プロローグ ぼくは人間を食べない
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朝だった。
そう思ったのは、空が少しだけ白くなっていたからだ。太陽が昇ったとか、まぶしいとか、そういう感覚はもうずいぶん遠い。夜と朝の違いは、空気の冷たさと、建物の輪郭が少し見えるようになることくらいでしか分からない。
交差点の真ん中に、壊れた軽自動車が止まっている。
フロントガラスは割れ、車体には黒く乾いたものがこびりついていた。血だ。たぶん、何日も前の。あるいは何週間も前の。もう分からない。分からないことばかり増えていって、そのくせ匂いだけは、嫌になるほど鮮明だった。
風が吹く。
その風に乗って、遠くから匂いが流れてきた。
生きた人間の匂いだ。
腹の奥が、ぐう、と鳴る。
正確には、腹が鳴った気がしただけかもしれない。もう身体のどこがどう動いているのか、自分でもよく分からない時がある。ただ、飢えている、ということだけははっきりしていた。
喉が熱い。
歯の裏がむずむずする。
舌の奥が、何かを思い出したみたいに疼く。
食いたい。
その言葉が頭に浮かぶたび、まだ自分の中に言葉が残っていることに少し驚く。
食いたい。
食べたい。
人間を。
あの匂いのする方へ行けば、たぶんいる。まだ生きている人間が。息をして、汗をかいて、血を流せる肉が。
脚がそちらへ向きかける。
けれど、止める。
止まれ、と命じる。
自分の脚なのに、命令がちゃんと届くまで少し時間がかかる。錆びついた機械みたいに、ぎこちなく、遅れて、それでもどうにか止まる。
交差点の端には、ほかにも何体かいた。
電柱の根元で揺れている女。コンビニの前でうつむいたままの男。信号機の下で、壊れた人形みたいに立ち尽くしている学生服の影。
みんな同じだ。
腐って、乾いて、匂いに引かれて動く。
その中に、自分も混ざっている。
自分だけが違うのだと、誰にも分からない形で。
口を開く。
声を出してみようとする。
「あ」
と言いたかった。
けれど、喉の奥で潰れた空気が濁った音になるだけだった。
ごぼ、とも、が、ともつかない音が漏れて、それきりだ。
もう何度も試した。何十回も、何百回も。夜のあいだ、誰もいない店の奥で。ビルの階段で。車の陰で。月の下で。朝の前で。
結果はいつも同じだった。
言葉にならない。
名前も呼べない。
助けろも、逃げろも、行くなも、食うなも、何ひとつ口にできない。
喉はもう、人間のものじゃない。
風に乗って、もう一度匂いがくる。
今度は少し強い。
近づいてきているのか、こちらが気づいただけなのか分からない。でもその匂いに、周囲の影が一斉に反応した。
女が顔を上げる。
コンビニ前の男が、かくりと首を傾ける。
学生服の影が、つま先をそちらに向ける。
行く。
みんな行く。
人間がいる方へ。
自分も、行けてしまう。
だから、動く前に、目を閉じた。
閉じる意味なんて本当はない。瞼を下ろしたところで匂いは消えないし、空腹も消えない。けれど、そうしないと足が勝手に出そうだった。
暗闇の向こうに、断片が浮かぶ。
信号待ちの人混み。
スマホの画面。
電車の揺れ。
どこにでもいるような自分の影。
名前。
そうだ。名前。
立花悟。
たぶん、それが自分の名前だ。
忘れないように、何度も頭の中で繰り返した。
立花悟。立花悟。立花悟。
そうしないと、次に目を開けた時、自分が本当にただの空腹だけになっていそうで怖かった。
立花悟。
人間だった。
たぶん、十九歳。
大学に入ったばかりだった気がする。
それも、たぶんだ。
曖昧なことばかりだ。顔も、家も、家族も、もう輪郭が薄い。なのに、噛まれた瞬間だけは変に鮮明だった。
腕。
痛み。
熱。
倒れる感覚。
誰かの叫び。
それから、ひどく長い空白。
目が覚めた時には、もう終わっていた。
腹が減っていた。
喉が焼けていた。
そして、自分の前に転がっていた死体が、信じられないほど美味そうに見えた。
あの時のことを思い出すだけで、今も身体の奥が冷える。
飛びつきかけたのだ。
本能で。
ほとんど反射みたいに。
その瞬間、頭の奥で、何かがぶちりと切れかけた。
言葉でも記憶でもなく、もっと根っこの部分。自分が自分であるために、最後に残っていた細い杭みたいなものが、抜けかけた感覚。
あれを一度でも“自分の意思で”やってしまえば、終わる。
理由なんてない。
理屈でもない。
ただ、分かる。
食べたら終わる。
人間の肉を、意思をもって食べたら、きっともう戻れない。
戻る場所なんて、たぶん最初からないのに、それでも終わると思った。
だから食べない。
ずっと。
ずっとずっと、食べない。
飢えても、喉が焼けても、腹の奥が空っぽでも、目の前に血があっても、食べない。
それだけが、たぶん自分に残った最後の線だった。
目を開ける。
周囲の影は、もう動き始めていた。
のろのろと、しかし確実に匂いの先へ向かっていく。
自分もついていく。
ついていくしかない。
完全に逆らえば不自然になる。群れから外れる。目立つ。別にゾンビに見つかって困るわけじゃないのに、自分だけが違う動きをするのは、何となく怖かった。自分の正体がばれる相手なんていないのに。
道路を渡る。
靴底の感覚はもうない。ガラス片を踏んでも痛くない。けれど、かつて痛かったことだけは覚えている。そういう記憶ばかりが、嫌らしく残る。
角を曲がる。
そこで、ようやく匂いの元が見えた。
人間だ。
五人。
いや、六人か。
小さな生存者の集団だった。
先頭を走る男がいる。背が高く、息を切らしながらも、何度も後ろを振り返っていた。誰かを急かすというより、全員がついてきているか確かめる目だ。
ああ、と頭のどこかで思う。
ああいうのが、主人公なんだろうな。
根拠もなくそんなことを思った自分に、少しだけ苛立つ。
男は一人の老人の腕を支え、次の瞬間には小さな荷物を持っている子供に手を伸ばし、そのまま後方の負傷者へも声をかけていた。ひとりで全部やるつもりみたいな動きだった。
無茶だ。
そう思う。
無茶に決まっている。
でも、脚は止まっていない。
たぶん、止める気もない。
その少し後ろに、女の子がいた。
肩で息をしている。髪は汗で頬に張りつき、頬には埃がついていた。派手な顔立ちではない。でも、妙に目が残った。
その子は自分で走りながら、負傷した誰かを支えている。なのに何度も後ろを振り返る。自分が逃げるためじゃない。置いてきていないか、確認するために。
その視線に、少しだけ引っかかった。
前を向く男。
振り返る女。
どちらも、生きている人間の顔だった。
腹が鳴る。
喉がひきつる。
食いたい。
違う、と頭の中で呟く。
違う。だめだ。見るな。行くな。食うな。
でも匂いは濃くなるばかりだ。
人間たちは、通りの先にあるドラッグストアへ向かっていた。入口は半分壊れているが、ガラスはまだ一部残っていて、立てこもるには悪くない場所に見える。
ただし。
ただし、だ。
その店の正面へ至る道路の左側。
見えにくい脇道の方から、別の群れが流れ込んできていた。
十。
いや、もっといる。
鈍い足取りの群れが、ちょうど人間たちの逃げ道へ重なる角度で進んでくる。
気づいていない。
あの男も、あの子も、まだ気づいていない。
このままだと詰まる。
入口で。
店の前で。
人間がもたつき、前後から挟まれて、終わる。
頭の中で、その形が先に見えた。
ひとりが転ぶ。
ひとりが振り返る。
前にいたやつが助けようとして遅れる。
全滅する。
分かってしまった。
分かったから、余計に腹が鳴る。
食える。
たくさん食える。
そう身体が囁く。
違う、とまた思う。
違う。
ぼくは。
そこで思考が止まる。
周囲の影が、一斉に速度を上げた。
人間たちもようやく異変に気づく。
先頭の男が何か叫ぶ。たぶん「急げ」とか「中に入れ」とか、そんな言葉だ。聞き取れない。けれど、意味は分かる。
ドラッグストアの入口前でもたつきが生まれる。
予想どおりだ。
老人が足を取られる。誰かが支える。先頭の男が戻る。後ろの女の子が振り返る。
終わる。
このままだと、終わる。
関係ない。
そう思う。
関係ないはずだ。
自分には。
なのに、足が前へ出ていた。
群れの流れに逆らうみたいに。
あるいは、群れの中へ飛び込むみたいに。
喉の奥で、潰れた音が鳴る。
声にはならない。
それでも、確かに自分は言った。
食うな、と。
そして、壊れた朝の街へ向かって、立花悟は走り出した。
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