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4話 最悪のチーム

ドアを押し開ける。


湿った空気が、肌にまとわりついた。


腐った匂いは、まだない。

だが、部屋の中には生きてる奴の気配もなかった。


「……水島」


返事はない。


玄関先に脱ぎ捨てられた革靴。

床に転がるコンビニ袋。

シンクには洗っていない食器が積み上がり、机の上には空の缶コーヒーと睡眠薬らしきシートが散らばっている。


月明かりに照らされたフローリングの上に、男が倒れていた。


細い。

妙に細い。


ワイシャツは皺だらけで、ズボンの裾は少し泥で汚れている。

靴下の片方だけ脱げていて、骨ばった踝がやけに白かった。


「……おい」


俺は近づき、しゃがみ込む。

肩を掴んで軽く揺する。


反応はない。


早乙女が扉の陰から恐る恐る顔を出した。


「し、死んでませんよね……?」


「うるせぇ」


俺は男の首元に手を当てた。

脈は――ある。

弱ぇが、ある。


「生きてる」


「よ、よかったぁ……」


「安心するのは早ぇよ」


顔を覗き込む。


三十代後半か、四十前後か。

元の顔立ちは悪くなかったんだろう。

だが今は、やつれ方がひどい。

頬は削れ、無精ひげが伸び、目の下には黒い隈が沈んでいる。


しかも、目を閉じているこの顔に、妙な“疲れ”の痕があった。


ただ貧乏な顔じゃない。

人に気を使いすぎて、勝手に潰れていく人間の顔だ。


「なあ、これ睡眠薬ですよね」


早乙女が机の上のシートを指差す。


「だろうな」


「ど、どうします? 救急車とか……」


俺は部屋を見回した。

散らばった紙。

原稿。

印刷見本。

赤字のメモ。

督促状。

そして壁に立てかけられた、作りかけの表紙ラフ。


全部が“途中”で止まっている。


死ぬつもりの奴の部屋にしちゃ、妙に仕事の気配が濃すぎた。


「……死ぬ気なら、もっと片付けるだろ」


「え?」


「あるいは、全部投げる」

「こいつはまだ途中だ」


俺は机の上のラフを一枚つまみ上げた。


タイトルのロゴ案。

女向け同人誌らしい。

荒いが、視線を引く位置に文字が乗っている。

少なくとも、素人の手つきじゃない。


「ああ……これ、水島さんの字だ」


早乙女が小さく言う。


「見たことあるのか」


「昔、同人イベントで。あの人、表紙とタイトルだけで売り場の空気変えるって言われてたんです」


「そんな奴が、何でこんなとこで死にかけてる」


「だから、作家に金使いすぎたんですよ」

「人の人生に入れ込みすぎる人だったから」


人の人生に入れ込みすぎる。


妙な言い方だった。

だが少しだけ、分かる。


俺だって今、似たようなとこへ足突っ込んでる気がしていた。


「おい」


男の頬を二度叩く。

少し強めに。


「起きろ」


反応はない。


もう一度、今度は遠慮なく叩いた。


「おい、水島」


男の眉がわずかに動いた。


「……」


「起きろ」


喉の奥で、掠れた息が漏れる。


それから数秒遅れて、まぶたが重たそうに持ち上がった。


虚ろな目だった。

焦点が合わない。

だが俺と目が合った瞬間、その目に一瞬だけ本物の警戒が灯る。


「……誰」


声が死にかけていた。


「水島誠か」


男は数秒、俺を見つめていたが、やがて力なく笑った。


「……借金取り?」

「なら、悪いけど金はない」


「借金取りみてぇなもんだ」


「最悪だな……」


そのまままた目を閉じようとする。

俺は襟首を掴んで上半身を起こした。


「寝るな」


「やめてくれ……」

「今日はもう、誰の原稿も見たくない……」


「原稿を見せに来たわけじゃねぇ」


「じゃあ帰ってくれ」

「こっちは今、人生の締切中なんだ」


早乙女が小さく「うわ……」と呟いた。

気持ちは分かる。


死にかけてるくせに、言葉だけは妙に小洒落ていて腹が立つ。


「締切は過ぎた。生きてる」


「残念だ」


「残念がるな」


水島は薄く目を開け、今度は早乙女を見た。


「……君、誰」


「早乙女光です」


「知らない」


「でしょうね」


「で、そこの強面は?」


「真壁だ」


「知らない」


「だろうな」


会話が全部だるい。

こいつ、意識が朦朧としてるのに妙に口は回るらしい。


「要件を言えよ」


水島が乾いた唇を舐める。


「帰れるなら帰ってくれ」

「人に会うの、もう疲れた」


「お前、編集だろ」


その瞬間、空気が少しだけ変わった。


水島の目が、ほんの僅かに動く。


「……だった」


「腕はあるんだろ」


「知らない奴の評価なんて、どうでもいい」


「だったら確認してやる」


俺は早乙女からタブレットをひったくった。

さっき作ったネームの叩き台データを開く。

荒い。未完成。だが芯はある。


それを水島の目の前に突きつけた。


「見ろ」


「嫌だ」


「見ろ」


「俺、今死にかけなんだけど」


「生きてるうちは働ける」


「ヤクザかお前」


「そうだよ」


水島が一瞬だけ、まともな顔になった。


「……は?」


早乙女が横で「あっ」と声を上げる。

しまった、と思った時には遅い。


水島の焦点の合わない目が、少しずつ俺の顔を舐めるように見た。

スーツ。

腕。

立ち方。

言葉の端。


理解したらしい。


「は、はは……」


乾いた笑いが漏れる。


「死に損なったら、今度は本物が来た」

「今日は運が悪い」


「黙って見ろ」


「断る」


「断れる立場か?」


「あるよ」

「だって何も持ってない」


その言い方が、妙に静かだった。


虚勢じゃない。

本当に、自分には差し出すものがないと思ってる声だった。


「金も、人脈も、信用も、健康も、もうほとんど無い」

「編集の勘だけ残ってたけど、それも今は当てにならない」

「だから帰ってくれ」

「脅すなら、もっとマシなやつを脅せ」


俺はネームを机に叩きつけた。


「これを見てから言え」


水島はしばらく動かなかった。

だが、編集ってのは業が深いらしい。

“原稿”という形が目の前にあると、完全には無視できねぇらしい。


やがて、面倒くさそうに首だけ起こし、ネームに目を落とした。


一枚。

二枚。

三枚。


途中で、その目つきが変わった。


さっきまで死にかけてた男の目じゃなかった。


ページをめくる手が少しだけ速くなる。

視線がコマを追う。

ラフしかないのに、そこに流れを見ている顔だった。


沈黙が落ちる。


早乙女も俺も、黙ってその顔を見ていた。


十数ページ見終えたところで、水島は小さく息を吐いた。


「……下手だな」


早乙女が即座に食ってかかる。


「はぁ!?」


「構図が甘い」

「導線も荒い」

「読者が最初に食いつく情報の出し方が鈍い」

「主人公の顔はいいけど、表紙で売るにはまだ弱い」


早乙女が真っ赤になる。


「初稿ですよ!? 初稿でそこまで言います!?」


「言うだろ」

「でも」


水島は、次のページを指で軽く叩いた。


「芯はある」


部屋の空気が、一瞬止まる。


「負け犬の匂いがする」

「終わりかけた男が、終わりかけた男にしがみつく話だ」

「今の市場なら、刺さる層はいる」


早乙女が息を呑む。

俺も何も言えなかった。


水島はさらに言った。


「ただし、このままじゃ売れ方が中途半端だ」

「表紙、タイトル、紹介文、タグ、更新タイミング、全部直す必要がある」

「あと、権利周りの管理をしてる人間がいない。前の作品も見なくても分かる。事故る作り方だ」


早乙女が目を逸らした。

図星だったらしい。


「……そこまで分かるのか」


俺が訊くと、水島はネームを机に置いた。


「分かるよ」

「だから疲れたんだ」


そう言って、また少し笑った。

今度の笑いは、最初よりよほど生きてる人間の笑いだった。


「で」

「評価はしてやった」

「用が済んだなら帰れ」


「編集をやれ」


俺は間を置かずに言った。


水島は一秒止まり、それから心底嫌そうな顔をした。


「嫌だ」


「早ぇな」


「嫌に決まってるだろ」

「ヤクザと同人作家の即席チームなんて、炎上案件の詰め合わせじゃないか」

「関わるだけで人生終わる」


「もう終わってるだろ」


早乙女が「真壁さん!」と小声で嗜める。

だが水島は怒らなかった。


代わりに、静かに俺を見た。


「そうだよ」

「もう終わってる」

「だから、もう誰の人生にも関わりたくないんだ」


その言葉だけは、嘘じゃなかった。


こいつは人に入れ込みすぎて潰れた。

だったら当然だ。

もう二度と、人の物語なんか背負いたくないと思うだろう。


だが、そう言いながらも、さっきこいつはネームを見た。

見て、評価した。

死にかけてるくせに、“直すべき点”を並べた。


終わってねぇ。

まだ完全には終われていない。


俺はしゃがみ込み、水島と目線を合わせた。


「お前、まだ見えてんだろ」


「……何が」


「売れる形が」


水島は答えなかった。


「だったら、使う」


「勝手だな」


「勝手じゃなきゃヤクザなんぞやってねぇ」


「最低だ」


「知ってる」


少しの沈黙。


それから水島は、心底うんざりした顔で天井を見た。


「……報酬は」


早乙女が「えっ」と声を上げる。


俺は笑った。


「話が早ぇな」


「断るにも、条件はいる」

「それに、今の俺には家賃も要る」


「死ぬ気だったくせに」


「生きる方が高いんだよ」


この男、思ったより面倒だ。

だが、嫌いじゃない。


「月いくら欲しい」


「固定は要らない」

「売れた分から割合でくれ」

「その代わり、口も出す」


「どこまでだ」


「全部」


早乙女が「うわ、出た」と小さく言う。


水島は目も向けずに続けた。


「タイトルも、表紙も、コマの順番も、見せ場の位置も、読者が最初に何を見るかも、事故る要素も、全部」

「俺が見るなら、全部だ」


俺は少し考えた。


図々しい。

だが、必要だ。


「いい」


早乙女が俺を見る。

水島も少しだけ驚いた顔をした。


「……即決?」


「売るんだろ」

「だったら、使えるもんは全部使う」


「ほんと、ヤクザだな」


「今さらだろ」


水島はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように目を閉じた。


「水、くれ」


早乙女が慌てて台所へ走る。

ペットボトルを持って戻り、水島に渡す。


水島はそれを少しだけ飲み、また呼吸を整えた。


「……一つだけ確認」


「あ?」


「本当に、何がしたいんだ」


俺は答えるのに少し時間がかかった。


金か。

それはそうだ。


組のためか。

それもある。


オヤジの手術代か。

もちろんだ。


だが、さっきネームを見た時、胸の奥で鳴ったものはそれだけじゃなかった。


「売る」


そう言う。


「俺たちみてぇな、どうしようもねぇ連中の生き様を」

「きっちり売って、金にしてやる」


水島は、乾いた目で俺を見た。


「最低だな」


「だから言ってんだろ」


「でも」


水島は小さく、ほんの少しだけ口元を上げた。


「嫌いじゃない」


その顔は、死にかけた男のものでも、やつれた元編集のものでもなかった。

仕事を前にした人間の顔だった。


俺は立ち上がった。


「決まりだな」


「待て」


「何だ」


「今日はもう無理だ」

「立てない」


「知るか」


「ひどいな」


「早乙女」


「はい」


「こいつ、運ぶぞ」


「えっ」


「どこに!?」


「お前んとこだ」


「嫌ですよ!! なんで私が死にかけ元編集を飼わなきゃいけないんですか!!」


「お前が見つけたんだろ」


「理屈がヤクザなんですよ!!」


「ヤクザだからな」


水島が床の上で、力なく笑った。


「……最悪のチームだな」


「うるせぇ」


そう言いながら、俺は水島の腕を肩に回した。


細い。

軽い。

こんな体でよく今まで生きてたもんだと思う。


だがその肩に、妙な熱があった。


死に損ないの熱。

まだ終わりきれない奴の熱だ。


階段を下りながら、早乙女がぶつぶつ文句を言う。


「絶対面倒なことになりますよぉ……」

「ていうか今の会話だけで、もうめちゃくちゃ面倒な男って分かりましたもん……」


「編集なんて大体そうだろ」


「知りませんよ! 私、まともな編集ついたことないんで!」


「じゃあちょうどいい。初物だ」


「何がちょうどいいんですか!!」


夜風が少しだけ強くなっていた。

川の匂いと、錆びた手すりの匂いと、煙草の残り香が混ざる。


俺はその中で、水島の重みを肩に感じながら思った。


早乙女の狂気。

水島の目。

俺の知ってる連中の人生。

組の金。

オヤジの手術代。


全部、まだぐちゃぐちゃだ。


だが、それでも。


何かが、ようやく始まりかけていた。


その夜、俺たちは、

売れないBL作家のボロアパートに、

死にかけの元編集を持ち帰ることになった。


まともな始まりじゃなかった。


だが俺の知る限り、

まともなもんが、本当に人を動かした試しなんて、一度もなかった。

読んでいただいてありがとうございます!


ようやく会えた天才編集者、水島は死にかけていた。

真壁は一癖も二癖もある水島の才能を見抜き拉致同然で早乙女の家へと連れて帰る。


読み終わりましたら上の☆マークを五つ分頂けますと幸いです。

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