23話 木曜の前
最高の一作を作る、と決めた夜から、部屋の空気が変わった。
今までだって本気ではあった。
売りたい。
勝ちたい。
上納も、手術代も、全部必要だった。
だが今回は少し違った。
黒曜会を抜く。
狐塚を引きずり下ろす。
そのために、こっちが今持ってるものを、全部一作へ突っ込む。
目的がはっきりすると、人間は妙に静かになるらしい。
早乙女はふざける回数が減った。
久瀬は毒を吐きながらも、机に向かう時間が長くなった。
水島は相変わらず感じが悪いくせに、誰より先に売り場の顔を考えていた。
俺も、売上表を見る時間が少し減った。
代わりに見るのは、ネームだった。
「ここ、まだ綺麗すぎる」
久瀬が言う。
「勝てない相手を前にしてる男の顔にしては、まだ諦めが整いすぎてる」
「もっと意地が汚く残ってないと」
「汚い意地、ね」
早乙女が液タブの画面を見ながら言う。
「真壁さん、そういうの得意でしょ」
「褒めてんのか」
「最大級に」
「気持ち悪いな」
だが、言われたことは分かった。
今回の主人公は、ただ落ちぶれた男じゃない。
上から見下ろされ、負けるのが当たり前みたいに扱われ、それでも最後まで引かない奴だ。
それなら、もっと俺の中にあるもんを出すしかなかった。
「昔、オレは」
気づけば口にしていた。
三人がこっちを見る。
「高校で、勝てねぇ相手ってのをずっと見てた」
「いや、正確には、勝てねぇように場を動かしてくる相手だ」
「正面じゃ来ねぇ」
「空気を作って、取り巻きを使って、最後は自分だけ綺麗な顔して残る」
水島が、少しだけ目を細める。
「入れるか」
「ああ」
「どこに」
「主人公が“負けたくねぇ相手”を、ただ強いだけの男にしねぇ」
「場ごと握る奴にする」
久瀬が小さく頷いた。
「いい」
「それ、熱になる」
早乙女もペンを握り直す。
「じゃあ顔、もっと変えましょう」
「相手を見る目を、好き嫌いじゃなく“絶対に許さない”に寄せる」
水島が、机の上のメモを一枚ひっくり返した。
「それだ」
「向こうは整ってる」
「こっちは、最後の一歩で感情を均さない」
「ただし均さないまま売り場へは出せない」
「だから、こっちで受け止める」
「編集っぽいな」
俺が言うと、水島は鼻で笑った。
「今さらだろ」
木曜の前に出す。
その方針は決まっていた。
黒曜会は、木曜の深夜に動く。
新作も、更新も、追加サンプルも、ほぼ同じタイミングだ。
読者も、その時間に待っている。
だったら、その少し前に置く。
同じ客の目へ、先にこっちを叩き込む。
「問題は、間に合うかどうかだな」
俺が言うと、久瀬が即答した。
「間に合わせる」
「その代わり、途中で“売れそうだから丸くしよう”って言い出したら殺す」
「物騒だな」
「ヤクザに言われたくない」
早乙女が吹き出しかける。
「ほんと、この部屋だけ治安悪い」
「元からだろ」
そのくせ、手は止まらない。
水島が見せ場の順番を決める。
久瀬が“止まる顔”を作る。
早乙女が感情の熱をコマへ流し込む。
俺が、どうしても言えなかった言葉や、昔飲み込んだ感情を、少しずつ吐き出していく。
ページができるたび、部屋の中の空気が変わる。
「あ」
早乙女があるページで手を止めた。
「ここ、いい」
「どこだ」
俺が覗き込む。
主人公が、上から見下ろしてくる相手に向かって、笑いもせず、怒鳴りもせず、ただ低く言う一コマだった。
「お前が決めた順位で、オレが黙ると思うなよ」
その一文を見た瞬間、胸の奥が少し鳴った。
「……それだ」
水島も頷く。
「いい」
「綺麗じゃない」
「でも、残る」
久瀬が缶コーヒーを飲みながら言う。
「やっと、向こうにない熱が乗ってきたね」
向こうにない熱。
その言い方が、妙に良かった。
黒曜会は強い。
上手い。
整っている。
たぶん、人も金も使っている。
だが、今この部屋にあるのは、もっと別の熱だった。
怒り。
意地。
感謝。
悔しさ。
嬉しさ。
整えないと売れない。
でも、整えすぎると死ぬ。
その境目で、今俺たちは踏ん張っていた。
やがて、一作が出来上がった。
完成原稿が机の上へ並んだ時、しばらく誰も喋らなかった。
液タブの光だけが、青白く部屋を照らしている。
「……これ」
早乙女がぽつりと言う。
「好きです」
久瀬も、珍しく素直に頷いた。
「うん」
「悔しいけど、いい」
水島は何も言わなかった。
ただ、表紙、タイトル、紹介文、サンプルの切り方を最後まで見て、ようやく息を吐く。
「いける」
その一言で、全員の視線が集まった。
「本当か」
俺が訊くと、水島は短く答えた。
「勝てるかは分からない」
「でも、“ぶつける価値がある一作”にはなった」
それで十分だった。
木曜の前。
予定通り、黒曜会が動く少し前に、俺たちはその一作を売り場へ置いた。
公開ボタンを押したのは、早乙女だった。
「いきます」
指が震えていた。
だが、押した。
作品が並ぶ。
静かだった。
最初の一時間は、目立った変化はなかった。
閲覧は入る。
お気に入りも少しずつ増える。
だが、期待したほど一気には動かない。
早乙女が不安そうに言う。
「……あれ」
「落ち着け」
水島は言うが、こいつも少しだけ画面を見る回数が増えていた。
久瀬が、わざとらしく肩を回す。
「まあ、こんなもんでしょ」
「余裕ですね」
早乙女が言う。
「余裕あるふりしてるだけ」
「分かりやすいな」
俺が言うと、久瀬は舌打ちした。
「うるさい」
黒曜会の更新も入った。
あっちは相変わらず強い。
読者が待っているのが見える。
閲覧も、反応も、速い。
水島は黙ってその動きを見ていた。
「……どうだ」
俺が訊くと、水島は答えるまで少し時間がかかった。
「今の時点では、向こうが上だ」
早乙女の肩が少し落ちる。
「でも」
水島が続けた。
「口コミが出始めたら変わるかもしれない」
「口コミ?」
久瀬が言う。
「向こうは見た瞬間に止まる強さがある」
「こっちは見たあと、人に言いたくなる熱がある」
「たぶん勝負はそこだ」
その言葉を信じるしかなかった。
その夜は、はっきりした結果が出ないまま終わった。
翌日も、順位は少し上がって、また止まった。
黒曜会はまだ上にいる。
うちは伸びている。
でも、まだ届かない。
「駄目ですかね」
早乙女が珍しく弱い声を出した。
「まだ二日だ」
俺が言う。
「向こうは積み上げてきたもんがある」
「こっちは今ぶつけたばっかだ」
「真壁さんの方が作家みたいなこと言う」
「うるせぇ」
だが、本当は少しだけ焦っていた。
これだけの一作を作った。
熱も、意地も、因縁も、全部詰めた。
それでも黒曜会が上なら、何が足りない。
その答えが出ないまま、三日、四日と過ぎていく。
だが五日目、変化が起きた。
感想欄だ。
「これ、最後の一言が刺さりすぎた」
「黒曜会も好きだけど、今週はこっちの方が熱がある」
「読み終わったあと、誰かに勧めたくなる」
「見下されてきた人間の意地がしんどいくらい好き」
その言葉が、一つ、また一つと増えていく。
早乙女が画面を見ながら、声を震わせた。
「……来てる」
久瀬も、ランキングを更新して小さく言う。
「上がってる」
水島は何も言わずに、感想の文面だけを追っていた。
向こうの強さは、見た瞬間の完成度。
こっちの強さは、読んだ後に残る熱。
その差が、やっと動き始めていた。
そして一週間後。
部屋の中は、奇妙なくらい静かだった。
誰も喋らない。
ただ、画面だけを見ている。
ランキングが更新される。
一位。
最初、意味が分からなかった。
「……え」
早乙女が、最初に声を漏らした。
「え、待って」
久瀬が画面を引き寄せる。
「うそ」
水島は、何も言わない。
俺は立ち上がったまま、画面を見ていた。
一位。
うちの作品が、そこにあった。
黒曜会より上。
ランキングの一番上に。
「……勝った」
早乙女が呟く。
「勝ちましたよね、これ」
「……ああ」
俺はやっと答えた。
「勝った」
その瞬間、早乙女が立ち上がって叫んだ。
「やったぁああああ!!」
久瀬も、珍しく本気で笑っていた。
「マジか」
「ほんとに抜いた」
俺は、しばらく動けなかった。
一位。
狐塚の上に、俺たちの作品がある。
数字だけじゃない。
売り方だけでもない。
熱も、意地も、口コミも、全部積み上げて、そこへ届いた。
「水島」
ふと、早乙女が言う。
「あ?」
「大丈夫ですか」
水島は画面を見たまま、動かなかった。
「……信じられない」
その声は、今まで聞いたことがないくらい小さかった。
「俺、ずっと」
「勝てないと思ってた」
久瀬が笑いを少しだけ止める。
水島は続けた。
「上手いやつには勝てない」
「売り方を知ってるやつには勝てない」
「ヒット飛ばした編集には勝てない」
「そうやって、どこかで決めてたのかもしれない」
早乙女が、黙ってそれを聞いている。
「でも今、勝ってる」
水島は、画面を見たまま呟く。
「俺の中にあった“勝てない”って、結局、一人よがりだったのかもな」
「一人で抱え込んで、一人で見切って、一人で諦めて」
「他人をちゃんと信じられなかったから、潰れたのかもしれない」
部屋が少し静かになる。
勝った直後なのに、妙に静かだった。
俺は水島の肩を叩いた。
水島が、ようやくこっちを見る。
俺は、ニコリと笑った。
「今さら気づいたか」
水島が一瞬だけ呆れた顔をして、それから少しだけ笑った。
「……感じ悪いな」
「お前に言われたかねぇよ」
そのやり取りで、ようやく部屋の空気が戻る。
早乙女が笑いながら泣き始める。
久瀬が「情緒どうなってんの」と言いながらも、目だけは少し赤い。
水島は相変わらず素直じゃない。
でも、ちゃんとそこにいた。
▼
一方その頃。
ビルの一角。
整いすぎたガラス張りの部屋で、狐塚は拳を握っていた。
画面の中には、更新されたランキング。
一位ではなくなった黒曜会。
その上にいる、真壁たちの作品。
「……ふざけるな」
低い声だった。
だが、その低さの方が周りは怖かった。
部屋の空気が一気に張る。
狐塚の周りにいた人間たちが、目を逸らす。
誰も何も言わない。
狐塚は机を叩いた。
「何が足りなかった」
誰も答えない。
「聞いているんですが?」
その一言で、部屋の端にいた男がびくりと肩を揺らした。
一流の人間を集めた。
人気作家も使った。
売り方も整えた。
金も、人脈も、全部使った。
それなのに、真壁に負けた。
それが、狐塚には信じられなかった。
「……敗因は」
ようやく、一人が口を開きかける。
「余計なことを言うな」
狐塚が切った。
「私は分析を聞きたいんじゃない」
「結果が気に食わないと言っているんです」
その言葉で、全員が口を閉じる。
敗因の一つは、明らかだった。
狐塚が、人の意見を全く聞き入れないことだ。
だが、それを言える人間はここにいない。
言った瞬間に切られるからだ。
狐塚は、画面を睨んだまま、低く呟いた。
「……攫え」
誰も反応できなかった。
「は?」
一拍遅れて、側近の一人が声を漏らす。
狐塚は、静かに言い直した。
「真壁が飼っている作家を攫え」
その言葉で、部屋の空気が凍る。
真壁に負けた。
順位で負けた。
プライドをずたずたにされた。
だから、手段は選ばない。
それは、狐塚の宣言だった。
読んでいただいてありがとうございます!
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