9話 一人目の客
その夜、俺たちは
たった一本の漫画を売り場へ置いた。
それだけのことだった。
だが、何かが確かに始まった音がした。
朝、最初に目を覚ましたのは俺だった。
床は相変わらず固く、首は痛い。
早乙女の部屋の天井はやけに低く見えた。
身体を起こす。
窓の外はもう明るい。
蝉がうるせぇ。
机の前を見ると、水島はすでに起きていた。
昨日と同じ皺だらけのシャツのまま、パソコン画面を睨んでいる。
「寝たのか」
俺が声をかけると、水島は目を離さずに答えた。
「二時間」
「死ぬぞ」
「昨日まで死にかけてたから、誤差だ」
感じの悪さだけは朝でも健在らしい。
「数字は」
「まだ大したことはない」
「でも悪くない」
俺は机へ近づいた。
画面の端に、閲覧数とお気に入りが出ている。
閲覧は三十ちょっと。
お気に入りは三。
売上は――まだ、ゼロ。
「こんなもんか」
「こんなもんだ」
「むしろ、夜中に置いて朝でこれなら悪くない」
その時、押し入れの前で丸くなっていた早乙女が、もぞもぞと起きた。
髪はさらにひどいことになっている。
「……何時ですか」
「八時前」
「最悪」
「人類には寝る権利がある」
「権利問題の次は睡眠権か」
「うるさい」
早乙女はのそのそと起き上がり、画面を見た。
そして固まる。
「……え」
「何だ」
「お気に入り、三ついてる」
「ついてるな」
「うそ」
「現実だ」
早乙女が机へにじり寄り、画面を両手で掴みそうな勢いで覗き込む。
「誰」
「誰ですかこの三人」
「なんでこんな朝から」
「ていうか売上まだですか」
「欲張るな」
俺が言うと、早乙女は真顔で振り返った。
「欲張りますよ!」
「公開したんですよ!?」
「作家が数字欲張らなくてどうするんですか!!」
水島が横から淡々と刺す。
「こういうタイプが数字で壊れる」
「今は壊れてません!」
「今はな」
俺は二人のやり取りを聞き流しながら、昨夜拾った“最初の五人”のメモを見た。
ここからだ。
売り場へ置いただけじゃ足りない。
見つけてもらわなきゃ意味がねぇ。
だが雑に撒くのは違う。
だったら、やることは一つだ。
「起きたなら動くぞ」
早乙女が不満そうに眉を寄せる。
「朝ごはん」
「後だ」
「ひどい」
「売れてから食え」
「資本主義ぃ……」
水島が紙を一枚差し出してきた。
そこには昨夜、最初の五人について書いたメモが整理されていた。
関係性の崩れに反応する人
社会からこぼれた男に反応する人
哀愁ある中年キャラが好きな人
義理と執着の曖昧さを好む人
“取り返しのつかなさ”に弱い人
「まずはこれに近い言葉で、一言だけ流す」
「宣伝文句か」
「宣伝じゃなくて、呼び水だ」
早乙女が首を傾げる。
「どう違うんです?」
水島はパソコンを指差した。
「宣伝文句は“買ってください”だ」
「呼び水は“これ、お前の傷に近いだろ”だ」
その言い方は、少しだけ腹に落ちた。
「で、文句は」
「何本か作る」
水島がキーボードを叩き始める。
一つ目。
かっこ悪いのに、最後までかっこつけてしまう男が好きな人へ。
二つ目。
社会からこぼれた男が、寝たきりの兄貴分に恩を返そうとする話です。
三つ目。
若くて綺麗な恋愛じゃなく、取り返しのつかない大人の関係が好きな人へ。
早乙女が、ぐ、と唸る。
「刺さる」
「悔しい」
「悔しがってる暇があるなら、表紙を最終仕上げしろ」
「はいはい」
俺はメモを見ながら言う。
「これ、五人に直接送るわけじゃねぇよな」
「送らない」
水島は即答した。
「それやると警戒される」
「向こうが自分で見つけたと思える距離に置く」
「でも、見つけた時に“自分向けかも”と思わせる」
「めんどくせぇな」
「客の心はだいたい面倒なんだよ」
早乙女が、コーヒーを淹れながら言う。
「私は単純ですけどね」
「お前は感情が単純で、執着が重い」
「最悪の言い方!」
部屋の空気が少し和む。
だが、やってることは綱渡りだった。
水島が文面を整える。
早乙女が表紙の線を仕上げる。
俺がその文面を“どこに置くか”を考える。
夜の店で客を呼ぶ時も似たようなもんだった。
誰に、どの言葉で、どの順番で見せるか。
違うのは、今は誰かの欲情じゃなく、もっと別の傷を刺激しようとしているところだ。
「これでいく」
水島が画面をこちらへ向ける。
作品ページへの導線として、最低限の言葉だけを置いた投稿案が数本並んでいた。
「露骨すぎない」
「でも濃度はある」
「今のところはこれで十分」
「今のところ?」
「売れ方を見て変える」
「最初の客がどこで止まり、どこで去るかは出してみないと分からない」
「また怖ぇこと言うな」
「商売だからな」
早乙女が最後の線を入れ終えたらしく、こちらを振り向いた。
「表紙、できました」
画面を見る。
くたびれた中年ヤクザ。
ネクタイを緩め、疲れた顔で俯いている。
だが、その目だけは死に切っていない。
その上に、タイトルが乗っていた。
寝たきりの兄貴分の手術代を稼ぐため、落ちぶれヤクザが人生を売る話
長ぇ。
だが、強い。
「いい」
俺が言うと、早乙女が少しだけ胸を張る。
「でしょう」
「俗だが、いい」
「褒めてるのか貶してるのかどっちですか」
「両方だ」
水島が小さく頷いた。
「これでいい」
「表紙で“落ちぶれ”が見える」
「タイトルで“目的”が見える」
「紹介文で“傷”が見える」
「じゃあ……流します?」
早乙女の声が少しだけ緊張している。
「流す」
俺が言った。
水島も頷く。
「流せ」
「ただし、反応がなくても慌てるな」
「最初の反応が来るまで、少し時間がかかることもある」
「嫌です」
「今すぐ反応欲しいです」
「壊れる作家の典型だな」
「うるさい」
それでも早乙女は深呼吸して、投稿を流した。
数秒。
何も起きない。
十秒。
まだ何も起きない。
早乙女が顔をしかめる。
「……無」
「当たり前だ」
「世の中はお前の投稿を待って生きてない」
「分かってますけど!!」
一分。
二分。
それでも、何もない。
部屋の空気が少しずつ重くなる。
こういう待ち時間は、俺も嫌いだ。
金の回収でも、相手の返事でも、反応を待つ時間が一番気色悪い。
その時だった。
ポン。
小さな通知音。
早乙女が跳ねる。
「きた!」
画面を見る。
いいね、が一つ。
そして、作品ページへの流入が一件。
「一人です」
早乙女が言う。
「一人だな」
「でも一人です!!」
水島が目を細める。
「その一人が大事なんだよ」
また、数十秒。
次の通知。
今度は、いいねではなく短い返信だった。
“これ、めちゃくちゃ好きそうな匂いがする”
早乙女が固まる。
「……匂い、って言いましたよね」
「言ったな」
俺も思わず笑いそうになる。
水島はすぐに切り替えた。
「その人のアカウント見ろ」
「昨日の五人に近いか」
早乙女が慌てて開く。
投稿履歴。
好きな作品。
感想の言葉。
そして三人で顔を見合わせた。
「一人目だ」
水島が言う。
「昨日拾った五人の、一人目に近い」
早乙女の顔が、ぱっと明るくなる。
「やば」
「本当に来た」
俺は画面を見ながら、静かに息を吐いた。
たった一人。
たった一つの返信。
それだけだ。
だが、昨日まで何もなかった場所に、初めてちゃんとした“客”の顔が見えた。
そしてその客は、狙った通りの場所に反応してきた。
「……面白ぇ」
俺が呟くと、水島が小さく頷いた。
「だから言っただろ」
「最初の五人でいいって」
早乙女は、もう半分泣きそうな顔だ。
「こういうの、ほんと嬉しいんですよ」
「まだ早ぇ」
「でも嬉しいです!」
その時、販売ページの数字がまた動いた。
お気に入りが、三から四へ。
そして初めて――売上の欄が一つだけ増えた。
「……あ」
早乙女の声が止まる。
俺も、数秒遅れて理解した。
「売れたのか」
「売れました」
水島が淡々と言う。
だが、その声もほんの少しだけ乾いていた。
「一本目だ」
早乙女が口元を押さえる。
「……え」
「え、待って」
「ほんとに?」
「嘘じゃなく?」
「画面は嘘つかない」
そう言った水島の口元も、少しだけ緩んでいた。
早乙女が、急にこちらを振り向いた。
「真壁さん」
「あ?」
「売れました」
「見りゃ分かる」
「売れました!!」
次の瞬間、早乙女が机を回り込んで俺の肩を掴んだ。
「うるせぇ!」
「だって売れたんですよ!!」
「私の漫画が! じゃなくて、私たちの漫画が!!」
俺はその勢いを振り払えず、少しだけ笑った。
腹の底のどこかが、妙に軽くなっていた。
一本。
たった一本。
大金には程遠い。
組の金にも、手術代にも、まだ何の足しにもならない。
だが、確かに売れた。
誰かが、自分の意志で金を払って、これを買った。
脅していない。
騙してもいない。
無理に沈めてもいない。
欲しいと思ったから、買った。
その事実だけで、胸の奥が妙に熱かった。
水島が椅子にもたれ、静かに言う。
「始まったな」
ああ。
本当に、始まった。
俺は画面の数字を見た。
一本目の売上。
最初の客。
最初の言葉。
それは、小さかった。
だが、やけに重かった。
そしてその重さが、多分――
これから俺たちを、どこか取り返しのつかない場所まで運んでいく。
そんな予感がした。
読んでいただいてありがとうございます!
期待に胸を膨らませを読者がどんな反応をするのかを楽しみしながら物語を作る事が
創作の醍醐味だとは思います。
皆さんは最初にコメントを貰った時どんな気持ちでしたか?
読み終わりましたら上の☆マークを五つ分頂けますと幸いです。
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