シュヴァルツヴァルトの黒い森から始まるハト時計の旅は、ドイツから日本へと続き、時代の変遷とともに多くの人々の生活に影響を与える。その時計が最後にシズカと出会い、時間の秘密を探る物語。
ドイツ、シュヴァルツヴァルト地方。 スイスとの国境にある人口2000人の小さな街。 シュヴァルツヴァルトとは、黒い森という意味だ。 その黒い森を形成しているのはドイツトウヒで松の仲間だ。この木はたくさん集まると黒く見える。
私はその森の中に何十年も立っていた。たぶん50年くらい経っているだろう。
花の季節には、山のほうではエーデルワイスが咲き、森の中ではハイビスカスやヒマワリが咲いた。ワタリガラスやツグミが私の枝で羽根を休める。秋になると、私の松ぼっくりを目当てにリスがやって来た。毎年のようにその光景を見て来た。
小川のせせらぎも何年も聞いていた。いつも同じように聞こえるせせらぎだけど、春の雪解けには勢いが良かった。暑い日差しの夏、厳しい霜の降りる日、私は黙って耐えていた。
私の仲間たちはバイオリンやピアノの響板に使われることが多い。厳しい冬を何年も乗り越えると、木目が詰まって響きが良くなるらしい。それが楽器に使われる理由だ。スタインウェイのピアノの響板も、私たちの仲間が使われているかもしれない。
私はできればバイオリンになりたい。ストラディバリウスのような名器になって、美しい音楽を奏でることが夢だ。想像するだけで胸が高鳴る。
私がモーツアルトのバイオリンソナタや、メンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトを奏でる姿を想像してほしい。なんてロマンティックで切ないんだ。バッハのG線上のアリアも素敵だ。
やがて私は木材にされる年ごろになった。切り倒された後、私は放置された。乾燥させるためだ。乾燥させると、良い木材になるらしい。私は未来への期待に胸を膨らませながら、じっとその場で乾燥されるのを待っていた。待つことには馴れていた。
1年もすると、私は板材になった。なんという綺麗な木目なんだ。自分でもうっとりするほど綺麗な木目だった。バイオリンにすると、きっといい音が出るに違いない。
板材になっても、私はひたすら乾燥を続けた。私は、また夏を感じ、秋を感じた。そろそろ冬の足音が聞こえるころ、ひとりの青年がやって来た。
青年は、板材を順番にひとつひとつ入念に見ていた。
やがてその青年は、私の前に立った。私はその青年に買われた。青年はきっと、私の美しい木目に惹かれたのだ。私の出番が来た。私は立派なバイオリンになろうと思った。
だが青年は、バイオリン製作者ではなかった。彼は時計の技術者だった。長い年月、時計技術者として修業して、やっと一人前になった。独立して自分の工房を持った。私は、彼が独立して初めての時計となるらしかった。バイオリンになれないのは残念だが、彼の初めての時計となるのは少し誇らしかった。
シュヴァルツヴァルトの冬は長い。農作業が出来ない農民は、時計や木工の仕事をして冬を過ごした。むかしこの近くで銀が取れていた。農民の多くは、その工具などを作って腕を磨いていた。銀が取れなくなって、時計や木工の仕事をした。
閉じ込められた工房で、私は香りを放った。
私は、細分化され、小さな板切れになっていた。青年の作業台には、時計の設計図が広がっていた。からくり時計のようだった。その設計図通りに、私は用意されていた。その板材を組み立てていく。
箱のようだった。その上に屋根を取りつけて、ダークブラウンの塗料とニスを塗った。箱に取りつける彫刻のような飾りも、塗料をニスが塗られた。
青年は、私の心臓部、時計の機械、ムーブメントを組み立てた。大きい歯車、小さい歯車が組み合わされていった。手作りの可愛らしいハトが組み込まれた。
その機械を、屋根のついた箱に収めた。
私は、ハト時計だった。
青年は、針を動かして、鳩が飛び出すのを確かめていた。ふいごから空気が送られて、「ポッポ、ポッポ」とハトが鳴いた。
細長い松ぼっくりのついた長い鎖を箱の下に取り付けた。
青年は、完成した私を上から下から眺めて、満足していた。箱の裏に「001」と掘り込んだ。私は青年の第1号のハト時計になった。
2号、3号、・・・10号とハト時計の仲間は出来ていった。
長い冬が終わりになると、村人が青年の家を訪れた。私は10台の仲間と共に馬車に乗せられた。都会に売りさばくためだった。
フライブルク・イム・ブライスガウという街で、村人とトラックに乗った。シュトゥットガルトに着くと、仲間たちは、汽車に乗せられて、ハンブルグ、ドレスデン、ベルリンへと別れて行った。
私はハンブルグに行き、古風な時計店に飾られた。
太い柱や梁がアンティークな味を出している店だった。そこには柱時計や置き時計が飾られ、私は唯一のハト時計だった。
春が過ぎて夏になった。
時計店の壁で、私は時を紡ぐこともなく、ただ飾られていた。
忘れもしない。1925年7月18日、ヒトラーが自身の思想をまとめた『我が闘争』が出版された日だ。
ある日本人が時計店にやって来た。
その日本人は繊維卸問屋だった。その傍ら、ハンブルグでドイツの雑貨を買いつけ、日本で売っていた。そのころ日本の製品は粗悪品だった。ヨーロッパの商品は、「舶来物」として品質も値段も高かった。
その日本人に、私は買われた。
丁寧に梱包され、私は船に乗せられ、長い航海の末、神戸という港についた。
私の居場所は店頭ではなかった。その日本人の本宅ではなく、芦屋の別荘の一室に飾られた。
広い敷地に広い庭、よく剪定された植木、西洋風の大きな建物、どっしりとした門柱、玄関までの大きな敷石、この家が豊かな資産で作られていた。
格子天井に広い部屋、暖炉があった。
古伊万里の大きな壺、古田織部の花瓶、輪島塗の文箱やテーブル、藤島武二の水彩画、竹久夢二の版画とかが飾られ、私はそのひとつに数えられた。
この別荘にやって来る人たちはみんな日本人だった。私は家族に気に入られ、とくに小さな孫娘に愛された。孫娘はまだ言葉を話せなかった。その孫娘がいると、私は得意になって、ハトを飛び出させた。孫娘は、私を指さして、ニコニコとほほ笑んでくれた。
普段、私は独りだった。それでも私は時を告げ続けた。松ぼっくりの重りのついた鎖を下まで引き下げると、8日間、動かすことが出来た。8日間、家族がやって来ないと、私は止まった。「カチカチ、、、カチ、、、カチ」と音がしなくなった。それが暫しの休憩だった。でも寂しかった。底なし沼に落とされるような寂しさだった。
週末になると、家族がやって来た。孫娘もやって来た。
家族の誰かが、私の松ぼっくりを引き下げてくれ、針を動かして時間を合わせてくれた。また私は動いた。時間になると、ハトを飛び出させて時刻を告げた。孫娘は、キャッ、キャッと喜んでくれた。その姿を見るのが、私は嬉しかった。
私は、時を刻むことに張り合いを感じた。長い針が「Ⅻ」に来るのを、今か今かと待ち望んだ。だが時刻は正確に刻まなければならない。そのジレンマに、私は孫娘を喜ばせたいと思って悩んだ。
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が47歳で崩御された。
ラジオは、ニュース、天気予報、時報しか放送されなかった。歓楽街も自粛された。繊維業界も買い控えが起こった。浮世は大晦日も正月も静かだった。私は社会とは関係なく、時を告げた。ハトの泣き声は、閑散とした部屋に普段よりも大きく響いているようだった。
家族たちが別荘に来て、静かに年末年始を過ごした。お節もいつもの年よりも質素に見えた。
静かな年が明けて、年号は昭和2年(1927年)になって世間が動き始めても、景気はよくならなかった。
第一次世界大戦で崩壊したヨーロッパの産業が復活してきて、アメリカや日本の商品が次第に売れなくなった。繊維産業はとくに打撃を受けた。卸問屋の主人、私を買った人の表情がだんだん険しくなってきた。主人は、ドイツに行くことがなくなった。私は、冷静にその変化を見ていた。
1929年、アメリカの株式が暴落し、大恐慌が始まった。日本もその影響を受け、農家は苦しみ、東北では子供の身売りが相次いだ。
日本の米は輸出先を失い、過剰在庫が農家を苦しめた。
世間は着物などを買う余裕がなくなった。
卸問屋の主人の声が大きくなってきた。怒鳴り声も聞こえるようになった。家族のあいだは険悪になって、争いも見る日もあった。
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が始まった。
当初は提灯行列でバンザイが連呼していた。新聞が日本の勝利を報道して、どこの売店でも、売り切れの状態になっていた。
戦況はだんだん悪化した。1945年3月13日から大阪大空襲が起こった。以後も何度も空襲があって、船場の本宅が焼けてしまった。
家族は焼き出されて芦屋の別荘に移って来た。
週末を過ごす静かな避暑地だった芦屋は、同じように焼け出された船場の商人たちが次々と移り住むことで、次第に高級住宅地へと変貌していった。
私は孫娘が無事だったので安堵した。もし彼女が空襲で亡くなっていたら、あるいは火事で火傷を負っていたら、私はなんのために時を告げるのか深く悩んだに違いない。
彼女はすこし大人になっていて、私の重りを引き下げてくれるようになった。
「いつも時間を教えてくれて、ありがとう」
時間を教えて、感謝されたことは初めてだった。
毎日毎日、彼らの賑やかな声が聞こえ、私も休むことなく時を告げた。私は孫娘を温かく見守った。近所の人たちも船場を焼き出され、芦屋に移ってきて、街が賑やかになって来た。
まもなく終戦になった。
店舗を焼かれ、食べる物もなく、家族たちは生活に困って来た。私は、孫娘がひもじい思いをしているのではないか、と心配になった。
古伊万里の大きな壺が売られた。古田織部の花瓶、輪島塗の文箱やテーブルも売られた。藤島武二の水彩画や竹久夢二の版画も売られた。
その代わりに、お米や野菜などがすこし増えてきた。
私も古物商に売られ、ぞんざいに扱われてトラックに乗せられた。その時についた傷が今でも残っている。孫娘が私を見ていた。私はひと言なにかを言いたかった。「元気でね」とも言えずに別れなくてはならなかった。このときほど私は、言葉が言えないのを悲しく思った事はなかった。
私は古物商の店先に飾られた。
高度成長期になって、みんなが中流になると、中古の私は見向きもされなかった。バブルのときも私は無視されていた。新しくて豪華な物が当たり前の風潮になっていた。私は古物商のあいだで、たらい回しにされ、時を告げる事もなかった。
私は長い事、眠ったままだった。
いつの間にか私は古都京都にいた。年号は平成(1989~2019年)になっていた。
京都では、教王護国寺、東寺と言われる弘法市に出品された。弘法大師は3月21日に入定(にゅうじょう=死ぬこと)されたので、毎月21日に市が立てられた。
私は、毎月21日になると、弘法市に出された。それは私が不人気で売れ残っていたからだった。いつまで私は、この蚤の市のようなところに出されるのだろうかと不安になった。2度と時を告げる事もなく、朽ち果ててしまうのだろうか。
付喪神という物を知った。
器物が100年経つと、付喪神になれると知った。付喪神になれば、私はあの孫娘と会う事が出来そうだと思った。もし、孫娘と会ったら、「元気にしている?」、「今はどうしている?」と聞いてみようと思った。私はそれだけが聞きたかった。
ある日、弘法市で30代くらいの男性が、私を見詰めていた。店主がその男に話しかけていた。だがその男は立ち去っていった。
数時間が経って、その男が戻って来た。また店主が話しかけた。男はしばらく考えていた。店主がさかんに話しかけていた。男は意を決したように財布を取り出して、店主にお金を渡した。私は、その男性に買い取られたのだった。
その男は、よく引越しをした。
私が買われた当初は、大阪だったが、神戸、京都、名古屋と移って、やがてその男の故郷に戻って行った。不可思議だが、私はそのあいだ梱包されて、段ボールに仕舞われたままだった。
故郷に戻って、私は梱包から解かれて、壁に飾られた。
私は緊張した。永いあいだ寝ていたので、うまくムーブメントが動くだろうか、ハトがきちんと飛び出るだろうか、時間は正確に動かせるだろうか、私は不安に襲われながら、なんとしてもこの男の期待に添えたいと頑張った。
男は、松ぼっくりのついたチェーンを引き下げた。
歯車のひとつひとつに叱咤激励した。油も差してない彼らには過酷だと思ったが、私の価値を認めてくれた男のために、なんとしても動かしたかった。
男のためだけではなかった。
私は、100年生きて付喪神になり、孫娘に会わなければならなかった。ここでムーブメントが動かなかったら、私は捨てられ、孫娘と会う事は諦めなければならなかった。
歯車たちは、小さな悲鳴を上げながら、動き始めた。
チックタック、チックタック、と動き始めた。私は爽快だった。不安は払いのけられた。
それ以来、その男のキッチンで、私は何年も時を刻み続けた。
いつのころだったか、何年か過ぎて、そのあいだ私は、オーバーホールに出されて、ムーブメントの部品も新しくされ、正確な時を刻めるようになっていた。
年号は令和(2019年~)になっていた。
スズメたちがキッチンに来るようになった。スズメは4羽だった。そのうちにある1羽が私の屋根に止まるようになった。屋根に止まるのは、いつも同じスズメだった。
そのスズメは、不思議な事をやり始めた。私に触れる事もなく、時計の針を動かした。
針が動くとき、私は軽い眩暈を起こした。初めての事だった。私の時間に対する思い、観念が足もとからグラグラと壊れていく気がした。私は正確に時間を刻み続けてきて、それが天職だと思っていた。このスズメの時間は伸びたり縮んだりしていた。
時間は伸びたり縮んだりするのか?
新しい発見だった。
夜中に、まるくんと犬のバーニーズマウンテンが寝静まった時、私は声を聞いた。
-――あなたを「時間の仲介者」にします。どうかスズメの力になって下さい。
その声は澄んでいて、高貴な感じだった。
-――あなたの力添えで世界は変わります。あなたの願いも叶います。
私は言葉に出来なかったけれど、軽くうなずいて了承した。
そのスズメは、男とよく話していた。
その話の内容から、私は彼らの名前、まるくんとシズカだと理解し、犬は凜だと知りました。
今日も、シズカがハト時計にやって来て、時間の操作の練習をした。彼女は屋根の上に止まって頑張っていた。私はその力を助けるために、ムーブメントの歯車たちを叱咤した。
屋根の上から念波が来た。
私はさらに強い念波を送り続けました。
しかし、思うように時間の操作は出来ませんでした。時計の針は動いたけれど、自分の意のままになりませんでした。掃除をしていたまるくんが時々様子を見に来ました。
「シズカ、少し休憩したらどうだ」
「そうするわ、まるくん。喉が渇いた。水を頂戴」
私が食卓に飛ぶと、まるくんは小さな器に水を入れて持って来てくれました。
「シズカ、頑張っているね」
凜が感心したように言いました。
「頑張らないとね。これが私の役目だから」
「無理をせずに頑張ってね。私も頑張らないと」
「凜はなにを頑張るんだ」
「私にだっていろいろあるわ。まるくんが知らないだけよ」
「ぼくも頑張るかな」
「まるくんは何をがんばるの?」
「とりあえず今日の掃除だ」
まるくんと凜が休憩を終えて、掃除に取り掛かると、私も時間の操作の練習にハト時計の上に飛んで止まりました。
私は、さっきより強力な念波を送って、時計の針を動かそうとしました。微かに歯車たちの悲鳴が聞こえてきました。
「ごめんね、頑張ってね」
その歯車たちに謝りました。
私は、時計の針を動かそうとしただけではありません。時間の操作の練習をしただけでもありません。時間の秘密を探ろうとしていました。練習をすることで、その秘密に辿り着けそうな気がしていました。
ボヤっと映像が見えてくるのは、その証拠かもしれません。時間を動かすたびに、なにかしらの映像が見えてきました。どういう事かはわかりません。でも関係がある事はたしかです。
その映像がだんだん鮮明になることで、私は練習の励みとする事が出来ました。
あと少しです。あと少しで、時間の秘密が分かるはずでした。




