12話 売れ線
上納が増える。
たったそれだけの言葉が、こんなにも重いとは思わなかった。
部屋に戻ってからも、頭のどこかでずっと数字が鳴っていた。
オヤジの手術代。
組を回す金。
来月から増える上納。
今の売上じゃ、話にならねぇ。
液タブの青白い光の前で、早乙女が次のネームをいじっている。
水島は販売ページの数字を見ながら、煙草の代わりみたいに安いコーヒーを啜っていた。
俺は机の上に紙を置いた。
ざっくり計算した数字だ。
「何ですか、それ」
早乙女が訊く。
「現実だ」
「うわ、嫌な言い方」
「嫌でも見ろ」
紙の上には、今の売上と必要額の差が並んでいた。
笑えるほど開いている。
早乙女が目を細める。
「……こんなに足りないんですか」
「足りねぇ」
「今の作品、反応いいじゃないですか」
「いい」
「だが、“いい”だけじゃ届かねぇ額だ」
水島は黙っていた。
否定しないってことは、同じ計算をしてるんだろう。
俺は続けた。
「次は当てに行く」
早乙女が顔を上げる。
「当てに行く?」
「ああ」
「分かりやすく数字になるやつを作る」
その瞬間、早乙女の顔が露骨に曇った。
「……嫌な予感しかしない」
「するだろうな」
「何描かせる気です?」
俺は少しだけ間を置いた。
「次は、もっと売れ線だ」
「若い。綺麗。関係が一目で分かる。見た瞬間に何の快楽か伝わるやつ」
早乙女が、じっと俺を見る。
「BLじゃないんですね」
「今はな」
「今は、って何ですか」
「今は金が要る」
短く言い切る。
その言葉で、早乙女の目から熱が少し引いた。
「私、描きたいのはそっちじゃないです」
「知ってる」
「分かってて言ってるんですか」
「分かってるから言ってる」
早乙女は椅子を少しだけ引いた。
逃げるほどじゃない。
でも、距離を取るには十分な動きだった。
「私、ああいうの好きじゃないんですよ」
「若くて綺麗で、最初から売れる形してるやつ」
「そういうの、上手く描ける人いっぱいいるじゃないですか」
「私が描く意味あります?」
俺は紙を指で叩いた。
「ある」
「どこに」
「売るためだ」
早乙女が口をつぐむ。
そこで初めて、水島が口を開いた。
「真壁」
「あ?」
「言ってることは分かる」
「今のままじゃ足りないのも、その通りだ」
「でも、急にそっちへ振ると、早乙女さんの芯が折れる」
「折らねぇよ」
「そういう問題じゃない」
水島は、早乙女の机の横に立てかけてあったラフを見た。
「この人は“好きだから描ける”タイプだ」
「好きじゃないものでも描ける人間とは違う」
「売れ線をやらせるにしても、噛み合わせを考えろ」
「考えてる」
「考えてない」
言い切りやがった。
俺は少しだけ水島を睨んだが、水島は目を逸らさない。
「今の言い方だと、ただ“数字のために好きじゃないもの描け”だ」
「それじゃ作家は死ぬ」
「じゃあどうしろってんだ」
「売れる要素を入れつつ、早乙女さんの好きな“傷”を残す」
「ゼロか百かで切るな」
早乙女が少しだけ顔を上げた。
助け舟だと思ったんだろう。
だが、水島はすぐに続けた。
「ただし」
「今、数字が必要なのも事実だ」
「だから今回は、真壁の言う“売れ線”に寄せる」
早乙女の顔が固まる。
「どっちなんですか」
「現実の話をしてる」
「俺だって、今それを全部止められるほど綺麗じゃない」
その一言で、部屋が少し静かになった。
水島は分かっている。
まずいことも。
早乙女が嫌がることも。
それでも、止めきれない。
数字が必要だからだ。
俺はその静けさの中で言った。
「後で好きに描かせる」
早乙女が、力なく笑った。
「そういうの、信用ならないんですよね」
「信用しろとは言わねぇ」
「だが今は、これが要る」
「今は、今はって」
「そうやって後回しにされる方は、ずっと今なんですけど」
その言葉は少しだけ刺さった。
だが、刺さったから何だって話だ。
痛ぇからやめる、で済むなら最初からこんな仕事していない。
「早乙女」
「あ?」
「お前、売りたいんだろ」
「……売りたいですよ」
「じゃあ描け」
「好きなもんだけで届くならいい」
「でも届かねぇなら、届く形に寄せるしかねぇ」
早乙女はしばらく黙っていた。
扇風機の回る音だけが、妙に耳につく。
やがて、早乙女はゆっくりと椅子に座り直した。
「どんなのですか」
「え?」
「売れ線です」
「どうせやるなら、ちゃんと嫌いになれるように教えてください」
その言い方に、少しだけ笑いそうになった。
「若くて、見た目がいい」
「関係が分かりやすい」
「最初から危ない匂いがある」
「読者が一目で“これ好きかも”と思えるやつ」
水島が横から補足する。
「ただし、完全に空っぽだと駄目だ」
「早乙女さんが入れたいなら、“傷の舐め合い”を中に隠せ」
「表は売れ線。中身はお前の執着で汚せ」
早乙女が、ゆっくり息を吐いた。
「……最悪」
「だろうな」
「でも、分かりました」
そう言って、ペンを持つ。
その手つきは、前みたいに嬉しそうじゃなかった。
面白いものを思いついた時の速さじゃない。
嫌な仕事を引き受けた職人の手だった。
それでも、線は走る。
若い男。
綺麗な顔。
一目で分かる危うい距離。
分かりやすい引き。
すぐに何の快楽か伝わる構図。
上手かった。
上手いのが、余計に嫌だった。
「描けるじゃねぇか」
俺が言うと、早乙女は画面を見たまま答えた。
「描けますよ」
「描けるから嫌なんです」
その返しに、何も言えなくなった。
水島が黙ってラフを覗く。
そして、ほんの少しだけ眉をひそめた。
「……まずいな」
「何がです?」
早乙女が訊く。
水島はすぐには答えない。
代わりに、ラフの一枚を指で叩いた。
「売れる」
部屋が静まる。
「それも、かなり分かりやすく」
早乙女は何も言わなかった。
俺は画面を見つめた。
確かにそうだった。
さっきまでの“良さそうな地獄”じゃない。
こっちはもっと単純で、もっと早い。
売り場で止まる。
数字になる。
そういう顔をしている。
「これでいく」
俺が言うと、早乙女の肩がほんの少しだけ下がった。
「はい」
返事はした。
だが、その声には熱がなかった。
水島がそっと目を伏せる。
多分、こいつも分かってる。
今この瞬間、何かが少しだけ壊れた。
派手な音はしない。
喧嘩にもならない。
ただ、作家が自分の好きな場所から半歩ずれた。
それだけだ。
それだけなのに、妙に重かった。
早乙女はネームを切り終えたあとも、しばらく机の前から動かなかった。
ペンは置いている。
画面も止まっている。
それなのに、座ったまま、何も言わない。
「早乙女」
呼んでも、返事はすぐに来なかった。
数秒遅れて、ようやく小さく答える。
「……何ですか」
「終わったぞ」
「そうですね」
「次、詰めるぞ」
「はい」
はい、と答えた声が、妙に遠かった。
俺はその背中を見ながら、胸の奥の嫌なざわつきを無視した。
今は数字が要る。
上納も、手術代も、待ってくれない。
だったら、これで行くしかない。
画面の中の売れ線ネームをもう一度見る。
分かりやすい。
強い。
止まる。
売れる。
俺は確信した。
これで上に行ける。
その一方で、水島は黙ったまま早乙女の横顔を見ていた。
その目が、「まずい」と言っていた。
だが、今は誰もそれを止めなかった。
早乙女は机に向かったまま、しばらく動かなかった。
まるで、描くために座っているんじゃなく、
何かを置いてきた場所から立ち上がれなくなったみたいに。
読んでいただいてありがとうございます!
真壁はまだ作家がどういうものなのかを知りません。
売れるからといって売れ線をかかせる事によって作家がどうなるのかなんてわからないのです、
読み終わりましたら上の☆マークを五つ分頂けますと幸いです。
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