-5.〔回収:ネットスーパー〕②
わずかな困惑を確認した天使は、協調性なく、さっそく仕事に取りかかる。
「それで、返すのか?」
「……。――理由を聞いても?」
「神がそう決めた。それだけだ」
途端に神殿内を包んでいたざわめきが急速に引き、皮膚を刺すような緊張が濃密になる。
床で祈りを捧げていた者たちですらも、その異様な気配を察し、言葉を失って事態を見守る。
今しがた主の手によって制せられた神獣も再び身を起こした。
重苦しい気配は、低い唸りと振動を伴って喉の奥から動き出す……。
――石畳に鋭い爪を立てながら、眼前の侵入者を見据えて神獣マーナガルムの前脚が一歩を踏む。
そうして牙を剥く獣を、視界に収めつつも眉一つ動かさずに天使は宣告する。
「回収の妨げになるというのなら、神獣といえども、払うまでだ」
平然とした態度で放たれる情理のない天使の言葉、その声色に。
神聖な座で腰掛ける男が、小さく息を吐く……。
「……どうやら、穏便な話し合いで解決する余地がなさそうですね」
そして男が微かに魔力の兆候を見せかけると、天使はそれを遮るように冷淡な視線を向けた。
「後から追々に湧いて出られては無駄な手間が増えるだけだ。従える獣が他に存在するのなら、出し惜しみなどせず、一斉に呼び出すがいい」
神獣の剥き出しになった牙の間から吐き出されていた吐息が、荒々しく。
――冷ややかな空気を熱く湿らせる。
主人の背後で、マーナガルムは頭頂から背にかけての体毛を一挙に逆立てた。
神獣は、正面の侵入者を喰らい尽くさんばかりに身を沈め、石畳を削る甲高い音をも響かせて、喉の奥からは跳ねる唸りで足元を震わす……。
だが、殺気を全身から噴出させる巨獣の脇で、座上の男は静かに手元を収めた。
指先に生じかけていた魔力の揺らぎが、霧散するように、すっと消えていく――。
「――お望みとあらば、僕のトモダチをお呼びしましょう」
男の口元にゆったりとした余裕が浮かぶ。
次の瞬間、神殿内に充たされていた緊張の質が変貌する。
その気配は眼前の神獣だけにとどまらない。
神殿内、柱の影や、吹き抜けの暗がりからも、目に見えぬ圧迫感が一気に膨れ上がる。
そればかりか分厚い石壁の向こう、――都市を囲む不自然な緑の深部、どころか――遥か上空からも、無数の存在が波のように押し寄せてくる。
それらは大地を揺らす遠雷さながらの振動、幾重にもかさなる荒い呼気。
寄せる気配の膨大な密度を、尚も天使は平然とした態度で着実に捉える。
堅牢な城壁に守られた都市はありとあらゆる方面から、――従魔で埋め尽くされていく。
*
城壁に守られた都市へと入った直後、亘平は、天使とは別行動で神殿内に。
――緊迫した空気からは離れた一室の影で、身を潜めていた。
亘平が居る室内では、使い込まれたいくつかの調度品から微かな油の匂いと、乾燥した羊皮紙の香りがほのかに漂っている。
そんな中で、じっと、一時間ほどが経過した頃。
重厚な木枠のかすかな音と共に、部屋の扉が静かに開いた。
誰も居ないはずの部屋へ、靴底で叩く石床の音が進み入る。
亘平は潜伏場所からそっと様子を窺う。
直ぐに視界へと入ってきたのは、三十代半ばから四十代ほどに見える男性だった。
端正に整えられた髪に、神聖な雰囲気を醸し出す精巧な刺繍が施された衣服。その装いは、どこか宗教的な高位の人物を思わせる出で立ちだ。
室内は最も陽光が差す窓を閉めてカーテンで覆っているので、昼間でも関係なく暗め。
部屋に入ってきた人物は、未だ気づくことなく。亘平に無防備な背中を向けている……。
そして亘平はしばらく観察した、果てに、目の前の人物こそが自分の待ち人で間違いない。と確信した。
次いで潜んでいた物陰から出て、そっと声をかける。
「あの、」
唐突な背後からの呼びかけに、男の肩は大きく跳ね上がった。弾かれたように飛び退く、肘が、卓の端に当たり衝撃で置かれていた小物類や筆記具が落ちそうになる。
「あッ」
「――っと」
やや重なる声、同時に二つの手が素早く伸びる。
亘平は落ちた直前のインク壺を間一髪で受け止め、男性もまた倒れかけた物を慌てて留める。
各自が確保した物を卓上の、元の位置に戻す。と、二人は至近距離で正面から顔を見合わせることとなった。
男性が呼吸を整えつつ、目の前に居る亘平の姿をじっと見つめる……。
そこにあるのは部外者というよりも、どこか確信の持てない平穏の混じった瞳――。
「――、……ひょっとして」
小さく漏れ出る男の呟き。
亘平は表情を変えることなく、落ち着いた口調と確信を深めて応える。
「はい。天使と一緒にチートを回収しに来ました、矢鱈亘平です」
その言葉を耳にした、男の顔から――緊張感が一気に抜け落ちる。
まるでずっと抱えていた重荷から解放されるかのように、男の目元は緩み、心の底からの安堵を浮かべて、深く、息づく。と。
「先ほど天使様が神殿の方に来られて、今は……僕の、従魔と……」
「はい。そういう事前の打ち合わせなので」
「え?」
と声を漏らしたまま男は固まった。
部屋の外からは時折、従魔たちの轟く声や地鳴りが響いてくる。
それでも亘平は、動じる気配すら見せず、そのままの態度で言葉を継いだ。
「――なので安心してください。本件については、事前にあったそちらのご要望に沿うよう努力をいたします」
それを耳にした男は、再び大きく肩を落とし、胸に手を当てて深く深く先ほど以上の安堵をその顔に広げる。
▽
リソース系チート――通販、通称――ネットスーパー。
田村良平(三十九)は、神からその力を授かった。
異世界へと転移する前はごく普通の労働者として二十年近く働いていた、アラフォーだ。
転移した当初、異次元の市場と接続し物資や食料を取り寄せることができるチート能力で衣食住を補っていた彼の、異世界での暮らしはまさしく順風満帆だった。
取り寄せることができる品物は、何故か、強力なバフ効果のつく謎仕様で。現代風の料理レシピが強者さえも容易に従魔化する、本来なら国を滅ぼすような恐ろしいドラゴンなどの魔物や神獣が『生姜焼き』や『から揚げ』の匂いに釣られてやってきて、三食昼寝付きを条件に自らペットになるのが、お約束の展開……。
次第に、良平の周りには人類はもちろんのこと魔物どころか神獣すらも付き従い。
――大きな街にまで発展する。
そこまでくると、敵は魔物などではなく、強欲な貴族や領主――はたまた国家そのもの。
いずれにしても良平の従魔たちが脅威を退けてくれるため、安全は保たれる。
しかし、ある時、良平は言った。
「……そこまでしなくても、いいよね……?」と。
それまで従順だった従魔たちが、口を揃えて告げる。
――我々が人間を喰わなくなったのは、それ以上に美味しい物があるからだ。と。
その供給が絶たれた瞬間に、すべてが瓦解する。
薄々――否、良平は既に気づいていた。
世界の資源が枯渇する等価交換の果てにある、世界の崩壊を。
異世界でのスローライフ、そんなものが本当に成立するのか?
ゆっくりと、それでいて着実に、世界の歯車は狂い始めている。
△
ほのかな油の匂いと乾いた羊皮紙の香りが満ちる室内で。
椅子に腰を下ろした良平は、どこか途方に暮れた眼差しを床へ落としていた。
立ったまま、これまでの話に耳を傾けていた亘平は、途中で口を挟むことも感情を差しはさむこともせず、引き続き、事態の経緯を聞き届ける姿勢を貫く。
木造の窓枠を微かに震わせる、部屋の外――遠くから聞こえる無数の荒々しい音が、未だ断続的に届いている……。
良平が、力なく両手を膝の上で重ねる。と、自嘲気味な笑みを浮かべ息を吐き出した後――。
「――……今となっては教祖みたいな扱いですよ。次から次へと欲しい物のために皆が世界中からやって来て、取り寄せるのが僕の役目です……」
そして深いため息。亘平は、その表情や間の取り方を静かに見極め、語りに一区切りがついたことを見届ける。
「お話は以上ですか? 終わったのなら、脱出を優先したほうがいいと思います」
思いのほか冷静に放たれた提案で、良平は不意を突かれて目を丸くする。
「え……脱出、ですか?」
「はい。天使が騒ぎを引き受けてくれているうちに脱出するほうが、確実です」
事もなげに言いきる、その眼差しには――一切の迷いがない。
良平は生唾を飲み込む……。部屋の外で繰り広げられている状況を想像し、目の前に立つ青年のあまりにも平坦な佇まいと見比べて。
やがて、その言葉に従うことがこの果てしない重圧から抜け出す最善の道なのだと理解してアラフォーの男が頷く。
「……わかりました。すぐにここから離れましょう」
と話がまとまるや否や、亘平は躊躇うことなく部屋の出口――扉へと足を進める。
その素早い動きを目にして、良平は慌てて声をかけた。
「あ、待って!」
呼び止められた亘平は淡々と足を止めて振り返る。
「なにか?」
その問いに応じるべく、良平は急いで卓上の小ぶりな器を手に取る。
カチャン、と金属音を小さく響かせて。良平は確信を込めた視線を亘平へと向け――。
「――これで脱出します」
一見して香炉の様なその器へと視線を落としながら、亘平は短い問いを投げかける。
「どうやって?」
「――すぐに準備します」
真剣な面持ちで答えた良平は、手にした小ぶりの器を慎重な手つきで扱い始める。
亘平はその言葉に従い、余計な口を挟まずに黙ってその様子を見守る姿勢を取った。
部屋の床に置かれた小さな器へ、小瓶から油に似た匂いを放つ液体が注がれる。
「あとは僕の魔力を当てれば、ここから脱出できますよ」
「……まりょく?」




