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ぼくは人間を食べない  作者: きなこもち
第1章

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3/5

主人公が拾えない死



 男は、這うたびに短い息を吐いた。


 片足がもう使いものになっていないらしい。膝から下が妙にねじれていて、動くたびに擦れた靴底が地面を引っかく。血の匂いもする。新しい血だ。乾いていない。朝の冷たい空気の中で、その匂いだけがひどく生ぬるく感じられた。


 悟は男から少し距離を取ったまま、あとを追う。


 追う、という言葉が正しいのか分からない。


 助けるわけでもない。

 襲うわけでもない。

 ただ、見失わないようにしているだけだ。


 男はドラッグストアの裏手へ回り込むように、狭い通路へ身体を引きずり込んだ。表の入口前よりは静かだ。壊れた自転車、倒れた灯油缶、壁際に積まれた段ボールの残骸。そういうものが散乱していて、群れの視線から少し隠れるには悪くない場所に見える。


 ただし、悪くないだけだ。


 安全ではない。


 男もそれくらい分かっているはずだった。

 分かっていて、それでもここまで来るしかなかったのだ。


 壁に背をつけ、男はようやく動きを止めた。


 荒い呼吸。

 汗。

 血。

 生きた人間の匂い。


 悟の喉がひどく鳴る。


 離れろ、と思う。


 でも足は動かない。


 離れたら、他の連中が先に見つける。

 近づいたら、自分が噛むかもしれない。


 男は震える指で、腰のあたりを探った。

 ポケットから何かを取り出そうとしているらしい。

 財布か、スマホか、それとも武器か。

 うまく掴めないまま、何度も指が滑る。


 そのたびに、悟は目を逸らしたくなる。


 生きている人間は、必死だ。

 必死に生きようとする。

 その姿を見るたび、腹が減る。

 そのくせ、胸の奥のどこかが、嫌な形に縮む。


 男はようやく小さな写真立てみたいなものを掴み出した。


 折れた透明ケースに入った証明写真だった。

 女と子供が写っている。

 家族なのだろう。

 男はそれを見て、何か言おうとした。


「……み……」


 声は続かなかった。


 咳き込むように喉が鳴る。

 吐き気を堪えるみたいに顔が歪む。

 悟は一歩だけ後ろへ下がった。


 だめだ。


 近い。


 匂いが近い。


 さっきから頭の中で、同じ言葉ばかりが回る。


 食べたい。

 食うな。

 食べたい。

 食うな。


 男は今度こそ悟を見た。


 さっき表通りで目が合った時の、むき出しの恐怖とは少し違う顔だった。恐れているのは変わらない。だがもう、逃げ切れないと分かっている人間の顔だ。


「く、るな……」


 また同じことを言う。


 かすれた声だった。

 それでも意味は分かる。

 近寄るな。

 たぶん、そうだ。


 悟は動かない。


 男の目が揺れる。

 どうして来ないのか分からないという戸惑いが、その奥にわずかに混ざる。


 でもその戸惑いより先に、別の音がした。


 通りの方から、がらり、と何かが倒れる音。

 群れの足音。

 引きずるような、重い、ばらばらな複数の足音。


 来る。


 悟は振り返った。


 狭い通路の入口の向こう、朝の白い光の中に二つ、三つ、人影が揺れている。

 さっきの入口前から流れてきた連中だ。

 まだこちらには気づいていない。

 だが時間の問題だった。


 悟は通路の半ばまで戻った。


 自分でも、何をしようとしているのかよく分からない。

 戦うわけじゃない。

 勝てるわけがない。

 ただ、少しでも遅らせる。


 いつもそうだ。

 できるのはせいぜいそれだけ。


 入口のそばに転がっていた灯油缶を蹴る。

 缶は壁に当たって派手な音を立て、そのまま反対側へ転がった。

 群れの先頭がそちらを向く。

 一体、二体がわずかに逸れる。


 足りない。


 悟はさらに前へ出て、倒れた自転車を押し倒した。

 車輪が回り、金属音が通路いっぱいに響く。

 先頭の一体が自転車へぶつかり、もつれた。


 少しだけ流れが詰まる。


 それだけだ。


 それだけしかできない。


 背後で、男が短く息を呑む気配がした。

 見ているのだろう。

 自分を。

 目の前のゾンビが、自分ではなく他のゾンビを足止めしている、その異様さを。


 でも、分かったところで何も変わらない。


 悟は通路の入口で一体の肩を押しのけた。

 腐った腕が顔の横をかすめる。

 爪が首筋を裂いた気がする。

 もう痛くはない。

 ただ、自分の中の何かがまた少し剥がれたような感覚だけがある。


 群れの数は増える。


 音と匂いが重なって、だんだん頭が白くなっていく。

 飢えが強い。

 近くに人間がいる。

 すぐ後ろにいる。

 壁に追い詰められて、逃げ場のない、生きた肉が。


 喉の奥から、ひどく低い音が漏れた。


 危ない、と自分で分かる。


 このまま振り返れば、噛める。


 簡単に噛める。


 だから振り返らない。


 悟は通路の入口で、半分崩れたゴミ箱をさらに蹴り飛ばした。

 その音に引かれて、先頭の何体かがそちらへ群がる。

 ほんの数秒。

 数歩分の時間。


 それだけ稼いで、悟はようやく背後を見た。


 男は壁にもたれたまま、写真を握りしめていた。


 顔色が変わっている。

 呼吸が浅い。

 目の焦点も少しおかしい。

 血の匂いだけじゃない、別の熱が滲んでいた。

 発症が始まっているのかもしれない。


 男は悟を見て、息を吸った。


「……なん、で……」


 その続きは言葉にならなかった。


 なんで襲わないのか。

 なんでそこに立っているのか。

 なんで助けるみたいなことをしているのか。


 たぶん、そういう意味だった。


 悟は答えられない。


 答えたいとも思わない。

 答えたところで信じられないだろうし、自分でもうまく説明できない。


 食べたら終わるから。

 まだ人間でいたいから。

 見たくないから。

 おまえが食われるのを、少しでも遅らせたいから。


 そんなの、全部ただの自己満足かもしれなかった。


 男の肩が震える。


 そのまま写真を胸に押し当てるようにして、目を閉じた。


 諦めたのか。

 祈ったのか。

 悟には分からない。


 分からないまま、通路の外でまた音がした。

 今度はもっと近い。

 もう流れは止めきれない。


 一体が自転車を踏み越える。

 次が来る。

 その次も。


 悟は半歩だけ前へ出た。


 それで何かが変わるわけじゃない。

 でも、そうせずにはいられなかった。


 最初の一体が通路へ入ってくる。

 悟はその肩にぶつかり、軌道をずらした。

 続く一体の脚がそれに引っかかる。

 少しだけ、もつれる。


 その隙に男が逃げられるわけでもない。

 ただ、ほんの一拍だけ時間が伸びる。


 男は目を開いた。


 その目はもう、悟を見ていなかった。

 もっと遠くを見ている。

 家かもしれない。

 家族かもしれない。

 そういう、ここじゃない場所。


「……彩、花……」


 女の名前だろうか。


「……春、斗……」


 子供の名前かもしれない。


 それだけ言って、男の喉がひどく鳴った。


 次の瞬間には、群れが通路へ流れ込む。


 悟は横へ身体を逃がした。

 逃がすしかない。

 そこで男を庇えば、自分ごと食いつかれる。

 いや、それ以前に、後ろを向いた瞬間に自分が噛みつくかもしれない。


 男の短い悲鳴が、通路の壁に反響した。


 それも長くは続かなかった。


 鈍い音。

 布の裂ける音。

 湿った咀嚼音。


 悟は壁に背を打ちつけたまま、目を閉じることもできずにそれを聞いていた。


 聞こえる。


 全部。


 助けてくれ、も。

 痛い、も。

 ごめん、も。

 たぶん全部、今までにも何度もあった。


 そのたびに、少しずつ慣れていくはずだった。

 なのに、慣れない。


 慣れたくないのかもしれない。


 どれくらいそうしていたのか分からない。


 群れが通路の奥へ押し寄せ、やがて食うものを食い終えた何体かが、別の匂いを探すみたいに動き始める。

 悟はその隙に壁沿いへ身体を滑らせ、通路の奥から外へ抜けた。


 男がいた場所には、もう男はいなかった。


 あったのは、血と、破れた服と、握り潰された写真だけだ。


 写真の透明ケースは割れ、女と子供の顔に血がにじんでいた。

 男の財布も落ちている。

 中から免許証か何かが半分飛び出していた。

 名前を見ようと思えば見られたかもしれない。


 でも悟は、それをしなかった。


 名前を知ったところでどうしようもない。

 覚えても、誰にも伝えられない。


 写真の横に、スマホが落ちていた。

 画面は割れて真っ黒だ。

 着信も通知も、もう来ないだろう。


 悟はそれらをしばらく見下ろしていた。


 風が吹く。


 血の匂いが薄まる。

 代わりに、ドラッグストアの換気口か、少し開いた裏窓か、どこかから人間の声が流れてきた。


「分かる人だけでも、名前、書いておきたいの」


 女の声だった。


 静かで、でもはっきりした声。


「分からない人は?」

 と別の誰かが聞く。


「……分からないままでも、いたってことは残したい」


 悟は動きを止めた。


 声の主が誰か、考えるまでもなかった。


 さっき入口の隙間からこちらを見ていた女の子だ。


 優花里。


 まだ名前は知らない。

 でも、あの声だと思った。


 名前が分からなくても、いたことは残したい。


 その言葉が、壊れた通路の空気の中で妙にはっきり残った。


 悟は足元の写真へもう一度目を落とす。


 女と子供が笑っている。

 男はもういない。

 名前も、きっとこのまま誰にも分からない。


 でも、中にいるあの子は、分からないなりに残そうとしている。


 助かった人だけじゃなく、

 助からなかった誰かも。


 悟は胸の奥が変に重くなるのを感じた。


 腹は減っている。

 喉は焼ける。

 それは変わらない。


 けれど今、別のものがそこに混ざった。


 たぶん驚きだ。

 たぶん、ほんの少しだけの安堵だ。


 表で助かった人間たちの中に、

 裏で落ちたものを見ようとするやつが、一人だけいる。


 その事実は、終わりかけた世界のくせに妙にまぶしかった。


 悟は割れた写真から目を逸らし、ドラッグストアの壁を見上げた。


 白くなりきった朝の光の中で、換気口はただの黒い四角にしか見えない。

 その向こうに、人間がいる。

 助かった人間と、助からなかった人間を分ける薄い壁がある。


 悟はその場にしゃがみ込み、潰れた喉の奥で小さく空気を吐いた。


 声にはならない。


 それでも今は、それでよかった。


 言えたところで届かない。

 届いたところで、何も変わらない。


 ただ一つだけ、確かなことがあった。


 自分だけが見ているわけじゃない。


 少なくとも、あの子は忘れない。


 悟はゆっくり立ち上がった。


 通路の奥では、まだ群れが何体かうろついている。

 表通りも完全には静まっていない。

 危険は終わっていない。

 たぶん今日も、どこかでまた誰かが落ちる。


 それでも、さっきまでよりほんの少しだけ、

 朝の街の色が違って見えた。


 もちろん、きれいになったわけじゃない。


 壊れた車。

 乾いた血。

 生ぬるい風。

 腐臭と人間の匂い。

 何も変わらない。


 変わらないまま、

 悟はドラッグストアの裏を離れた。


 助かった側の物語は、たぶんこのあとも続いていく。

 隼人がいて、

 あの子がいて、

 仲間がいて、

 次の安全地帯を目指していく。


 その物語の中に、自分の居場所はない。


 でも、たぶんまた近くにいる。


 表から落ちるものがある限り、

 自分はたぶん、そこへ行ってしまう。


 腹が鳴る。


 食べたい。


 でも食べない。


 それだけを繰り返しながら、

 立花悟は朝の街の影へ、静かに溶けていった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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