3話 若頭と面子
間下組の事務所に戻ると、蛍光灯の白い光がやけに刺さった。
さっきまでいた早乙女の部屋とは違う。
同じ狭さでも、こっちは夢の匂いなんかしない。
あるのは煙草と汗と、古い畳に染みついた安酒の臭いだけだ。
玄関をくぐると、山口がすぐ飛んできた。
「若頭補佐、お疲れ様です」
「若頭は」
「奥です。機嫌、あんまり良くないです」
「いつものことだろ」
「今日は特に、です」
俺はネクタイを少し緩めた。
この暑さでクーラーも碌につけられないくせに、偉い奴ほど不機嫌になる。
理不尽だが、昔からそういうもんだ。
応接間の襖を開ける。
そこには、煙草を指に挟んだ男が一人、机の向こうに座っていた。
若頭、相良政道。
五十手前。
顔の造り自体は地味だが、目だけがやたらと冷たい。
怒鳴るでもなく、笑うでもなく、ただ静かに人を値踏みする目だ。
この人間に睨まれると、殴られるより息が詰まる。
「戻りました」
俺が頭を下げると、相良は灰皿に煙草を押しつけた。
「遅ぇな、真壁」
「病院に寄ってました」
「親父さんか」
「はい」
相良は短く鼻を鳴らした。
同情でも侮蔑でもない、何とも言えない音だった。
「座れ」
「はい」
向かいに座る。
机の上には帳簿が開かれていた。
嫌な予感しかしねぇ。
相良は指先で数字の並びをなぞりながら言った。
「今月の上納、予定より早ぇな」
「工面しました」
「どうやってだ」
「……細かいとこまで、報告が必要ですか」
相良の視線が上がる。
あ、これはまずい。
その目だった。
「必要だろ」
静かな声だった。
静かな声ほど怖ぇ。
「組の金だ。お前の小遣いじゃねぇ」
「分かってます」
「分かってねぇから聞いてんだ」
少しの沈黙。
俺は相良の視線をまともに受けた。
嘘は嫌いだ、この人は。
だが全部言うわけにもいかない。
「いくつか、表の流れを使いました」
「表?」
「今どき、昔ながらのやり方だけじゃ回りません」
「だから何をやった」
「まだ形になりきってません」
「答えになってねぇ」
相良は背もたれに寄りかかった。
煙草を一本取り出し、火をつける。
「真壁、お前は真面目だ」
「真面目で、義理堅くて、碌でもねぇくらい融通が利かねぇ」
「だから使いやすい」
褒められている気はしなかった。
実際、褒めてねぇのだろう。
「だがな」
煙を吐く。
「急に金の作り方が変わると、周りは勘ぐる」
「俺も勘ぐる」
「下手なことしてねぇだろうな」
「下手なことってのは」
「薬か、飛ばし口座か、表の会社でも食ってんのか、って話だ」
俺は無意識に奥歯を噛んだ。
そこじゃねぇ。
もっと妙な場所だ。
だが、そっちの方がまだ説明しづらい。
ヤクザが同人で金を作ってるなんて、笑い話にもならねぇ。
相良はその反応を見て、少しだけ目を細めた。
「……黙るってことは、後ろ暗いんだろ」
「違います」
「じゃあ言え」
「今はまだ言えません」
部屋の空気が少しだけ冷えた気がした。
もちろんクーラーじゃない。
山口が廊下の向こうで身じろぎした音がした。
聞き耳立ててやがるな、あの野郎。
相良はしばらく俺を見ていたが、やがて煙草を灰皿に置いた。
「まあいい」
意外だった。
「……いいんですか」
「親父さんの手術代もある。お前が焦るのも分かる」
「だが勘違いするなよ、真壁」
相良は指で机を二度叩いた。
「金を持ってくる奴は使える」
「使える奴には、もっと持ってきてもらう」
その一言で、胃のあたりが重くなる。
「今月分で終わりじゃねぇ」
「来月も、その次も、同じだけ作れ」
やっぱりそう来るか。
「それは――」
「できねぇのか?」
挑発じゃない。
確認だ。
できるか、できねぇか。
できると言えば、次からそれが基準になる。
できねぇと言えば、今月の金の出所をさらに掘られる。
汚ぇが、組ってのはそういう場所だ。
俺は答えなかった。
答えられるほど、まだ何も掴んでいねぇ。
相良は苦く笑った。
「お前、昔からそうだな」
「できるくせに、できると言わねぇ」
「言質を取られるのが嫌なんだろ」
「……」
「だが、その慎重さでここまで生き残ったのも事実だ」
言いながら、相良は帳簿を閉じた。
「一つだけ忠告しとく」
「親父さんが寝てる今、組の中は静かに見えても、みんな次を見てる」
「金を持ってくる奴には寄ってくる。失敗した奴からは離れる」
「分かるな」
「はい」
「だったら落ちるな」
それだけ言って、相良は顎で出口をしゃくった。
「行け」
「……失礼します」
立ち上がり、襖を閉める。
廊下へ出ると、山口が露骨に目を逸らした。
「盗み聞きか」
「い、いやぁ、その……」
「してたんだな」
「すみません」
山口は頭を掻きながら、声を潜めた。
「でも、若頭補佐」
「若頭、完全に試してますよ」
「分かってる」
「金持ってきたから期待してるんです」
「期待してるってことは、上に行けるってことでもありますけど」
「その代わり、失敗したら終わりだ」
「そうとも言います」
俺は煙草を取り出し、玄関先で火をつけた。
一口吸って、肺の奥まで沈める。
さっきまで早乙女の部屋では吸う気になれなかったのに、こっちへ戻れば手が勝手に動く。
結局、染みついたもんは簡単に抜けねぇ。
「山口」
「はい」
「表の方で、人を探れ」
「人?」
「水島誠。元編集だ」
山口が目を丸くした。
「編集……?」
「出版社の、ですか?」
「多分な。今は落ちてる」
「何の件です?」
「金になる」
それだけ言うと、山口の顔つきが変わった。
ヤクザにとって、それで十分だ。
「分かりました。名前だけでいいですか」
「元の勤め先も、同業のつながりも洗え」
「借金あるなら、その筋からも辿れるかもしれねぇ」
「了解です」
「ただし、組の名前は出すな」
「え?」
「まだだ。余計な連中を寄せるな」
山口は少しだけ怪訝そうな顔をしたが、俺の声色でそれ以上は聞いてこなかった。
「分かりました」
「明日の朝までに、足跡だけでも持ってこい」
山口が去る。
俺は煙草を吸いながら、夜の駐車場を見た。
街灯の下に停まった車はどれもくたびれていて、うちの組の現状そのものみてぇだった。
金を持ってくる奴は使える。
使える奴にはもっと持ってこさせる。
相良の言葉が頭の中で反芻する。
そうだ。
俺は昔から、そういうふうに使われてきた。
真面目で、義理堅くて、下手に正義感があるから、言われりゃ動く。
動いて、背負って、沈む。
そういう役回りだった。
……だが、今回は少し違う。
少なくとも、今追っている金の先には、早乙女の液タブの光がある。
誰かを殴って奪うだけじゃない。
まだ形にもなっていねぇが、別の何かがある。
それが何なのかは、まだ分からない。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
水島って男を見つけなきゃならねぇ。
それがなきゃ、この商売は回らない。
その夜、午前一時を過ぎた頃。
俺の携帯が震えた。
画面を見る。
早乙女だ。
「何だ」
『やばいです』
第一声がそれだった。
「だから何がだよ」
『水島の居場所、分かったかもしれません』
俺は煙草を灰皿に押しつけた。
「どこだ」
『前に一回だけ、作家仲間が“あの人まだ生きてたんだ”って話してて』
『川沿いの安アパートにいるって』
「生きてたんだ、って何だ」
『死ぬ死ぬ詐欺が多かったらしいです』
「笑えねぇな」
『で、その住所の近くまで行ってみたんですけど』
「行ったのかよ」
『はい』
「一人でか」
『はい』
「馬鹿か」
『でも』
早乙女の声が、一段低くなった。
『部屋の電気がついてなくて』
『新聞がドアに刺さったままで』
『なんか、嫌な感じがするんです』
俺は無言で車の鍵を掴んだ。
「住所送れ」
『今すぐですか?』
「今すぐだ」
『……来てくれるんですか』
「お前一人で死体見つけられても困る」
『死体って決めつけるのやめてくださいよぉ!!』
電話を切る。
すぐにメッセージで住所が飛んできた。
市内の外れ。
川沿い。
家賃の安い、半分廃墟みてぇな地域だ。
いかにも落ちる奴が落ちる場所だな、と思った。
車に乗り込む。
エンジンをかける。
フロントガラスの向こう、夜の街は静かだった。
だが俺の胸の奥は、妙にざわついていた。
金の匂いか。
面倒の匂いか。
それとも、もう後戻りできない何かの匂いか。
アクセルを踏む。
兄貴分の手術代。
組の金。
若頭の期待。
上納金の増額。
早乙女の狂った情熱。
そして、水島という壊れた編集者。
全部が一本の線でつながりかけていた。
その線の先に何があるのか、まだ見えねぇ。
だが――進むしかなかった。
夜道を飛ばして二十分。
川沿いの古びたアパートの前で、俺は早乙女を見つけた。
街灯の下、Tシャツにジャージという舐めた格好で、びくびくしながら立っている。
俺が車を降りると、早乙女は駆け寄ってきた。
「遅い!」
「二十分で来て遅いはねぇだろ」
「怖かったんですよ!!」
「だったら一人で来るな」
言いながら、俺はアパートを見上げた。
二階建て。
外壁は剥がれ、階段の鉄は赤く錆びている。
川の匂いと、湿った木の匂いが混じっていた。
「どの部屋だ」
「二〇三」
「人の気配は」
「全然」
俺は無言で階段を上がった。
足場がきしむ。
二〇三の前に立つ。
確かに新聞が二日分、扉の隙間に突っ込まれていた。
郵便受けには督促の赤い封筒。
安いドアの向こうからは、何の音もしない。
俺はドアノブに手をかけた。
――鍵が、かかっていない。
早乙女が息を呑む音がした。
「おい」
「はい」
「後ろにいろ」
「はい……」
ドアをゆっくり押す。
暗い。
生ぬるい空気が、隙間から流れ出る。
腐ったような匂いは、まだしない。
だが、妙に静かすぎた。
部屋の奥、わずかに月明かりが差し込んでいる。
そして、その光の中に――
床に倒れた男の足先が見えた。
読んでいただいてありがとうございます!
ヤクザのメンツもあるのでエロ同人で金を作っていますとは言えない真壁。
反面で現実は非常に切迫した状態で手元にいる人間は厄介者ばかり
真壁は果たして環境を整える事ができるのか
読み終わりましたら上の☆マークを五つ分頂けますと幸いです。
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