は足元の写真へもう一度目を落とす。
女と子供が笑っている。
男はもういない。
名前も、きっとこのまま誰にも分からない。
でも、中にいるあの子は、分からないなりに残そうとしている。
助かった人だけじゃなく、
助からなかった誰かも。
悟は胸の奥が変に重くなるのを感じた。
腹は減っている。
喉は焼ける。
それは変わらない。
けれど今、別のものがそこに混ざった。
たぶん驚きだ。
たぶん、ほんの少しだけの安堵だ。
表で助かった人間たちの中に、
裏で落ちたものを見ようとするやつが、一人だけいる。
その事実は、終わりかけた世界のくせに妙にまぶしかった。
悟は割れた写真から目を逸らし、ドラッグストアの壁を見上げた。
白くなりきった朝の光の中で、換気口はただの黒い四角にしか見えない。
その向こうに、人間がいる。
助かった人間と、助からなかった人間を分ける薄い壁がある。
悟はその場にしゃがみ込み、潰れた喉の奥で小さく空気を吐いた。
声にはならない。
それでも今は、それでよかった。
言えたところで届かない。
届いたところで、何も変わらない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
自分だけが見ているわけじゃない。
少なくとも、あの子は忘れない。
悟はゆっくり立ち上がった。
通路の奥では、まだ群れが何体かうろついている。
表通りも完全には静まっていない。
危険は終わっていない。
たぶん今日も、どこかでまた誰かが落ちる。
それでも、さっきまでよりほんの少しだけ、
朝の街の色が違って見えた。
もちろん、きれいになったわけじゃない。
壊れた車。
乾いた血。
生ぬるい風。
腐臭と人間の匂い。
何も変わらない。
変わらないまま、
悟はドラッグストアの裏を離れた。
助かった側の物語は、たぶんこのあとも続いていく。
隼人がいて、
あの子がいて、
仲間がいて、
次の安全地帯を目指していく。
その物語の中に、自分の居場所はない。
でも、たぶんまた近くにいる。
表から落ちるものがある限り、
自分はたぶん、そこへ行ってしまう。
腹が鳴る。
食べたい。
でも食べない。
それだけを繰り返しながら、
立花悟は朝の街の影へ、静かに溶けていった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!!
もし作品を気に入っていただけましたら、
下部の☆☆☆☆☆より評価をいただけると大変励みになります。
★★★★★を入れていただけると作者のやる気が大幅に上がります(^^)/
また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。
引き続きよろしくお願いいたします。




