5話 本物
水島を早乙女の部屋に運び込んだ時点で、もう夜の十二時を回っていた。
「狭っ」
それが、水島が布団に転がされて最初に言った言葉だった。
「文句あるなら帰れ」
「帰る体力があれば、最初から帰ってる」
「じゃあ黙って寝てろ」
早乙女は押し入れをひっくり返すみたいにして布団を引っぱり出し、水島の下へ雑に敷いた。
客人に対する扱いじゃねぇが、こっちもこいつに礼儀を尽くす義理はない。
「スポドリは」
水島が目を閉じたまま言う。
「は?」
「スポーツドリンク」
「水だけだと、戻す」
「注文が多いな」
「死にかけは注文が多いんだよ」
早乙女が、あたしのじゃないですからねと言いながら冷蔵庫を漁る。
半分ぬるくなったスポーツドリンクを一本見つけると、不服そうに水島へ渡した。
水島はそれを少しだけ飲んだ。
喉が鳴る。
その音だけやけに生々しかった。
「救急車は呼ばねぇのか」
俺が訊くと、水島は薄く目を開けた。
「呼ばれたくない」
「何でだ」
「金がない」
「それに、運ばれたらまた色々聞かれる」
「面倒だ」
「死ぬ方が面倒だろ」
「人による」
こいつ、どこまで本気で死ぬ気だったのか分からねぇ。
だが少なくとも、今この瞬間のこいつは死ぬより先に面倒を嫌がっていた。
だったらまだ使える。
「明日」
俺は壁にもたれて腕を組んだ。
「いや、今日か」
「昼までに、前の作品の権利確認に返す文面作れ」
水島が一瞬だけ、面倒くさそうに顔を歪めた。
「俺に?」
「お前がやれ」
「雇用契約も結んでないのに?」
「うるせぇ」
「働いてから文句言え」
「雑だな……」
早乙女が小さく手を挙げる。
「その前に、本当にこの人を信用して大丈夫なんですか?」
「いきなり現れて、死にかけてて、口悪くて、面倒くさくて、なんかもう全部嫌な予感しかしないんですけど」
「お前も大概だろ」
「私は作家です!」
「こいつも編集だ」
「元、です!」
布団の上から、水島がぼそっと言う。
「今のところ、君たち二人とも信用に値しない」
「は?」
「でも原稿は見られる」
「だから、そこだけは信じる」
言い方が癪だった。
だが、さっきネームを見た時の目を思い出す。
嘘をついてる顔じゃなかった。
水島は横になったまま、指を一本だけ持ち上げた。
「条件がある」
「何だ」
「今後、俺が見るなら、原稿の都合は全部共有」
「金の都合も、締切も、どこで売るかも、何を隠してるかも、分かる範囲で全部だ」
早乙女がむっとする。
「全部って」
「作家にだってプライバシーありますけど」
「売れない作家のプライバシーは、売る段階でだいたい邪魔になる」
「感じ悪っ!」
「感じで仕事してないからな」
俺は少しだけ笑った。
「いい」
早乙女が俺を見る。
「え、そこ即決なんですか」
「即決だ」
「こっちも隠し事したまま回せるほど器用じゃねぇ」
実際、その通りだった。
相良にも全部言えねぇ。
組にも伏せなきゃならねぇ。
だからこそ、内輪くらいは腹を割らなきゃ回らない。
水島はようやく少しだけ安心したように目を閉じた。
「じゃあ、寝る」
「勝手に寝るな。まだ話は――」
「無理だ」
「脳が止まる」
「明日、というか数時間後に起こしてくれ」
そう言うと、本当に寝息を立て始めやがった。
「うわ」
早乙女が引いている。
「寝ましたよこの人」
「寝たな」
「図太くないです?」
「死にかけてる奴は、案外図太ぇ」
扇風機がぶぉんと回る。
部屋の隅では、液タブの画面がまだ青白く光っていた。
俺はその光と、布団の上の男と、散らかった原稿の束を見た。
めちゃくちゃだった。
どう考えてもまともじゃねぇ。
だが、今の俺の人生で、まともだったことなんてほとんどない。
「真壁さん」
「あ?」
「本当にやるんですね」
早乙女の声は、さっきまでより少しだけ静かだった。
「……やる」
「私、今まで何回も、今度こそ売れるかもって思って」
「何回も失敗して」
「そのたびに、自分には無理なんだって思ってきたんです」
「おう」
「でも、今日初めて」
「本当に“形になるかも”って思いました」
その顔は、泣きそうでもあり、笑いそうでもあった。
俺は目を逸らした。
そういう顔は苦手だ。
期待とか、信頼とか、そういうもんをまともに向けられると、どうにも落ち着かねぇ。
「寝ろ」
「話、雑に切りましたね?」
「明日もある」
「もう今日ですけど」
「うるせぇ」
俺は壁際に座り、そのまま煙草を一本取り出した。
だが部屋の中だと思い出し、またポケットへ戻す。
二度目だ。
我ながら変な日だった。
その夜は、結局そのまま早乙女の部屋で仮眠を取ることになった。
朝の六時前。
最初に起きたのは水島だった。
「最悪だ」
それが、起き抜けの第一声だった。
「口の悪さ、回復してんじゃねぇか」
俺は畳に座ったまま言う。
ほとんど眠れていなかった。
早乙女の部屋の床は固ぇし、途中で何度も蝉みてぇな寝言を言う早乙女の声で起こされた。
「死に損なって、知らない男と女の部屋で起きる」
「人生の底にも、もう少し種類があると思ってた」
「贅沢言うな」
水島は起き上がり、額に手を当てた。
「吐き気は」
「少し」
「でも頭は動く」
「なら仕事だ」
「朝一でヤクザにそれ言われるの、なかなか無い経験だな」
「お前の人生、もう大抵の経験は済んでんだろ」
その時、押し入れの前で丸くなっていた早乙女が、もぞもぞと起きた。
髪が爆発している。
「おはようございます……」
「死んでませんか……?」
「生きてる」
「残念そうに言うな」
「いえ別に?」
全然別にじゃねぇ顔だ。
早乙女は洗面所へ消え、顔を洗う音がする。
その間に、水島は机の上の資料を勝手にかき集め始めた。
「おい」
「何だ」
「人の机を勝手に触るな」
「編集は触る職業だ」
「嫌なら最初から呼ぶな」
早乙女がタオルで顔を拭きながら戻ってくる。
「……ほんと感じ悪いですね」
「君は感じだけで原稿描いてるから事故るんだよ」
「ああ!?」
「いいから座れ」
水島の声が、少しだけ変わった。
昨夜の死にかけた男の声じゃない。
人を仕切る時の声だった。
早乙女も、その響きに気づいたらしい。
文句を言いかけた口を閉じ、机の前に座る。
俺も壁から離れ、向かいに腰を下ろした。
水島は机の上にネーム、販売ページのスクショ、権利確認のメッセージを並べる。
「まず結論から言う」
指を二本立てる。
「一つ。前作の権利確認は、今日の午前中に返す」
「二つ。新作は、このままじゃ売れない」
早乙女が即座に食ってかかる。
「芯はあるって言ったじゃないですか!」
「芯はある」
「でも芯があるだけで売れるなら、世の中もっと天才だらけだ」
早乙女が黙る。
悔しそうだが、反論できないらしい。
水島はネームをめくった。
「まず冒頭。暗い」
「病院、恩義、落ちぶれた組。素材はいい。でも重い」
「読者は最初の三ページで、“この話を読み続けたらどんな快楽があるか”を知りたい」
俺は腕を組む。
「快楽?」
「そう」
「気持ちよさでも、緊張でも、色気でも、笑いでもいい」
「この話は今、“良さそうな地獄”で止まってる」
妙に腹立つ言い方だったが、どこか納得もした。
「じゃあどうする」
水島はページを一枚抜き、机に置いた。
「最初に、主人公が兄貴分の病院から出てきた直後、若い衆に舐められる場面を入れる」
「今どれだけ落ちてるか、もっと早く見せる」
「その上で、“それでもしがみつく理由”を見せる」
早乙女が小さく息を呑む。
「なるほど……」
「あと、兄貴分との関係」
「今のままだと重いだけだ」
「もっと一個、読者が掴める記号がいる」
「親分子でも、親子でも、崇拝でも、愛でもいいが、読み手が感情を置ける形に整える」
「恩義じゃ駄目なのか」
俺が訊くと、水島は俺を見た。
「恩義は抽象だ」
「抽象だけで読者は引っ張れない」
「具体が要る」
その言葉が、少し刺さる。
確かにそうかもしれねぇ。
俺にとっては“恩義”で全部分かる。
だが、読んだこともない誰かにとっては、ただの綺麗な言葉だ。
水島は次に販売ページのスクショを指差した。
「それと、ここ」
「早乙女さん、君の前作、タイトルで損してる」
「ええ!?」
「詩的すぎる」
「悪くはないが、売り場で埋もれる」
「内容が重いなら、入口は少し分かりやすくしないと拾われない」
「でも、安っぽいタイトル嫌なんですよ」
「世界観壊れるし」
「壊れてないから売れてないんだ」
「言い方!!」
俺は思わず吹き出しかけたが、水島は真顔だった。
本気で言っている。
「いいか、作家の誇りは大事だ」
「でも、読まれなきゃ届かない」
「届かない作品は、存在してないのと半分同じだ」
早乙女が、ぐっと口をつぐむ。
その沈黙を見て、俺は少しだけ水島を見直した。
こいつ、ただ感じ悪いだけじゃない。
ちゃんと刺さる場所を知ってる。
水島はさらに、権利確認のメッセージを指で叩いた。
「こっちは俺が文面作る」
「該当箇所を自主的に差し替える意思を見せて、元資料の特定を避けながら、故意性を否定する」
「下手に逆らうと面倒になる」
「故意じゃねぇしな」
俺が言うと、水島は鼻で笑った。
「故意じゃなくても事故は事故だよ」
「だから防ぐ人間が要る」
「それがお前か」
「今のところはな」
その“今のところ”が気になったが、今はいい。
使えるうちは使う。
それで十分だ。
水島は三枚のメモを作り始めた。
一枚は権利確認への返答案。
一枚は新作の修正方針。
もう一枚は、大きくこう書かれていた。
売り場で目立つ要素
「……何だこれ」
「商売の入口」
水島はペンを走らせながら言う。
「タイトル」
「表紙」
「紹介文」
「一話冒頭」
「読者が“自分向けかどうか”を一瞬で判断できる言葉」
「この五つが弱いと、中身が良くても埋もれる」
早乙女が不満げに言う。
「そんなの、作品の本質じゃないじゃないですか」
「そうだよ」
水島は即答した。
「でも、本質に辿り着く前に人は帰る」
「だから入口が要る」
部屋が静かになった。
扇風機の音だけが回る。
俺はその紙を見ながら、妙な感覚に襲われていた。
これまで俺がやってきた商売も、似たようなものだった。
見せ方。入口。客の欲しがる顔。
ただ扱ってきたのが、人の弱みや恐怖だっただけだ。
だがこっちは違う。
……違うはずだ。
「真壁さん」
早乙女がぼそっと言った。
「あ?」
「この人、感じ悪いですけど」
「本物ですね」
「ああ」
俺は短く答えた。
水島は顔を上げずに言う。
「褒めるな」
「吐く」
「面倒くせぇな」
「編集は面倒なんだよ」
そう言いながらも、こいつの手は止まらない。
さっきまで床に転がってたくせに、もう頭の中は売り場のことを回している。
業の深い生き物だと思う。
その時、俺の携帯が震えた。
山口からだった。
「何だ」
『若頭補佐』
『水島誠の件、少し掘れました』
俺は水島を見た。
水島も、早乙女も、こっちを見ている。
『前いた出版社、辞めたんじゃなくて、飛んだらしいです』
『あと、借金、結構あります』
『それと――』
山口が一瞬、言葉を切る。
『今、その人を探してるの、うちだけじゃないかもしれません』
俺は目を細めた。
「どういう意味だ」
『同業の連中じゃないです』
『なんか、別筋です』
『妙に素行の悪い連中が、最近その名前を嗅ぎ回ってるって』
部屋の空気が、また少し変わった。
水島の手が、ぴたりと止まる。
「……心当たりは」
俺が訊くと、水島は数秒黙ったあと、乾いた笑いを漏らした。
「ある」
「何だ」
「多すぎて、絞れない」
最悪だった。
だが、少しだけ面白くもなってきた。
俺は電話を切り、机に置かれた紙と、水島の止まった手元を見た。
ただの死にかけ編集じゃない。
どうやら、こいつ自身が何か面倒の種を抱えてるらしい。
そして、その面倒はたぶん、こっちに転がり込んでくる。
俺は口の端をわずかに歪めた。
「いいじゃねぇか」
早乙女が顔をしかめる。
「何がです?」
「売れる前から、話がデカくなってきた」
水島が呆れた顔で俺を見る。
「君、本当にヤクザ向きだな」
「今さら気づいたのか」
だが本当は、少しだけ違った。
面倒が増えたからじゃない。
このチームが、ただの思いつきじゃなく、もう後戻りしづらい“何か”になり始めてる気がしたからだ。
水島は深く息を吐き、メモの端を指で揃えた。
「じゃあ、急ごう」
「あ?」
「追われてるなら尚更、先に形にする」
「売れるものを作って、売れる仕組みを作る」
「その方が、交渉材料になる」
「誰とのだ」
「決まってるだろ」
水島は初めて、ほんの少しだけ嫌な笑みを浮かべた。
「世の中全部とだよ」
読んでいただいてありがとうございます!
どうしようもない状況で、どうしようもない人間性の能力だけある連中がチームを作り
一つの物語を作ろうとしています。
どんなものになるかは作者自身もわかりません。
読み終わりましたら上の☆マークを五つ分頂けますと幸いです。
リアクション、レビュー、感想、ブックマークよろしくお願いします!




