15話 ライン
早乙女が吐いてから、部屋の空気は少しだけ変わった。
売上の数字は、相変わらず画面の中で静かに増えている。
お気に入り。
感想。
流入。
売上。
見れば嬉しい。
見れば分かる。
今の売れ線が、正しいってことだけは。
だが、その横で早乙女が流しにもたれて青い顔をしているなら、それはもう“順調”とは呼べなかった。
俺は机に戻り、椅子へ腰を下ろした。
水島は黙って紙を引き寄せる。
早乙女は床に座り込み、コップの水を両手で持っていた。
「じゃあ、どうするんですか」
早乙女が先に言った。
声はまだ少し掠れていたが、さっきみたいな無理に飲み込んだ静けさではなかった。
「真壁さんは金が要る」
「水島さんは壊れるから止めろって言う」
「私はBL描きたい」
「全部本当ですよね」
「本当だ」
俺が言う。
「だったら何か切るしかねぇ」
「切らなくていい」
水島が言った。
俺と早乙女の視線が、同時にそっちへ向く。
「切るんじゃなくて、増やす」
「は?」
俺が言うと、水島は机の上に三本の線を引いた。
一本目は太く、長い。
二本目は細く、短い。
三本目はまだ途中で途切れていた。
「今の問題は、売れ線もBLも、全部早乙女さん一人で抱えてることだ」
「抱えるのは作家だろ」
「それが甘い」
水島は顔も上げずに言う。
「編集の強さは、何本企画を出せるかじゃない」
「何人、手元に持ってるかだ」
その言い方に、少しだけ引っかかった。
「持ってる、って何だ」
「作家だよ」
水島はさらりと言った。
「使える作家を何人抱えてるか」
「誰に何を描かせるか」
「どこで組ませるか」
「それが編集の一番強い札だ」
早乙女が、水島の顔をじっと見る。
「……心当たり、あるんですか」
水島は少しだけ黙った。
その沈黙の長さで、ただの思いつきじゃないと分かった。
「一人いる」
「男か女かだけ先に言え」
俺が言うと、水島は少しだけ眉をひそめた。
「そこ大事か?」
「大事だろ」
「また厄介な元アシ男とかだったら殴る準備がいる」
「まだ殴る気なんですね」
早乙女が呆れた顔をする。
水島はため息を吐いた。
「女だ」
「作家だよ」
「元商業、今はほぼ沈んでる」
「沈んでるのばっかだな」
「売れない人間を拾うのが編集だからな」
それを言う時の水島の顔は、少しだけ嫌だった。
自嘲なのか、誇りなのか、その両方か。
「名前は」
水島は紙の端に書いた。
久瀬 透子
早乙女が、息を呑んだ。
「え」
「知ってるのか」
俺が訊くと、早乙女は慌てて頷いた。
「知ってるも何も、昔かなり名前ありましたよ」
「女性向けの商業でちょっと当てて、そのあと同人に流れてきて」
「でも二、三年くらい前から全然見なくなった」
「当てた、ってどのくらいだ」
「固定は強かったです」
「刺さる人にはめちゃくちゃ刺さるタイプで」
「ただ……」
早乙女は言いよどんだ。
「ただ、何だ」
「描くものが重かったんですよ」
「あと、速くない」
「売れ線より、ちょっとズレた人」
「ぴったりじゃねぇか」
俺が言うと、水島が小さく頷いた。
「そうだ」
「売れ線の量産要員じゃない」
「でも、早乙女さんのBLラインと相性は悪くない」
「むしろ、橋になる」
「橋?」
「こっちのサークルに、“ただ売れ線だけじゃない”って厚みを出せる」
「早乙女さんの好きな傷とも、今の客層とも、少し重なる」
早乙女はまだ半信半疑の顔だった。
「でも、そんな人が今さら来ます?」
「しかも私たちのとこに」
「来るかどうかは分からない」
水島は正直に言った。
「ただ、一度だけ恩がある」
その言葉で、俺はそっちを見る。
「恩?」
「商業を飛ぶ前に、最後に俺が拾った」
「厳密には、俺が拾ったというより」
「一回だけ、俺が見つけて、形にした」
早乙女が目を丸くする。
「水島さんが?」
「何だその顔」
「いや、そういう成功体験もあるんだなって」
「失礼だな」
だが、水島は少しだけ口元を緩めた。
「久瀬は、最初から上手かったわけじゃない」
「でも、傷の置き方だけが異様にうまかった」
「読者の“あ、これ自分だ”を刺すのがうまい」
「売れ線に完全には乗れないけど、乗せ方次第でちゃんと数字になる」
俺は腕を組んだ。
「で、今は沈んでる」
「沈んでる」
「理由は色々だ」
「締切飛ばしたり、人付き合いでこじれたり、商業の速さに耐えられなかったり」
「でも描けないわけじゃない」
「信用できるのか」
その問いに、水島は数秒黙った。
「完全には無理だな」
「正直だな」
「完全に信用できる作家なんていない」
「それでも、“今の状況で使えるかどうか”なら見極められる」
その言い方で分かった。
こいつは本気だ。
ただの気休めじゃない。
編集としての切り札を、ここで出そうとしている。
「真壁」
水島が初めて、少しだけまっすぐこっちを見た。
「今、必要なのは二つだ」
「早乙女さんを完全に壊さないこと」
「でも、売れ線の流れも止めないこと」
「その両方をやるなら、人を増やすしかない」
「外注じゃ駄目か」
「駄目だ」
「外注は責任を持たない」
「こっちは、少なくとも“自分の名前で描く人間”が要る」
早乙女が、ゆっくり水を飲んでから言う。
「私、その人と一緒にやれるのかな」
それは少し意外な台詞だった。
もっと反発するかと思っていた。
「嫉妬しないのか」
俺が聞くと、早乙女は少しだけ眉を寄せた。
「しますよ」
「そりゃします」
「でも、それで私が死ぬよりマシです」
その返しがあまりに真っ当で、少しだけ何も言えなくなった。
水島が、紙を指で叩く。
「久瀬は、早乙女さんの代わりじゃない」
「そこは勘違いするな」
「売れ線の負荷を分けるための、別の作家だ」
「BLの核は、早乙女さんでいい」
早乙女は小さく頷いた。
「……それなら」
「会うだけ会うか」
俺が言うと、水島が少しだけ驚いた顔をした。
「即決?」
「売れるもんは全部使う主義なんだろ」
「それ俺の台詞じゃないぞ」
「似たようなもんだ」
早乙女が、まだ少し青い顔のまま笑った。
「また最悪のチームっぽくなってきましたね」
「今さらだ」
部屋が少しだけ緩む。
だが次の瞬間、水島が冷水みたいに言った。
「ただし、面倒だぞ」
「何がだ」
「久瀬は、真っ当に呼べば来ない」
「は?」
「今のあいつ、自分で自分を“終わった作家”だと思ってる」
「変に気を使われると逃げる」
「説得にも弱い」
「でも、原稿には反応する」
俺はため息を吐いた。
「お前の周り、そういうのしかいねぇのか」
「編集が拾うのは大体そういうのだ」
その言い方が、少しだけ格好つけていて腹が立った。
「じゃあどうする」
水島は、机の上にもう一枚紙を置いた。
そこには、久瀬の昔の同人誌タイトルがいくつか殴り書きしてある。
早乙女がそれを見て、小さく目を見開いた。
「うわ」
「懐かしい」
「反応したな」
水島が言う。
「昔の自分の作品には、まだ執着がある」
「だからそこを使う」
「呼び出し方まで編集だな」
俺が言うと、水島は肩をすくめた。
「人を動かす仕事だからな」
その言葉に、少しだけ何かが重なった。
人を動かす。
それは、俺の世界の言葉でもあった。
ただ、動かし方が違うだけだ。
「で、どこにいる」
「今は駅前の印刷屋で夜勤してる」
「たぶん、まだ」
「たぶん?」
「少し前の情報だ」
「でも、そこ以外に行く場所がないはずだ」
「言い方がひでぇ」
「現実だよ」
早乙女が、ゆっくり立ち上がった。
まだ本調子じゃない。
だが、さっきまでの“机から動けない”感じは薄れている。
「私も行きます」
「無理すんな」
俺が言うと、早乙女はすぐに返した。
「無理します」
「自分のラインの話なんで」
水島が少しだけ考え、それから頷く。
「じゃあ行くか」
「ただし、早乙女さんは喋りすぎるな」
「真壁も脅すな」
「俺が話す」
「脅さねぇよ」
「どうだか」
「お前も感じ悪くすんなよ」
「それは無理だな」
やっぱり、こいつらといると少しだけ調子が狂う。
俺は立ち上がり、机の上の紙をまとめた。
二つの線。
売れ線。
BL。
そして、その間にもう一本、新しい線が引かれようとしている。
上納は待ってくれない。
数字も必要だ。
だが、そのために早乙女を潰したら意味がない。
だったら、人を増やす。
編集の札として。
水島が持っている、まだ燃え残っている作家を。
「真壁」
部屋を出る前に、水島が言った。
「あ?」
「勘違いするなよ」
「これは温情じゃない」
「戦力補充だ」
俺は少しだけ笑った。
「知ってる」
「ほんとに?」
「知ってる上で、少し助かってるだけだ」
それを聞いた水島は、珍しく何も言い返さなかった。
駅前のコピー屋へ向かう道すがら、夜の風はまだぬるかった。
山口でも、相良でも、狐塚でもない。
今から会いに行くのは、水島が“作家”として持っている札だ。
その事実が、少しだけ面白かった。
編集ってのは、口と目だけじゃないらしい。
人を抱えてる。
まだ終わってない人間を、何人か胸の奥にしまってる。
そういう意味じゃ、こいつは思っていたよりずっと厄介で、ずっと強い。
印刷屋の前に着くと、店内の白い光がガラス越しに漏れていた。
「いるか?」
俺が訊くと、水島は短く答えた。
「いるなら、あそこだ」
早乙女が、少しだけ息を整える。
「なんか緊張してきました」
「吐くなよ」
「そこですか真壁さん!?」
「縁起でもないこと言うな」
「さっき吐いた奴が何言ってんだ」
そんなやり取りのあと、俺たちは自動ドアの前に立った。
水島が、ほんの少しだけ目を細める。
「……いた」
ガラスの向こう。
コピー機の光の前で、ひどく無愛想な顔をした女が、一人、紙の束を揃えていた。
髪は適当に結ばれ、
目つきは悪く、
制服は似合っていない。
だが、その指先だけは妙に綺麗だった。
早乙女が、小さく呟く。
「……久瀬透子」
女はその声に反応して、顔を上げた。
そして、水島の顔を見た瞬間――
露骨に嫌そうな顔をした。
「最悪」
その第一声に、俺は少しだけ笑った。
やっぱり、水島の知り合いは、
まずそこから始まるらしい。
読んでいただいてありがとうございます!
というわけで新メンバーの加入となります。
あんまり人増やすぎると配分は減るはずなんですがね。
読み終わりましたら上の☆マークを五つ分頂けますと幸いです。
リアクション、レビュー、感想、ブックマークよろしくお願いします!




