ジョンは、人生を変える重大な決断を胸に抱き、マリーヌへのプロポーズを計画。フレンチレストランでのディナーショーを舞台に、サプライズとともに愛を告白する。
ジョンは、鏡を見て髪のセットをチェックし、口の中に匂い消しスプレーを吹き付け、オーデコロンを耳もとに着けました。クリーニングから戻って来たウィングカラーのワイシャツを着、ワイン色の蝶ネクタイを結びました。黒のスーツを着て、身なりをチェックすると、真っ赤な薔薇の花束を持って車に乗りました。車は一昨日洗車してワックスも塗っていました。
花束を後部座席に載せ、エンジンを掛け出発しました。
もう夜は始まっていました。
ムーブメントを照らす街灯が後ろへ後ろへと過ぎて行きました。ジョンは、ふと胸騒ぎを覚えました。運転していてもそれが気になっていました。
次の瞬間、血の気が引きました。
「まさか!」
ジョンは、車を運転しながら、ポケットをまさぐりました。車を道路の脇に停めて、後部座席を確認しましたが、そこには花束があるだけでした。
ジョンは大事な物を忘れていたことに気がついて、慌てて家に戻りました。
家に戻ると、エンジンも切らずにドアを開けて家の中へと駆け込みました。
ローチェストの上段の引き出しを開けると、小さなケースが目に飛び込んできました。
「危ない」
その黒いケースを手に取ると、ジョンは深く息を吸い込みました。指や額が汗ばんでいるのに気づき、洗面所に行って、タオルで汗を拭きとりました。
「これを忘れるなんて」
彼は自分を窘めながら、ケースをそっとポケットに滑り込ませました。そこにある重みを確かめるように、何度か軽く叩きました。
ドアを閉める前に、もう一度ポケットに手を入れ、ケースの存在を確かめました。確かに、そこにありました。
「今夜がすべてを決める」
そう呟くと、ジョンは静かに息を整え、もう迷いはないと自分に言い聞かせながら、マリーヌの家へとハンドルを切った。
ジョンはスピードメーターに目をやり、「安全運転、安全運転」と逸る気持ちを抑えました。ここで事故をしては、なにもかもが台無しになると思いました。
マリーヌの家に着くと、ジョンは後部座席の花束を手にドアの前に立ちました。胸いっぱいに空気を吸い、吐き出し、また空気を吸って吐き出して、ドアをノックしました。
マリーヌは、ジョンの車が家の前に来ていたのを察していました。ドアのノックを待っていましたが、思ったよりも時間が過ぎていたので、すこし待ちくたびれていました。ノックの音がして、マリーヌはすぐには出ずに、時間を置きました。首を長くして、ジョンを待っていたと思われたくありませんでした。鏡を見て自分の姿をチェックして、ドアに向かいました。
ジョンは、ノックの音が聞こえなかったのかと思って、またノックしようと思ったとき、ドアが開きました。
「ハイ、ジョン。中に入って」
「ハイ、マリーヌ」
ジョンは家の中に入ると、
「今日は綺麗だよ」
と褒め、花束を渡しました。
彼女は、真っ赤なドレスを着ていました。
「ありがとう、ジョン。あなたも素敵よ」
マリーヌは花束を受け取りながら言いました。その花束をキッチンに置くと、彼女はエントランスに戻って、ハンガーラックのコートを取ろうとすると、ジョンはそのコートを先に取り、うしろから着せてあげました。ジョンは、彼女をエスコートして車のドアを開けて乗せると、予約したフレンチのレストランに向かいました。
レストランでは、ディナーショーが行われる予定でした。
高井凛々子というバイオリニストのソロコンサートで、バッハなどの小曲が演目でした。
メニューを注文すると、ウェイターがワインを持って来て、ふたりのグラスに注ぎました。
「駅伝とバスケの優勝、おめでとう」
「ありがとう」
ふたりは軽く乾杯をしました。
「バスケはともかく、駅伝で優勝するとは思わなかったわ」
「メンバーが揃っていたからね。4人がとんでもないフィジカルを持っていたから、なんとかなると思った」
「まさかアマンディーヌが走るとは。彼女は私に似て持久走は苦手なのに」
「君は持久力がなかったからね。でも予選でジャクリーンが走っていたし、全国大会はアマンディーヌで勝負しょうと思っていたんだ」
「あなたのお陰で、アマンディーヌもいい経験をしたわ。彼女があそこまで出来るなんて。あなたには感謝している」
「感謝しているのはぼくのほうだ。駅伝の2日後にはバスケの試合だったから、たいへんなスケジュールだった。とくにアマンディーヌには感謝している」
「反響もすごかったわね」
「テレビで放映されたからね。ペレシュ城のまわりには男の子のファンがちらほら来るようになった」
「彼らが私の家のまわりで盗撮していたら、とてもじゃないけど住めないわ。アマンディーヌがペレシュ城に居て助かるわ。すこし淋しいけどね。でも親離れが早いと思えば諦められるわ」
「スチュアートの話だと、ほかの局からもオファーが来ているそうだ。みんな可愛いから、ビジュアルとして視聴率が取れるんだろうね」
「アマンディーヌにはモデルのオファーが来たわ。ジャクリーンも来たらしい」
「すごいね」
「いまや人気者よ」
オードブルがふたりの前に配膳されました。ウェイターがワインを注いでくれました。
ジョンは、会話が途切れることなく続いているのに、安堵感をおぼえました。話題をいくつか用意していましたが、そのマニュアルを使う事がないのを願っていました。
「そうそう、今度は女子野球と女子アイスホッケーを作るそうね」
「スチュアートの依頼なんだ。彼はまるくんに頼まれたらしい」
「メンバーは集まっているの?」
「テレビの反響があったから、集めやすくなっているんだ」
「女子ばかりなのね」
「そうなんだ。女子野球や女子アイスホッケーとか、日本ではまだマイナーだから、発展させたいという気持ちがあるみたいだ。それにまるくんは女性には産む力があると言って、Pink Fairy High Schoolやこの街の発展には欠かせないと思っているらしい」
「歴史の陰に女あり、というくらいだから、そうかもしれない」
「猫と女は呼ばないときにやって来る」
「なにそれ?」
「よく知らないけど、ヨーロッパの古い諺みたいだ」
「そうなんだ。どこの国なの?」
「詳しくないよ。むかし誰かから聞いたことがある程度だ。その続きをぼくが勝手に作った」
「へぇぇ、どんなの? 聞きたいわ」
「猫と女は呼ばないときにやって来る。犬と男は呼ぶとすぐ来る、ってね」
彼女は、テーブルを軽く叩いて大笑いしました。ジョンは彼女を笑わせた事で、成功したと喜びました。
「失礼。それであなたも呼ぶとすぐ来るの?」
「相手に因るね。君が呼んだらすぐ行くね」
「OK! 水道管が破裂したらすぐ呼ぶわ」
「任せてくれ、レインコートと長靴ですぐ行くよ」
バイオリニストの高井凛々子が現われました。そのあとをピアノ伴奏者の女性が現われ、椅子に座りました。
「本日はディナーショウにお越しいただき、ありがとうございます」
彼女は、挨拶をしたあと、ピアノ伴奏者とバイオリンの音合わせをして、
「最初は、バッハのG線上のアリア、あといくつかのカンタータを演奏します」
と言い、伴奏者に目で合図をして演奏を始めました。
ウェイターがポタージュスープを運んできました。その次にメインディッシュのカモ肉料理が出されました。
「本日のメインディッシュは、鴨肉のローストでございます。こちらには、ラズベリー、ブルーベリー、カシスを使用した特製のソース・オ・フランボワーズを添えております。このソースは赤ワインとバルサミコ酢で風味を深め、鴨肉のジューシーさとベリーの酸味を絶妙に引き立てております。ぜひ、このハーモニーをお楽しみくださいませ」
言い終わるとウェイターは、マリーヌとジョンのグラスにワインを注ぎました。
「酸味がいい感じになっているわ」
「そうだね。ワインとの相性もいいね」
「このレストランは、よく来るの?」
マリーヌは、探りを入れるように聞きました。
「ネットではよく来ていた。実際に来るのは初めてだよ。日本人は独りでもレストランに来るけど、ぼくたちは独りでは来ない。ずっとチャンスがあれば、と思っていた」
「そのチャンスを私にくれたのね」
メインディッシュが終ると、バイオリニストの演奏が終わり、高井凛々子と伴奏者は小休止に袖のほうに退出しました。
ジョンは、「失礼」と言って、袖のほうに行きました。
高井凛々子を追いかけ、呼び止めました。
「すみません」
彼女は、振り向き、ジョンを見て、「なにか?」と訝しげに返事をしました。
「お願いがあるのですが」
ジョンは、ポケットからある物を出して、彼女に見せました。
「わぉ! ひょっとして?」
「そうです。今日することに決めました。厚かましいのですが、なにか特別に曲を弾いてもらえませんか? 余分な演奏料はお支払いします」
「サプライズですね。代金は結構です。なんの曲がいいかしら」
高井凛々子は、伴奏者に尋ねました。
「グノーのアベマリアは? それならiPadで楽譜が出るわ」
「それで行きましょう。その曲なら暗譜してるわ。合図として、あなたのテーブルで演奏します」
「ありがとうございます。なんとお礼をいっていいか」
「気になさらないで。こういうサプライズなら大歓迎です」
ジョンが席に戻ると、ウェイターが小作りの可愛いケーキをいくつかトレーに載せてやって来ました。
「デザートでございます」
マリーヌは、「どれも可愛くて美味しそうだわ。ぜんぶ食べたいくらい」と言いながら、モンブランを選びました。ジョンは、チーズケーキを選びました。
「お飲み物は如何致しましよう?」
「コーヒーをお願いしますわ」
「ぼくもコーヒーで」
高井凛々子が、入って来て、演奏する前に、ジョンを見つけると、軽く目配せしました。
「モーツァルトのフィガロの結婚から、『恋ってどんなものかしら』です」
ほのぼのとする曲に、マリーヌの肩がリズムに合わせて左右に揺れていました。それを見て、ジョンは、今日のレストランの選定は大成功だと思いました。
そのあとも、曲が続いて、ジョンは何度もポケットに手を入れて、物があるのを確かめました。手が汗ばんでいるのを感じて、テーブルの御絞りで手を吹きました。バイオリニストがいつ、どんな形で実行するのか、不安になりながら、彼女から目が離せませんでした。
何曲目かで、バッハ=グノーのアベマリアが始まりました。
高井凛々子は、演奏しながら、ジョンとマリーヌのテーブルに近づいて来ました。彼女はジョンに目で合図を送りました。
ジョンは、ついにその時が来た、と自分がセットしたのに逃げ出したい感情に襲われました。
目の前で、高井凛々子が演奏しています。もはや後戻りできませんでした。
席から立ちあがると、ジョンは彼女のほうに向かい、その前で跪きました。
ポケットから指輪を出し、情けないくらい震える手で蓋を開け、
「Will you marry me? (結婚してくれる?)」
と彼女に言いました。
「わぉ!」
マリーヌは、口に両手をあてて、驚きました。
彼女は、いつかこういうときが来ると予想していましたが、それが今日だとは想像していませんでした。
レストランのお客がみんな立ち上がって、拍手していました。レストランのスタッフも拍手し、シェフも厨房からやって来て拍手していました。
ジョンは、恥ずかしくなって、顔が真っ赤になるのが分かりました。もしここで断られたら、と思うと、恥ずかしくて死にたい気持ちになりました。
「こんなシチュエーションなら、断れないわ。OKよ」
ジョンは、立ち上がってガッツポーズを決め、マリーヌにキスをしました。
拍手が一層激しくなり、レストラン中に響きました。
代行運転で、マリーヌを送る途中、
「ぼくはあの頃、君がいたからこそバスケを続けられたんだ」
とジョンは告白しました。
「そうなの?」
「ぼくは小さくて、全然目立たなかったからね」
「そんな事はなかったわ。ポイントガードのジョンはバスケもうまくてみんなは一目置いていたわ」
「でも、小さい事が逆にぼくのモチベーションになったんだ。君に追いつきたくて、いや、君に認められたくて、必死に練習したんだ」
「そんなこと、考えたこともなかったわ」
「だんだん君のバスケがうまくなり、チームのみんなの目が君に向いていた。君はぼくなんか見向きもしかなった。それが悔しかった」
「そうだったんだ。あの頃はバスケがうまくなりたい一心だったわ」
「ぼくにとって君は特別な存在だった。好きだったんだ。いつも明るくて、強くて、自分の道を進んでいた君が本当に好きだった。お互いに大学に行って、君と離れ離れになり、その感情も忘れていたんだけど、偶然日本で会って復活したんだ」
「私もスチュアートとジョンが現われたとき、びっくりしたわ。日本なのよ。アメリカならまだ偶然会う事もあるけど、この日本の、日本って言ったって広いのに、岡山の小さな町で会うなんて信じられなかったわ」
「娘のアマンディーヌを見ていると、むかしの君を思い出して仕方がなかった。ぼくの気持ちが子供のころに戻ったんだ。君への想いもね」
「あの頃が懐かしいわ。あの頃、日本に来るなんて思いもしなかったわ」
マリーヌは、そっとジョンにもたれかかりました。ジョンが彼女の手を握ると、強く握り返されました。
「ぼくはバスケット選手になるのが夢だったから、日本に住むなんて少しも考えていなかった」
「私たちは大金持ちになれないかもしれないけど、幸せになれそうね」
「幸せにするさ」
代行運転がマリーヌの家に着きました。
ジョンは、素早く車から降りて、彼女のドアを開けました。
マリーヌは、車から降りると、
「私を独りにする気?」
と言いました。
「いつも一緒だよ」
ジョンは、代行運転に予定変更を伝えました。
「ここでいい」
彼らにお金を渡し、帰らせました。




