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ぼくは人間を食べない  作者: きなこもち
第1章

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2/8

偶然みたいに助ける




 壊れた看板の影を蹴った。


 正確には、蹴るつもりだったわけじゃない。脚が勝手に前へ出て、バランスが崩れ、そのまま金属の支柱に身体がぶつかっただけだ。がん、と鈍い音が朝の通りに響く。


 その音に、左から流れ込んできていた群れの先頭が一斉に顔を向けた。


 よし、と思う。


 まだそういう思考が残っていることに、自分でもうんざりする。


 群れの動きは単純だ。音、匂い、熱。どれか一つでも強く引っかかれば、流れはそちらへ寄る。完全に操れるわけじゃない。でも少しだけなら、濁った水の向きを変えるみたいに、動きをずらせることがある。


 悟は倒れかけた身体を無理やり起こし、そのままさらに横へ踏み込んだ。


 目の前の一体と肩がぶつかる。


 腐った男の身体が傾く。


 その男が別の女の脚に引っかかり、連鎖的に二、三体がもつれる。


 遅い。


 けれど十分だった。


 ドラッグストア前へ流れ込むはずだった群れの先端が、わずかに詰まる。


「隼人っ!」


 女の声がした。


 はっきり聞こえたわけじゃない。ただ、焦りと恐怖と、誰かの名を呼ぶ気配だけは分かった。


 悟の視線の先で、先頭を走っていた男――相良隼人が、店の入口に半身を突っ込みながら振り返っている。


 自分が先に入ればいいのに、と思う。


 思うのに、あいつはそうしない。


 老人を押し込む。子供の背を支える。荷物を持った女を先に通す。最後に入るつもりだ。そんなことをしている暇はない。分かるだろう。もうすぐ後ろから来る。


 でも分かっていて、やっている顔だった。


 眩しいとか格好いいとか、そういうきれいな感想は出てこない。


 ただ、腹が立つ。


 腹が立つくらい、まともだ。


 悟はもう一度、群れの中へ身体を差し込んだ。


 近い。


 匂いが近すぎる。


 店の入口が開きっぱなしのせいで、中に入り込んだ人間たちの熱と汗が、朝の空気を押し返してくるみたいに流れ出している。


 喉が灼ける。


 腹の底がきしむ。


 歯が、勝手に噛み合う。


 だめだ、と頭の中で言う。


 でも脚は止まらない。


 一体の肩を押し、別の一体の背にぶつかり、悟は無理やり進路を斜めに切った。看板の倒れたフレームに腕が引っかかる。皮膚が裂けるような感覚がある。痛みは薄い。けれど、自分の身体が削れていく感覚だけは不快なほど分かる。


 正面で、子供が転んだ。


 小さな身体が入口前の段差に足を取られたらしい。


 隼人が反射みたいに戻る。


 ああ、やっぱり。


 だからおまえはそうする。


 隼人は子供を抱き上げ、そのまま片腕で入口の中へ押し込む。代わりに自分の身体が、店の外に半歩残る。


 そこへ、群れの先頭が届く。


 悟は思わず歯を食いしばった。


 噛みつける距離だ。


 隼人の肩。首。腕。どこでもいい。周囲のやつらも同じように身体を乗り出している。


 食える。


 簡単に。


 喉の奥から、濁った音が漏れた。


 自分でも聞いたことのないような声だった。怒鳴りたいのか、唸りたいのか、吐きたいのか分からない。人間の声ではないし、かといって他のゾンビの喉から出る無意味な音とも違った。


 隼人が一瞬だけこちらを見る。


 いや、正確にはこちらではなく、群れの異常な崩れ方を見たのかもしれない。


 その視線が自分に触れた気がして、悟は反射的に横へ身体を滑らせた。


 同時に、隣のゾンビの脚を引っかける。


 ぐらり、とその身体が傾き、そのまま隼人に飛びつこうとしていた別の一体へぶつかった。


 もつれる。


 腕が空を掻く。


 隼人がその隙に、ようやく店内へ飛び込む。


 入口のガラス枠に肩を強く打ちながら、それでも中へ滑り込んだ。


 間に合った。


 たぶん、まだ。


 悟の身体も、その勢いで前へ流れる。


 入口まで、あと二歩。


 店内の暗がりが見える。


 崩れた棚。散乱した箱。奥へ逃げた人影。荒い呼吸。汗。血。生きた人間の匂い。とにかく全部が濃い。


 足が勝手に踏み込もうとする。


 だめだ。


 入ったら終わる。


 分かる。


 分かるのに、身体は前へ出たがる。


 悟は入口手前の床に、爪先を無理やり引っかけた。勢いのまま前のめりに倒れこみそうになり、咄嗟に片手をつく。割れたガラス片が掌に食い込む。ぐしゃり、と嫌な音がした。


 それでも、その痛みで少しだけ意識が戻る。


 入るな。


 入れば食う。


 誰かの足首に。

 転んだ子供に。

 後ろを振り返ったあの子に。

 たぶん一番近い、人間の柔らかいところへ。


 店の中から声がする。


「閉めて!」

「押さえて!」

「こっち、早く!」


 人間の言葉だ。


 意味が分かる。


 分かるのに、自分はその中に混ざれない。


 悟は入口の敷居に片膝をついたまま、喉の奥から上がってくる濁った衝動を押し殺した。


 腹が痛い。


 喉が熱い。


 目の奥がちかちかする。


 食べたい。


 食うな。


 食べたい。


 食うな。


 店内の誰かが、押し込まれるようにシャッター代わりの棚を動かす。ぎい、と金属音が響き、入口が少しずつ塞がっていく。


 その隙間から、ひとつの顔が見えた。


 あの女の子だった。


 一ノ瀬優花里。


 まだ名前は知らない。けれど、この時点で悟の中にその顔は妙にくっきり残った。


 彼女は息を切らしたまま、入口の隙間から外を見ていた。


 他の人間みたいに、ただ群れ全体を恐れている目ではなかった。


 誰かを探すみたいな目。


 置いてきたものがないか確かめる目。


 その視線が、ほんの一瞬、悟で止まる。


 心臓があれば跳ねていたかもしれない。


 いや、もしかしたら今でも動いているのかもしれない。よく分からない。とにかく、身体のどこかが変にざわついた。


 優花里は、ただのゾンビを見るみたいにすぐ目を逸らさなかった。


 ほんの一拍。


 本当にわずかな時間だけ。


 何かがおかしい、とでも思ったみたいに、視線が止まった。


 やめろ、と思う。


 見るな。


 気づくな。


 こっちを見るな。


 そう思った瞬間、背後から強い衝撃が来た。


 別のゾンビが、悟の背にぶつかってきたのだ。


 そのまま顔の横を腐った腕がかすめる。歯が頬の皮を浅く裂いた。悟はよろめき、敷居から転がるように後ろへ落ちた。


 入口が完全に閉じる。


 店内の光が細くなって消える。


 最後に見えたのは、隙間の向こうで優花里がまだこちらを見ていたことだけだった。


 次の瞬間には、周囲から群れが押し寄せる。


 悟は地面に片手をついたまま、押し潰されるように身体を丸めた。頭上を何体もの脚が通り過ぎる。店に入り損ねた群れが、閉ざされた入口にぶつかり、鈍い音を立てていた。


 その騒ぎの中に紛れて、悟はゆっくりと身を起こす。


 掌は裂けたままだ。


 頬も削れている。


 でもそんなことはどうでもよかった。


 見られた。


 たぶん。


 いや、気のせいかもしれない。


 あの子が見ていたのは、自分じゃなくて、群れの動きだったのかもしれない。偶然、目が合っただけかもしれない。


 それでいい。


 その方がいい。


 悟はそう思いながら、閉ざされたドラッグストアの入口を見た。


 中には人間がいる。


 助かった人間たち。


 少なくとも今はまだ。


 だが、そのすぐ裏側には別の現実がある。


 入れなかったやつ。

 遅れたやつ。

 気づかれなかったやつ。

 たいてい、そういうのは出る。


 そして、たいてい誰にも拾われない。


 悟は道路脇へ視線を移した。


 いた。


 店の陰。搬入口に続く狭い通路のあたり。

 倒れたまま、動けずにいる人間が一人。


 さっきの混乱で取り残されたのだろう。

 足を引きずっている。いや、膝から下が妙な方向に曲がっている。

 噛まれたのか、転倒したのかは分からない。

 でも、ここにいる時点で、もう遅い。


 男は必死に這っていた。


 ドラッグストアの裏手へ。

 少しでも群れの目から逃れようとして。

 その途中で、悟に気づく。


 目が合った。


 男の顔から、色が抜ける。


 当然だ。


 助けが来たのではない。

 ゾンビがいただけだ。


 悟は動かなかった。


 動けなかった、の方が正しいかもしれない。


 近づけば食いたい。

 でも、離れれば他の連中が先に来る。


 男は震える唇で何かを言った。


「……くる、な」


 かすれた声だった。


 悟は本当に近づかなかった。


 その言葉が分かったからではない。

 たぶん、分からなくても近づけなかった。


 喉が焼ける。


 腹が軋む。


 さっき店の前で浴びた匂いがまだ鼻の奥にこびりついていて、頭がうまく回らない。


 男は這う。


 悟は見る。


 朝の街は白くなっていく。


 その白さの中で、ドラッグストアの中に助かった命と、外に取り残された命と、群れに紛れて立っている自分だけが、ひどくくっきりして見えた。


 たぶん、これがいつもの形だ。


 表で誰かが助かって、

 裏で誰かが落ちる。


 そして落ちた方を、だいたい自分だけが見ている。


 悟はゆっくりと、取り残された男の方へ顔を向け直した。


 群れの足音が近い。


 間に合わない。


 それでも、少しだけでも遅らせることならできるかもしれない。


 たぶんまた、そうしてしまう。


 喉の奥で、潰れた音が鳴った。


 人間には聞き取れない音だ。

 自分にしか分からない、決意にも似た、ひどく濁った息だった。


 そして立花悟は、助かった人間たちではなく、

 助からなかった一人の方へ歩き出した。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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