16話 久瀬
「最悪」
第一声がそれだった。
コピー機の白い光の前で、女は露骨に顔をしかめた。
髪は後ろで雑にひとつに括られている。
制服は似合ってない。
目つきも悪い。
疲れているのに、どこか刺々しい。
だが、紙を揃える指先だけが妙に綺麗だった。
「久しぶり」
水島が言う。
「死んだかと思ってた」
「それはこっちの台詞だよ」
久瀬透子は、紙の束を揃えたまま言った。
「何しに来たの」
「今さら説教?」
「それとも、また誰かの人生を整えに来た?」
その言い方には棘があった。
だが、水島は顔色ひとつ変えない。
「仕事の話だ」
「帰れ」
即答だった。
「私、もう描いてない」
「人の原稿も、自分の原稿も見たくない」
「店長に見つかる前に消えて」
早乙女が横で、ちょっと傷ついたみたいな顔をする。
だが俺は少し安心した。
よかった。
まともに面倒くさい。
久瀬は紙の束を乱暴にカウンターへ置いた。
そしてようやく、俺と早乙女を見た。
「誰」
「真壁だ」
「知らない」
「だろうな」
「私は早乙女光です」
「……ああ」
久瀬の目が少しだけ動く。
「あなたが今、水島のとこにいる作家か」
早乙女が小さく頷く。
「知ってるんですか」
「少しだけ」
「最近、変な売れ方してるから」
その言い方に、俺が反応するより先に水島が言った。
「変、ではない」
「変だよ」
「水島が噛んでる時点で、だいたい普通じゃない」
言い返せないのか、水島は黙った。
久瀬は腕を組み、明らかに面倒そうな顔でこっちを見回した。
「で?」
「死に損ない編集と、疲れた女作家と、ヤクザ」
「ずいぶん終わってる組み合わせだけど」
「何の話?」
「描け」
俺は短く言った。
早乙女が「直球!」という顔をする。
水島は小さくため息を吐いた。
久瀬は俺を見て、それから少しだけ笑った。
「その顔で言うと、脅しにしか聞こえないね」
「脅してるわけじゃねぇ」
「仕事の話だ」
「ヤクザが言う“仕事”ほど怖い言葉もないけど」
「じゃあ金の話だ」
俺が言うと、久瀬の笑みが少しだけ薄くなった。
「……具体的には」
そこだ、と思った。
完全に終わった奴なら、金の話の前に切る。
こいつは違う。
嫌悪より先に、条件を測る目をした。
水島もそれを見たらしい。
少しだけ口元が動く。
「二ラインで回したい」
久瀬の目が水島へ向く。
「は?」
「今、売れ線が一本走ってる」
「でもそれだけだと、早乙女さんが死ぬ」
「だから別ラインが要る」
「早乙女さんのBLを残しつつ、売れ線の負荷を分ける」
「そのためにお前が要る」
久瀬はしばらく黙っていた。
それから、ひどく疲れた声で言った。
「相変わらず勝手だな」
「そうだな」
「人を使う時だけ、目が生き返るのも変わってない」
「お前も、そういう話の時だけ声が死なない」
久瀬が舌打ちした。
「……だから嫌なんだよ、水島」
「そういうとこが」
早乙女が横から、恐る恐る口を開いた。
「あの」
「何」
「私、久瀬さんの本、読んでました」
久瀬の目がわずかに細くなる。
「営業?」
「違います」
「普通に」
「『夜の底でまだ立ってる』、持ってました」
その瞬間、久瀬の顔がほんの少しだけ変わった。
営業と切り捨てる顔じゃない。
意表を突かれた顔だ。
「……あれ、知ってる人まだいたんだ」
「いますよ」
「私、あれ好きでした」
「かっこ悪いのに、最後までかっこつけてる大人ばっかりで」
久瀬が早乙女を見る目が、少しだけ和らいだ。
「変わった趣味してるね」
「よく言われます」
「だろうね」
早乙女は少しだけ笑った。
そのやり取りを見ながら、水島が静かに言う。
「だから呼んだ」
久瀬はすぐに険しい顔へ戻った。
「呼んだって、私はもう」
「商業も飛んだし、同人も途中で投げたし、締切も信用も何もない」
「今さらどの面下げて戻れって言うの」
「その面でいい」
俺が言った。
久瀬がこっちを見る。
少しだけ、本気で嫌そうな目だった。
「……何」
「オレらのとこ、まともな面してる奴いねぇ」
「今さらそこは問題じゃねぇ」
「最低だな」
「知ってる」
「でも、それだけじゃ来ないよ」
「だろうな」
俺は一歩だけ前へ出た。
「正直に言う」
「オレは金が要る」
「組の金も、オヤジの手術代も、上納もある」
「だから売れ線は止められねぇ」
「でも、そのせいでこいつを一回吐かせた」
久瀬の目が、早乙女へ向く。
早乙女は少しだけ気まずそうに目を逸らした。
「同じやり方を続けたら、次はもっとひでぇことになる」
「だから人が要る」
「描ける奴が要る」
「水島が、お前なら使えるって言った」
久瀬は黙って聞いていた。
「使える、ね」
「気に食わねぇ言い方なら変える」
「でも必要なのは本当だ」
印刷屋の奥で、別の機械が動く音がした。
店の蛍光灯は白くて、眠気みてぇな光だった。
その中で、久瀬はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく呟く。
「水島」
「あんた、前に私になんて言ったか覚えてる?」
水島は少しだけ目を伏せた。
「“お前の傷は武器になる。でも、それを読者へ向ける形にしろ”」
「そう」
久瀬は笑った。
乾いた笑いだった。
「で、私はその形に乗り切れなかった」
「速さにも、期待にも、数字にも」
「だから落ちた」
「知ってる」
「知ってるなら、何でまた来るの」
その問いに、水島は少しだけ間を置いた。
「まだ描けるからだ」
久瀬は顔をしかめる。
「根拠は」
「編集の勘だ。」
「俺はそれだけでいきてるからな」
「またそれ」
「あと、さっき早乙女さんの名前を聞いた時、目が死ななかった」
久瀬は何も言わなかった。
水島は続ける。
「完全に終わった奴は、もう嫉妬もしない」
「他人の売れ方にも反応しない」
「でもお前は違う」
「……最悪」
久瀬は小さく吐き捨てた。
「そうやって、勝手に見抜いた顔するのほんと嫌い」
「嫌われるのは慣れてる」
「そこも嫌い」
早乙女が、そっと口を開く。
「あの」
「私、正直ちょっと嬉しいです」
「何が」
「久瀬さんが来てくれたら」
「私、一人でずっと抱えなくて済むし」
「あと、普通に話してみたいです」
「同じような傷が好きな人だって思うから」
久瀬は、それを聞いて少しだけ目を細めた。
今度は棘じゃない。
測っている目だった。
「あなた、変だね」
「よく言われます」
「それさっきも聞いた」
「そうでしたっけ」
そのやり取りに、久瀬の口元がほんの少しだけ緩む。
そこで水島が、勝負をかけるみたいに一枚の紙を差し出した。
「これ」
「何」
「今の売れ線のネーム」
「見ろ」
久瀬は受け取らない。
「見たくない」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
「見たら、余計なこと考えるから嫌なんだよ」
「だから見ろ」
「あんた、ほんと人の嫌がるとこだけ上手いな」
そう言いながらも、久瀬は紙を取った。
一枚。
二枚。
三枚。
その目が、少しずつ変わる。
俺は横から見ていて分かった。
こいつも、水島と同じだ。
原稿の前では、死んだ顔が少しだけ戻る。
「……売れるね」
久瀬がぽつりと言った。
「だろ」
水島が言う。
「でも」
久瀬は、次のページを指で叩いた。
「ここ、空っぽ」
早乙女の顔が少し曇る。
「やっぱり」
「悪い意味じゃない」
「売れ線としては正しい」
「でも、ここにもう一段“どうしようもなさ”が入ると、もっと残る」
水島が、小さく笑った。
「来る気になったか」
「なってない」
「じゃあ何でダメ出しした」
「癖」
久瀬は紙を机に置いた。
「……一作だけ」
俺も、水島も、早乙女も黙る。
「一作だけならやる」
「その代わり、全部は抱えない」
「売れ線一本だけ」
「あと、条件がある」
「何だ」
俺が訊くと、久瀬は迷いなく言った。
「水島」
「あんたが最後まで責任持つこと」
水島が、少しだけ目を細めた。
「また重いこと言うな」
「前みたいに途中で“お前のためにならない”とか言って勝手に切るなら、最初からやらない」
その一言で、空気が少し止まる。
水島は、数秒黙ったあと、短く答えた。
「分かった」
「あと」
久瀬は今度こそ、俺を見た。
「ヤクザ」
「私の原稿で、私を脅すな」
「しねぇよ」
「信用ならない」
「それはお互い様だろ」
久瀬は少しだけ口元を歪めた。
「……たしかに」
早乙女が、ほっとしたみたいに息を吐く。
「じゃあ、決まり……?」
「まだだ」
久瀬が言う。
「今から店長に辞めるって言ったら、たぶん怒鳴られる」
「だから、そこは今日一日だけ待て」
「辞める前提なのかよ」
「夜勤のコピー屋しながら原稿やれるほど器用じゃない」
「やるならちゃんとやる」
その言葉に、俺は少しだけ笑った。
「嫌いじゃねぇな」
「気持ち悪い」
「今さらだろ」
久瀬は紙を返し、水島に言った。
「明日」
「昼過ぎなら空ける」
「分かった」
「あと、その売れ線」
「次、もう少し“見栄を張ってる大人の匂い”入れなよ」
「その方が絶対残る」
早乙女が、思わず前のめりになる。
「ですよね!?」
「うるさい」
「まだチーム入りしたわけじゃない」
「しましたよ今」
「してない」
「しましたって」
そのやり取りに、さっきまでの重さが少しだけ薄れた。
印刷屋の自動ドアが開き、夜のぬるい風が入ってくる。
俺はその風の中で、目の前の女を見た。
久瀬透子。
目つきが悪い。
態度も悪い。
でも、原稿を見た時の目は死んでいなかった。
水島の札、という意味が少しだけ分かった気がした。
編集ってのは、企画を出すだけじゃない。
まだ終わっていない作家を、どこかで抱え込んでいる。
そして必要な時に、そいつをもう一度、火の前へ連れてくる。
厄介だ。
だが、強い。
店を出る前に、久瀬が最後に言った。
「水島」
「あ?」
「今度は潰れる前に、ちゃんと言えよ」
水島は少しだけ笑った。
「お前もな」
久瀬はそれに答えず、またコピー機の前へ戻っていった。
俺たちは自動ドアの外へ出る。
夜の風は相変わらず湿っていたが、さっきより少しだけ軽く感じた。
早乙女が小さく言う。
「なんか、すごい人来ましたね」
「面倒そうだがな」
俺が言うと、水島が肩をすくめる。
「面倒じゃない作家なんていない」
「お前が言うと説得力あるな」
「だろ」
俺は駅前の灯りを見ながら、短く息を吐いた。
売れ線は止めない。
BLも切らさない。
そして、久瀬透子という新しい線が入る。
少し複雑になる。
面倒も増える。
だが、多分それでいい。
単純なやり方だけじゃ、もう続かないところまで来ていた。
「真壁」
水島が言う。
「あ?」
「これでようやく、編集っぽくなってきただろ」
俺は少しだけ笑った。
「人を持ってるって意味ならな」
水島は珍しく、少しだけ得意そうな顔をした。
それが妙に腹立たしくて、でも少しだけ頼もしかった。
読んでいただいてありがとうございます!
なんだかんだで真壁のチームに新しいメンバーが入ります。
再生工場みたくなってきましたね。
案外真壁は気づかない内それを求めているのかもしれません
読み終わりましたら上の☆マークを五つ分頂けますと幸いです。
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