新年度を迎えたペレシュ城の住人たちが、桜の下で花見を楽しみ、釣りや日常の出来事を通じて絆を深める。名前の持つ意味や自然の美しさが物語の核心となり、登場人物の成長を描く。
新年度になっても、萌々香と紫鬼は3匹の子犬の世話をしていました。
ふたりは朝起きると、洗面を済まし、子犬たちの散歩に行き、帰って来ると、制服に着替えて朝食を摂りました。
キッチンでは、バスケ部員がひとりふたりと降りて来て、食パンやロールパンをトースターに入れて焼きました。まるくんは、彼女らに目玉焼きとウィンナー、野菜サラダを作り、それを白鬼が手伝ってくれました。
「みんな制服を着るようになりましたね」
佐々木唯さんが娘の星愛麗のパンを焼きながら、感慨深げに言いました。白鬼は、大牛蟹と乙牛蟹の朝食の大きなお握りを作っていました。
朝食が終ると、まるくんは玄関で3匹の子犬たちと一緒に彼女たちを見送りました。
中学生になった萌々香と紫鬼は、女子野球部に入部しました。
同級生の雉原翔太と猿投紘一もJunior High Schoolに入学し、ふたりも野球部に入部しました。しかし男子は人数が集まらなかったので、彼らは女子と一緒に野球をしました。
中学校も高校も人数が少なかったので、クラブ活動は合同で練習していました。
バスケット、野球、アイスホッケー、カーリング部などがあり、吹奏楽部も中学と高校が合同で結成されました。そのほかにインターナショナルが中心となって、Pink Fairy Bandが出来ました。
中学のインタ―スクールは、10名が新たに加わり、その中に双子の姉妹がFairy Twinsという愛称で呼ばれ始めました。双子は色々な楽器を演奏でき、バンドは彼女らを中心に結成されました。
桜が散る前に、まるくんは花見に行く事にしました。
朝早くから、和歌子さんや白鬼、佐々木唯さんも加わって、巻き寿司やお握り、唐揚げ、エビフライ、ブリの照り焼き、卵焼きなどの総菜を重箱に詰めました。
花見の場所は、ペレシュ城の近くのため池に決めました。そのそばに古い桜の木がありました。
ペレシュ城のメンバー以外にも、ジョンとマリーヌ夫妻、スチュアートもやって来ました。彼らはビールとワインを持って来ました。
雉原翔太と猿投紘一も参加してきました。
ふたりは、中学生になってから、寮生活になったので、ペレシュ城に再三来るようになりました。そこで勉強などをするようになりました。
桜花もピークを過ぎて、そろそろ終わりになろうとしていました。
「見てごらん。池が『花筏』になっている」
まるくんがそう言うと、ジョン先生が「はないかだ?」と聞いて来ました。
「池の水面に桜の花が敷き詰められて浮いているでしょ。筏のようになっているので、それを『花筏』と言うんです」
「美しい表現ですね。日本はこういう自然を表す言葉が多いですね。花見とかもそうだけど」
「そうですね。これが地面の上に敷き詰められていたら、『花筵』と言います」
「筵というのは?」
「日本の伝統的な敷物の一種です。竹やわら、藺草などを編んで作られています。床や地面に敷いて、座ったり寝たりするために使われます。農作業や物の梱包にも利用されていました」
「桜の花の敷物ということですね」
「桜だけでもたくさんの言葉があります。桜吹雪とかもよく言います」
「桜吹雪ですか? 雪が降るのですか?」
「いえ、桜花が散る様子が吹雪のように見える事から、この言葉があります。ほかにもこの時期は雨が多いので、桜花雨、花曇り、花冷えとかもあります」
「ひとつひとつの自然現象に名前がついているのですね。不思議ですね。さっきの『花筏』って、花が散って池の水面が汚れているのに、この言葉によって逆に美しいと感じてしまいます」
「そこが言葉の魅力ですね。もし桜泣かせの雨とかいう言葉があるとしたら、嫌な雨でもどこか情緒があるような気がします。また、桜の宴とか桜の席とかいえば花見を想像します」
「自然現象も名前があることで、特別な意味を持つのですね」
まるくんとジョン先生の話を聞いていたマリーヌが言いました。
「そうやって日本人はあまりお金を使わずに楽しみを思いついたのかしら」
「でもヨーロッパ人やアメリカ人もトレイルとか、お金を使わない方法で自然を楽しんでいますね」
「日本でも四国88カ所巡りとかあるわ」
「そうなんです。でも四国88カ所巡りは宗教的な結びつきが強く、単純に歩くことを楽しむというものではありません。山登りも日本は山岳宗教と結びついています。歩いたり山登りしたりして楽しむという文化はありませんでした」
猿投紘一は、オスの子犬のユウキと遊んでいました。
「紘一君は犬が好きだね」
萌々香は、いつも犬と遊ぶ紘一に言いました。
「動物といると楽しいからね」
紘一が木の棒を投げると、ユウキが咥えて戻って来ました。
ほかの2匹、フジとモモは、萌々香のそばで寝ていて、彼女は背中を交互に撫でていました。
「萌々香も犬が好きだね」
雉原翔太がそのようすを見て言いました。
「動物が好きなの。とくにこの3匹は私が育てるって、まるくんと約束したの」
「将来は獣医師になるといい」
「獣医師か! それもいいわね。翔太君は弁護士になるの?」
「そんなの分かんない。親が弁護士だからと言ってもなるかどうか分かるもんか」
翔太は、自分の人生がもっと面白いものになると思って疑いませんでした。雉原翔太と言う名前が世界中に知られるような人間になりたいと思っていました。成績とかも萌々香や紫鬼、紘一に負けるのは許せませんでした。
「将来はなんになるの?」
「わからん! 科学者になって偉大な発明するかも。それでノーベル賞を取る。小説家になってノーベル賞を取ってもいい。紫鬼はなんになるの?」
「紫鬼は人間になる!」
「人間的に成長するってこと?」
「人間になってお嫁さんになる」
「夢がないなぁ。もっと大きなことをすればいいのに」
「紘一はなんになる?」
「まだ決めてない」
紘一は、ユウキを撫でながら言いました。
「将来、こうなりたいってないんだ」
「結局、どこかの会社に入ってサラリーマンになるかも」
「夢がないなぁ」
「今は野球をやって、勉強して、それでいっぱいだよ」
スチュアート理事長は、持参したワインを白鬼に勧めていました。
「白鬼さんはお酒が強いね」
「いくら飲んでも酔わないわ。体質かしら」
「私はすぐに真っ赤になる」
和歌子さんが頬を手で叩きながら言いました。
「和歌子さん、今度わたしも釣りに連れて行って欲しいわ」
「白鬼さんは釣りをしたいの?」
「なんでもやってみたい。いつもどこに行ってるの?」
「倉敷か牛窓とかね」
和歌子さんは、自分で作った巻き寿司を頬張りながら言いました。桜の花びらが時折り、ひらひらと落ちていました。
スチュアート理事長は、ワインを飲みながら、エビフライを食べて、
「和歌子さん、ぼくも一緒に連れて行ってください」
と彼女に頼みました。
「理事長も行きますか? それだったら泊りがけで行きましょうか? まるくんに相談してみるわ」
バスケット部員が3匹の子犬と駈けっこをしていました。
和歌子さんは、まるくんに近づいて、
「まるくん、理事長と白鬼と一緒に釣りに行きたいけど、2日くらいお休みしていいでしょうか?」
「いつでもいいよ。そのときは寮で食事する。バスケ部員も寮で食事させる」
「ありがとう」
和歌子さんは、スチュアート理事長と白鬼のところに戻って伝えました。
「許可を取りました。いつ行きましょうか?」
「土日だね。僕の仕事があるからね」
「前日に出てすこし遊んで、その夜は泊まって、翌日に釣りをします。泊まるところは私がプランを決めていいですか?」
「よろしく頼むよ」
明菜と若菜が、3匹の子犬と競争していました。
「まだよ。待て!」
子犬は3匹ともお座りをしました。
「よ~い、ドン!」
明菜と若菜が猛ダッシュすると、3匹の子犬はスタートが遅れて引き離されましたが、あっという間に追いつきました。そのあとを桜花も追いかけました。モモがみんなと逸れて寄り道をしました。
「モモ、こっちだよ」
桜花は手を叩いて、モモの名前を呼びました。
「モモ、モモ!」
モモは首を傾げながら、桜花のほうを向いていました。
「モモ、こっちだよ」
やっとモモは自分を呼んでいると悟ったらしく、桜花のほうへ走って行きました。
花見はお開きとなり、まるくんは道端に咲いていたタンポポを2、3本取って、凜の墓を詣でました。萌々香や紫鬼、雉原翔太、猿投紘一、3匹の子犬たちも一緒でした。
ペレシュ城の北側の一郭に、前鬼が運んでくれた1mくらいの大きな石がありました。その石には「凛」と刻まれ、彼女の墓石となっていました。墓石のまわりの雑草は、気の利いた式神たちが綺麗に刈っていて、芝生のようになっていました。
まるくんは、タンポポを石の前に供えて、両手を合わせました。
みんながまるくんを真似て手を合わせて拝みました。
「あなたたちのお母さんよ」
拝み終わった萌々香が3匹の子犬たちに言いました。彼らは墓石を不思議そうに見ていました。
川原にあった大石は、ここに運ばれて来て、「凛」という文字を彫ることで立派なお墓になりました。大石も川原にあるあいだは、ただの石として終わるかもしれなかったのが、ここに据えられることで墓石としての使命を帯びる事になったのです。
3匹の子犬たちは、この大石を母親と思ったのでしょうか、さかんに匂いを嗅いでいました。
「さあ! ペレシュ城まで競争だ!」
まるくんが走り出すと、みんなが走り出しました。ペレシュ城には、息を切らしながら、まるくんが最後に到着しました。
スチュアート理事長の休みに合わせて、和歌子さんと白鬼は彼と一緒に釣りに行きました。
土曜日の昼過ぎから出発して、高速を利用して倉敷の下津井に行きました。
途中、鷲羽山で時間を潰して、下津井の通生のペンションにチェックインしました。到着してひと息ついて風呂を済ませると、早めに食事をしました。自家製野菜と肉料理を中心にしたフレンチでした。
「和歌子さん、明日はいつものように朝6時の出発ですね」
初老の男性オーナーが言いました。
「はい、よろしくお願いします」
和歌子さんは、このペンションの常連のようで、釣りに来ると朝早くに出発しました。
「朝6時に出るの?」
スチュアート理事長は驚いて聞きました。
「遅いくらいですよ。朝早いほうがよく釣れるからです」
「どうして?」
「目が覚めてお腹が空いてるとか、朝や夕方は活発に動くとか言われてます」
「夜更かしせずに早く寝たほうがいいね」
そう言いながら、彼はワインを飲んだあと、ウィスキーの水割りを頼みました。白鬼も彼に誘われて、水割りを一気に飲み干しました。
「白鬼さん、もうすこし味わって飲んでよ」
「そうなの?」
「ちびりちびり、舌で味わって飲むんだ」
「面倒だわ」
白鬼はそう言いながら、すこしずつウィスキーを飲み始めました。少し飲んではグラスを傾けてウィスキーを眺め、口の中で転がし、舌でまさぐってみました。そうして飲んでいくうちに、彼女は、水のようだと思ったウィスキーにも味があるのだと理解できるようになりました。
スチュアート理事長は、彼女のウィスキーを味わおうとする仕草がなぜか面白く見えました。
和歌子さんは、お酒は弱かったのですが、チーズやナッツをつまみながら、焼酎の水割りを飲んでいました。彼女は、真っ赤になって「酔った、酔った」と連発しました。
「私は全然酔わない。酔うってどういう事?」
「心臓の鼓動が早くなったり、ぽーっとしたりしない?」
「ぜんぜん。いつもと同じ」
「羨ましいと言おうか、可愛そうと言おうか」
「酒に酔わないという事は、強い人間なんだね」
スチュアート理事長は、感心したように言いました。
「でも味がすこしは分かったような気がする」
そのあと3人は、早めに部屋に戻り、ベッドに入りました。
あくる日、朝6時に出発して、近くの波止場に釣糸を垂れました。
スチュアート理事長は初めての釣りで、わくわくしましたが、いつまで経っても釣れる様子はありませんでした。
「スチュアート先生、竿を上げてみて」
言われるままに、彼は竿を上げました。釣り針には餌が付いていませんでした。
「餌だけ取られたか、外れたみたい」
彼は餌をつけて、また釣糸を垂れました。
スチュアート理事長は、釣りとはなんと退屈なんだろうかと感じました。そっと白鬼のほうを見てみると、彼女は釣糸の垂れた水面をじっと眺めていました。和歌子さんは糸をリールで巻き戻しては、沖にむかって投げ入れていました。スチュアート理事長も真似をして糸を巻き戻して、沖にむかって投げ入れました。
「釣れないね」
彼はぼやきました。
「もうすぐ釣れるわ」
白鬼が慰めるように答えました。
「そうだといいんだけど」
「心配ないわ。もうそこまで来てる」
「来てるって、魚が?」
「もうそこまで来てる」
「海の中が見えるのか?」
「見えない。感じる」
と思う間もなく、白鬼の竿に魚が掛かりました。
「これは重い!」
白鬼は手応えを感じたようで、力を入れると竿がぶるぶると細かく震えました。彼女は気合を入れ直すと、竿をぐいと引き上げ、リールをまわし続けました。
「あ、見えた。大物だよ」
海面に青魚の影がきらりと見えました。
和歌子さんは、タモを持って海面に身構えました。白鬼はさらにグイと竿を引き上げました。素早く和歌子さんが青魚を網に入れ、タモの竿をくぐるように持ち上げました。
「すごい! ハマチだ!」
和歌子さんが驚いて言い、網から取り出すと、巧みにハマチを絞めました。と思う間もなく、和歌子さんの竿にも魚が掛かりました。
「今度は私だ」
和歌子さんは、リールを巻きあげました。白鬼がその魚をタモで救い上げました。同じような魚が上がりました。
「またハマチだね」
スチュアート理事長が言うと、
「いや、たぶんメジロです」
と和歌子さんは言いました。
「同じような魚に見えるけど」
「さっきより大きいからメジロだと思います。60㎝は超えていると思います」
「大きさで名前が違うの?」
「そうです。ハマチより大きいのはメジロです。60㎝を超えるとメジロで、80㎝を超えるとブリです。この魚は大きさで名前が変わるから出世魚と呼ばれています」
和歌子さんはそのメジロを絞めながら言いました。
「面白いね。同じ魚なのに大きさで名前が変わるんだ」
「大きさで味や触感が変わるから、料理方法も変わって来るんです。たぶんそれで名前が変わるんだと思います」
白鬼が竿を入れると、またハマチが掛かりました。
「また釣れたんだ」
スチュアート理事長は、自分のほうにも魚が来ないかと海面を見つめました。しかし次に釣れたのは和歌子さんのほうでした。どうやら海の中には、ハマチの群れがいるようでした。スチュアート理事長は、一度餌の確認をしょうと竿を上げようとしました。その途端、グイッと竿が引き込まれました。ガクンと彼の両腕に衝撃がありました。
和歌子さんも魚が掛かっていて、白鬼がタモを持って待機してくれました。リールを巻き戻し、海面に魚が出て来ると、彼女はなんなく救い上げました。
「おめでとう。ハマチだよ」
白鬼はそう言うと、和歌子さんのほうに行き、ハマチをタモで救い上げました。
スチュアート理事長は、ハマチを両手で抱えると、白鬼に写真を撮ってもらいました。そのあと和歌子さんが彼のハマチを絞めました。スチュアートは、自分のハマチがふたりのとは違うような気がして、まるまるとした胴体に「F」とナイフで傷を入れました。それは初めて自分が釣った魚、Firstを意味していました。彼は自分のハマチにFirstと名付ける事で、世界でただひとつのハマチだと思いました。彼はこの魚を、もう息もしていないこの魚を愛おしいと思いました。
「この世界には、『名前を持たない存在”があふれているんだ』それは、まだ誰にも愛されたことのない、光の当たっていない命なんだ」
彼はその次に釣れたハマチにもSecondという名前を与え、ナイフで「S」と傷つけました。彼はこれで唯一のハマチをふたつ持つ事になったと思いました。
この日の釣果は、スチュアート理事長が2匹、白鬼が3匹、和歌子さんが3匹の計8匹でした。
和歌子さんはそれらを出来るだけクーラーボックスに詰め、車に載せました。さすがにメジロはクーラーに入らなかったので、その場で3枚に下ろして分散して詰めました。
「魚が傷まないうちに帰りましょう」
高速を飛ばして1時間30分でペレシュ城に帰りました。
昼の4時に戻って、和歌子さんと白鬼は釣れたハマチとメジロを捌き、佐々木唯さんの手を借りて寿司飯を作りました。その日のペレシュ城の夕食はハマチパーティとなりました。
ハマチの刺身、焼き魚、握り寿司などがテーブルにところ狭しと並びました。
バスケ部員や萌々香と紫鬼、雉原翔太、猿投紘一も夕食を食べました。スチュアート理事長は、自分が釣ったハマチがどこにあるのか分からなくなりましたが、それでもどこかにあると感じて食べました。それは自分のための特別な食材、料理だと感じました。




