偶然みたいに助ける
壊れた看板の影を蹴った。
正確には、蹴るつもりだったわけじゃない。脚が勝手に前へ出て、バランスが崩れ、そのまま金属の支柱に身体がぶつかっただけだ。がん、と鈍い音が朝の通りに響く。
その音に、左から流れ込んできていた群れの先頭が一斉に顔を向けた。
よし、と思う。
まだそういう思考が残っていることに、自分でもうんざりする。
群れの動きは単純だ。音、匂い、熱。どれか一つでも強く引っかかれば、流れはそちらへ寄る。完全に操れるわけじゃない。でも少しだけなら、濁った水の向きを変えるみたいに、動きをずらせることがある。
悟は倒れかけた身体を無理やり起こし、そのままさらに横へ踏み込んだ。
目の前の一体と肩がぶつかる。
腐った男の身体が傾く。
その男が別の女の脚に引っかかり、連鎖的に二、三体がもつれる。
遅い。
けれど十分だった。
ドラッグストア前へ流れ込むはずだった群れの先端が、わずかに詰まる。
「隼人っ!」
女の声がした。
はっきり聞こえたわけじゃない。ただ、焦りと恐怖と、誰かの名を呼ぶ気配だけは分かった。
悟の視線の先で、先頭を走っていた男――相良隼人が、店の入口に半身を突っ込みながら振り返っている。
自分が先に入ればいいのに、と思う。
思うのに、あいつはそうしない。
老人を押し込む。子供の背を支える。荷物を持った女を先に通す。最後に入るつもりだ。そんなことをしている暇はない。分かるだろう。もうすぐ後ろから来る。
でも分かっていて、やっている顔だった。
眩しいとか格好いいとか、そういうきれいな感想は出てこない。
ただ、腹が立つ。
腹が立つくらい、まともだ。
悟はもう一度、群れの中へ身体を差し込んだ。
近い。
匂いが近すぎる。
店の入口が開きっぱなしのせいで、中に入り込んだ人間たちの熱と汗が、朝の空気を押し返してくるみたいに流れ出している。
喉が灼ける。
腹の底がきしむ。
歯が、勝手に噛み合う。
だめだ、と頭の中で言う。
でも脚は止まらない。
一体の肩を押し、別の一体の背にぶつかり、悟は無理やり進路を斜めに切った。看板の倒れたフレームに腕が引っかかる。皮膚が裂けるような感覚がある。痛みは薄い。けれど、自分の身体が削れていく感覚だけは不快なほど分かる。
正面で、子供が転んだ。
小さな身体が入口前の段差に足を取られたらしい。
隼人が反射みたいに戻る。
ああ、やっぱり。
だからおまえはそうする。
隼人は子供を抱き上げ、そのまま片腕で入口の中へ押し込む。代わりに自分の身体が、店の外に半歩残る。
そこへ、群れの先頭が届く。
悟は思わず歯を食いしばった。
噛みつける距離だ。
隼人の肩。首。腕。どこでもいい。周囲のやつらも同じように身体を乗り出している。
食える。
簡単に。
喉の奥から、濁った音が漏れた。
自分でも聞いたことのないような声だった。怒鳴りたいのか、唸りたいのか、吐きたいのか分からない。人間の声ではないし、かといって他のゾンビの喉から出る無意味な音とも違った。
隼人が一瞬だけこちらを見る。
いや、正確にはこちらではなく、群れの異常な崩れ方を見たのかもしれない。
その視線が自分に触れた気がして、悟は反射的に横へ身体を滑らせた。
同時に、隣のゾンビの脚を引っかける。
ぐらり、とその身体が傾き、そのまま隼人に飛びつこうとしていた別の一体へぶつかった。
もつれる。
腕が空を掻く。
隼人がその隙に、ようやく店内へ飛び込む。
入口のガラス枠に肩を強く打ちながら、それでも中へ滑り込んだ。
間に合った。
たぶん、まだ。
悟の身体も、その勢いで前へ流れる。
入口まで、あと二歩。
店内の暗がりが見える。
崩れた棚。散乱した箱。奥へ逃げた人影。荒い呼吸。汗。血。生きた人間の匂い。とにかく全部が濃い。
足が勝手に踏み込もうとする。
だめだ。
入ったら終わる。
分かる。
分かるのに、身体は前へ出たがる。
悟は入口手前の床に、爪先を無理やり引っかけた。勢いのまま前のめりに倒れこみそうになり、咄嗟に片手をつく。割れたガラス片が掌に食い込む。ぐしゃり、と嫌な音がした。
それでも、その痛みで少しだけ意識が戻る。
入るな。
入れば食う。
誰かの足首に。
転んだ子供に。
後ろを振り返ったあの子に。
たぶん一番近い、人間の柔らかいところへ。
店の中から声がする。
「閉めて!」
「押さえて!」
「こっち、早く!」
人間の言葉だ。
意味が分かる。
分かるのに、自分はその中に混ざれない。
悟は入口の敷居に片膝をついたまま、喉の奥から上がってくる濁った衝動を押し殺した。
腹が痛い。
喉が熱い。
目の奥がちかちかする。
食べたい。
食うな。
食べたい。
食うな。
店内の誰かが、押し込まれるようにシャッター代わりの棚を動かす。ぎい、と金属音が響き、入口が少しずつ塞がっていく。
その隙間から、ひとつの顔が見えた。
あの女の子だった。
一ノ瀬優花里。
まだ名前は知らない。けれど、この時点で悟の中にその顔は妙にくっきり残った。
彼女は息を切らしたまま、入口の隙間から外を見ていた。
他の人間みたいに、ただ群れ全体を恐れている目ではなかった。
誰かを探すみたいな目。
置いてきたものがないか確かめる目。
その視線が、ほんの一瞬、悟で止まる。
心臓があれば跳ねていたかもしれない。
いや、もしかしたら今でも動いているのかもしれない。よく分からない。とにかく、身体のどこかが変にざわついた。
優花里は、ただのゾンビを見るみたいにすぐ目を逸らさなかった。
ほんの一拍。
本当にわずかな時間だけ。
何かがおかしい、とでも思ったみたいに、視線が止まった。
やめろ、と思う。
見るな。
気づくな。
こっちを見るな。
そう思った瞬間、背後から強い衝撃が来た。
別のゾンビが、悟の背にぶつかってきたのだ。
そのまま顔の横を腐った腕がかすめる。歯が頬の皮を浅く裂いた。悟はよろめき、敷居から転がるように後ろへ落ちた。
入口が完全に閉じる。
店内の光が細くなって消える。
最後に見えたのは、隙間の向こうで優花里がまだこちらを見ていたことだけだった。
次の瞬間には、周囲から群れが押し寄せる。
悟は地面に片手をついたまま、押し潰されるように身体を丸めた。頭上を何体もの脚が通り過ぎる。店に入り損ねた群れが、閉ざされた入口にぶつかり、鈍い音を立てていた。
その騒ぎの中に紛れて、悟はゆっくりと身を起こす。
掌は裂けたままだ。
頬も削れている。
でもそんなことはどうでもよかった。
見られた。
たぶん。
いや、気のせいかもしれない。
あの子が見ていたのは、自分じゃなくて、群れの動きだったのかもしれない。偶然、目が合っただけかもしれない。
それでいい。
その方がいい。
悟はそう思いながら、閉ざされたドラッグストアの入口を見た。
中には人間がいる。
助かった人間たち。
少なくとも今はまだ。
だが、そのすぐ裏側には別の現実がある。
入れなかったやつ。
遅れたやつ。
気づかれなかったやつ。
たいてい、そういうのは出る。
そして、たいてい誰にも拾われない。
悟は道路脇へ視線を移した。
いた。
店の陰。搬入口に続く狭い通路のあたり。
倒れたまま、動けずにいる人間が一人。
さっきの混乱で取り残されたのだろう。
足を引きずっている。いや、膝から下が妙な方向に曲がっている。
噛まれたのか、転倒したのかは分からない。
でも、ここにいる時点で、もう遅い。
男は必死に這っていた。
ドラッグストアの裏手へ。
少しでも群れの目から逃れようとして。
その途中で、悟に気づく。
目が合った。
男の顔から、色が抜ける。
当然だ。
助けが来たのではない。
ゾンビがいただけだ。
悟は動かなかった。
動けなかった、の方が正しいかもしれない。
近づけば食いたい。
でも、離れれば他の連中が先に来る。
男は震える唇で何かを言った。
「……くる、な」
かすれた声だった。
悟は本当に近づかなかった。
その言葉が分かったからではない。
たぶん、分からなくても近づけなかった。
喉が焼ける。
腹が軋む。
さっき店の前で浴びた匂いがまだ鼻の奥にこびりついていて、頭がうまく回らない。
男は這う。
悟は見る。
朝の街は白くなっていく。
その白さの中で、ドラッグストアの中に助かった命と、外に取り残された命と、群れに紛れて立っている自分だけが、ひどくくっきりして見えた。
たぶん、これがいつもの形だ。
表で誰かが助かって、
裏で誰かが落ちる。
そして落ちた方を、だいたい自分だけが見ている。
悟はゆっくりと、取り残された男の方へ顔を向け直した。
群れの足音が近い。
間に合わない。
それでも、少しだけでも遅らせることならできるかもしれない。
たぶんまた、そうしてしまう。
喉の奥で、潰れた音が鳴った。
人間には聞き取れない音だ。
自分にしか分からない、決意にも似た、ひどく濁った息だった。
そして立花悟は、助かった人間たちではなく、
助からなかった一人の方へ歩き出した。
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