13話 変化
間下組の事務所に入った瞬間、空気が少し違うのが分かった。
前より視線が多い。
玄関先で靴を脱ぐだけで、若い衆の目がこっちへ寄る。
露骨に媚びるほどじゃない。
だが、前みたいな“若頭補佐だから一応頭下げとくか”って感じでもない。
山口が一番分かりやすかった。
「お疲れ様です、補佐」
声が少しだけ弾んでいる。
「何だ」
「いえ、別に」
「別に、って顔じゃねぇだろ」
山口は少し笑って、俺に近づいた。
「最近、羽振りいいって話、もう組の中でも回ってます」
「誰が回してる」
「みんなですよ」
「だって、金の匂いってすぐ広がるんで」
俺は舌打ちした。
嫌な話だが、事実でもある。
金を持ってくる奴には寄ってくる。
相良の言葉を思い出す。
「若頭は」
「奥です」
「今日は、機嫌そこまで悪くないです」
「怖ぇこと言うな」
「本当ですって」
山口は少しだけ声を潜めた。
「補佐、正直に言うと」
「最近、若頭の見る目が少し変わってますよ」
「何がだ」
「使える駒から、“次の核”を見る目に近いです」
その言い方に、少しだけ胃が重くなる。
次の核。
言い換えれば、もっと逃げられなくなるってことだ。
俺は返事をせず、応接間の襖を開けた。
相良は机の前で帳簿を見ていた。
顔を上げる。
「来たか」
「はい」
「座れ」
向かいに座る。
前と同じ机、同じ灰皿、同じ蛍光灯の白さ。
だが、今日は空気が少しだけ違った。
相良の目に、疑いとは別の色が混じっている。
「今月分」
相良が紙を一枚出す。
「悪くない」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「結果が出たから言ってるだけだ」
相変わらず冷てぇ。
だが、その冷たさが今日は少しだけ心地よかった。
「で」
相良は指を組む。
「次だ」
やっぱりそう来る。
「真壁、お前の金の作り方、まだ全部は聞かん」
「……はい」
「だが、一つだけ言っておく」
相良は静かに続けた。
「うちの組は、今のままじゃ先細る」
「親父さんが倒れて、昔の看板も効きが悪い」
「若いのは夢がねぇ」
「顔の利く先も減ってる」
「分かってます」
「分かってるなら、なおさらだ」
相良の目が、少しだけ鋭くなる。
「金だけじゃない」
「流れを作れ」
「“間下はまだ死んでない”って思わせろ」
その言葉に、少しだけ驚いた。
金を持ってこい、だけじゃない。
組の空気ごと変えろ、ということだ。
無茶だ。
だが、言われてみればそうでもある。
結局、金は力の証明だ。
金が回れば、人も寄る。
夢のない組に、人はついてこない。
「できますか」
俺が訊くと、相良は少しだけ笑った。
「それを考えるのがお前の仕事だ」
「買い被りすぎです」
「買ってるんじゃない」
「使えるうちは使う」
その言い方に、少しだけ安心した。
変に期待されるより、よほどやりやすい。
「それと」
相良が煙草を一本取り出す。
「最近、お前に寄ってくる奴が増えたろ」
「……まあ」
「金を持ってる間だけだ」
「勘違いするなよ」
「しません」
「する顔だ」
「してません」
相良は火をつけ、煙を吐いた。
「いや」
「少し違うな」
「何がです」
「お前、最近は“寄ってこられる”こと自体が嫌いじゃなくなってる」
その言葉で、喉の奥が少しだけ詰まった。
図星だったのかもしれない。
金が動く。
人が見る。
評価が変わる。
その感覚に、どこかで酔い始めている自分がいた。
組でも、
売り場でも。
「……気のせいです」
「そうか」
相良はそれ以上言わなかった。
部屋を出ると、廊下に二人の若い衆が立っていた。
すぐに頭を下げる。
「お疲れ様です、補佐」
前より声が揃っている。
前より角度が深い。
「……何だ」
「いえ」
「今度また、何かあったら使ってください」
その言葉に、少しだけ笑いそうになった。
何かあったら使ってください。
昨日まで、ろくに話しかけてもこなかった奴がだ。
「都合いいな」
「すみません」
「本当にそう思ってるなら、今は自分の仕事してろ」
「はい!」
返事だけは立派だ。
玄関を出ると、山口がついてきた。
「補佐」
「あ?」
「今度、飯でもどうです」
「若いの何人か連れて」
「何のためだ」
「顔つなぎですよ」
「今のうちに、補佐の側にいた方がいいって思ってる奴、結構います」
その言い方は露骨だった。
だが、嫌な気はしない自分がいた。
俺は少しだけ黙って、それから答えた。
「今はいい」
「そうですか」
「そのうちな」
山口の顔が少し明るくなる。
単純なやつだ。
俺は煙草に火をつけた。
一口吸う。
肺の奥に落ちる煙が、妙に軽かった。
評価される。
その感覚は、昔にも少しだけ知っている。
だが今は違う。
昔は、オヤジの影で評価されていた。
使える若い衆。
真面目な舎弟。
よく働く駒。
今は違う。
少なくとも今の金は、俺が動かした。
俺の判断で、俺の足で、俺の嗅覚で掴んだ金だ。
その事実が、じわじわと胸の奥を熱くする。
帰りの車の中で、俺は携帯を見た。
販売ページの数字がまた少し増えている。
お気に入りも、感想も、少しずつ増えている。
そこへ、早乙女から短いメッセージが入る。
「売れてます」
それだけだ。
句読点も、顔文字もない。
前ならもっと騒いでいた。
もっと浮かれていた。
俺は少しだけ眉をひそめた。
次に水島から。
「次のネーム、進み遅い」
それも短い。
俺は車を飛ばした。
早乙女のアパートに着いた時には、もう夜だった。
階段を上がる。
部屋の灯りはついている。
だが、前みたいな“作業してる熱”が、外にまで漏れていない気がした。
ノックする。
「オレだ」
鍵が開く。
中に入ると、早乙女は机の前に座っていた。
液タブはついている。
だが、画面はほとんど進んでいない。
水島は机の横で腕を組んでいた。
「遅い」
「組だ」
「そっちは」
水島が顎で早乙女をしゃくる。
「進んでない」
早乙女が画面から目を離さないまま言う。
「進んでますよ」
「嘘つけ」
「進んでないわけじゃないです」
「ただ、気持ちが乗らないだけで」
その言い方に、少しだけ苛立った。
「気持ちで描く仕事か?」
早乙女がようやくこっちを見る。
目の下に少しクマができている。
「……そうですよ」
短い返答だった。
「私はそうです」
「気持ちがないと、描いても死ぬんです」
「でも売れた」
「売れましたね」
「じゃあいいだろ」
「よくないです」
部屋が少し静かになる。
水島が割って入る。
「真壁」
「今日はそこで止めろ」
「止めてる暇がねぇ」
「だからって、今それ言っても前に進まない」
「前に進んでねぇのはこいつだろ」
その瞬間、早乙女の肩がぴくりと動いた。
「……分かってますよ」
「何がだ」
「足引っ張ってるってことでしょ」
そう言って、早乙女はペンを置いた。
「分かってます」
「売れてるんだから正しいですよ、真壁さんのやり方」
「私が文句言う筋じゃない」
「だったら描け」
「描いてますよ!」
初めて、少しだけ声が荒くなる。
「描いてます!」
「描けるからやってるんです!」
「でも、前みたいに“これ好きだな”って顔で描けないだけです!」
その言葉で、水島が目を伏せた。
俺は何も言えなかった。
好きだなって顔で描けない。
それは、思ったより重かった。
「……で」
俺は少しだけ声を落とした。
「何が駄目なんだ」
早乙女はしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。
「上手く描けるんです」
「は?」
「こういう売れ線、私、思ったより上手く描けるんです」
「だから嫌なんですよ」
「向いてないなら言い訳できるのに、普通に形になるから」
その言葉は、分かるようで分からない。
だが、水島には分かったらしい。
「自分が嫌ってたものに、自分が適応できるのが嫌なんだろ」
「そうです」
早乙女は即答した。
「私、もっと“どうしようもない愛”が描きたいんです」
「人生の酸いも甘いも知って、社会にいられなくなったおっさんたちが、見苦しく傷舐め合ってるようなやつ」
「なのに今描いてるの、もっと早くて、もっと綺麗で、もっと簡単に食われるやつで」
「食われる、か」
水島が呟く。
「上手い言い方だな」
「上手く言いたくないです」
「でも上手く言えるってことは、まだ死んでない」
その会話を聞きながら、俺は机の上のネームを見た。
売れ線。
分かりやすい。
強い。
そして、確かに、早乙女の本当に描きたいものとは少しずれている。
だが、そのズレが今は必要だ。
そう思ってしまう。
「早乙女」
「あ?」
「今はこれで行く」
早乙女の目が、少しだけ冷たくなる。
「またそれですか」
「ああ」
「私が嫌でも?」
「嫌でもだ」
水島が俺の方に向き直る。
その目に明確な敵意を感じた。
これ以上言うなという意味だろう。
「お前はプロヂュースは得意かもしないが
マネジメントは杜撰だな」
水島がポツリとこぼした。
今は数字が要る。
それを、水島も分かっているからだ。
早乙女は数秒、こっちを見ていた。
怒っているわけでも、泣いているわけでもない。
ただ、少しだけ遠い。
やがて、静かに言った。
「分かりました」
それからまた、机に向き直る。
ペンを持つ。
線を引く。
だが、その背中はもう、最初に会った時の“漫画のためなら死ねる”女の背中じゃなかった。
売れるものを描く背中だ。
仕事をする背中だ。
少しだけ、壊れ始めている背中だった。
水島が、ほんの小さな声で言う。
「……まずいな」
俺に聞こえるかどうかの声だった。
だが、聞こえた。
「何がだ」
「このまま売れたら、止まらなくなる」
「いいことだろ」
「数字にはな」
「人には、そうでもない」
その言葉を、俺は拾わなかった。
拾ったら、少しだけ足が止まりそうだったからだ。
代わりに、画面の中の売上を見る。
また少し増えている。
組での視線も変わった。
若い衆の態度も変わった。
相良の目も少し変わった。
このまま行けば、もっと上に行ける。
それは甘い確信だった。
そして、甘いからこそ危ないのだと、きっとどこかでは分かっていた。
だが今はまだ、その危なさより、上へ行ける感覚の方が強かった。
俺はネームを見下ろし、小さく言った。
「……これで行ける」
誰に聞かせるでもない声だった。
だが水島は聞いていた。
早乙女も、多分聞いていた。
それでも、誰も何も言わなかった。
ただ、扇風機の音だけが回っていた。
読んでいただいてありがとうございます!
真壁は組内の自分の扱いの変化に実感を得ているのと同時に少しずつチームが壊れていく音を
聞いています。ですが傍目からみると上手くいっているようにも見えます。
あるいは人の感情など一抹の不安で全て上手くいくと信じたいのかもしれません。
読み終わりましたら上の☆マークを五つ分頂けますと幸いです。
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