【レティシア視点⑥】私の居場所
レティシアたちがヘルマン領に帰ってから十日ほど経った頃、エルハルトが帰ってきた。
レティシアは窓から外を覗いていた。
馬の蹄の音とエルハルトの姿が遠くに見えたと思ったところで、廊下を走っていく足音がした。
(ラズベルト様ね)
レティシアは、その足音を聞きながら少し微笑んだ。
あんなに急いで向かえるのは、それだけ会いたかったからだろう。
「おかえり、エル!」
エルハルトを迎えでたラズベルトの声が、弾んでいた。
エルハルトとラズベルトと話をしていると、侯爵夫人が玄関から飛び出してきてエルハルト抱きしめた。侯爵も、その後ろで柱にもたれてホッとした顔で眺めている。
(ああ、これでみんな一緒だわ)
レティシアは、その光景をしばらく眺めていた。
***
夕食の席は、にぎやかだった。
エルハルトが「毎日、石牢の中でパンを眺めながら、ラズのお菓子を思い出してた」とうんざりした顔で言うと、ラズベルトが「大げさな」と呆れたように返している。
何でもないような表情で話をしているエルハルトだが、救出されたときは少しやつれた顔をしていた。石牢の中でも身体を鍛えていたと聞いたが、過酷な環境だったのは察することができた。
(本当に、エルハルト様が無事で良かったわ)
こうして二人のやりとりを見て心から、そう思った。
その後、エルハルトがラズベルトの過去を次々と暴露し始めた。
「お茶に誘っただけで顔を赤くしてたよな」
「しかも、レティシアさんが型抜きしたクッキーは『僕のだから』とか言って……」
そんな暴露話に、レティシアは耳まで熱くなるのを感じた。
(型抜きしたクッキーは『僕のだから』……って)
全く知らなかった。
ラズベルトがそんなことを言っていたとは。
「ラズベルト様……そんなことを言っていたのですか」
「……言ってません」
「言ってたよ」
エルハルトが、にこにこと言う。
(嬉しい、と思ってしまうのは、おかしいかしら)
恥ずかしくて俯いてしまったが、胸の中は温かかった。
それからも、エルハルトはラズベルトを揶揄いつつ、楽しそうに話をしていた。
ラズベルトも揶揄われながらも、楽しそうに笑っている。
王都でどれほどのことがあっても、この二人は変わらなかった。
それが、何よりも嬉しかった。
***
数日後、ラズベルトから「散歩に行きませんか」と誘われた。
「前に領地案内をした丘です。春になったら花が咲くって話をした……」
レティシアは、少し目を見開いた。
(覚えていてくださったのね)
「もう、咲いているのですか」
「はい。今年は少し早くて」
「行きたいですわ」
即答してから、少し恥ずかしくなった。でも、撤回するつもりはなかった。
坂を登りきると、斜面一帯に色とりどりの野花が広がっていた。
「まぁ……」
思わず声が漏れた。
白、黄色、薄紫。風が吹くたびに、波のように揺れる。
(綺麗だわ)
景色だけではなかった。隣に、ラズベルトがいる。その当たり前が、今は特別なものに感じた。
二人で斜面に腰を下ろした。
ラズベルトから、何かを言いたげな、迷うような気配を感じた。
(どうしたのかしら?)
レティシアは、そっと待った。
「レティシアさん」
「はい」
「僕はあなたが好きです」
レティシアは、息を止めた。
花を揺らす風が、二人の間を通り過ぎた。
「婚約者だから、ではなく。レティシアさんだから、好きなんです」
(ああ)
胸の奥で、何かが溶けていくような感覚があった。
ラズベルトが続けた。レティシアのことを少しずつ知っていって、かけがえのない人だと思うようになったと。一緒にいると楽しいと。笑顔を見ると心が温かくなると。
その言葉のひとつひとつが、胸の中に落ちてきた。
(婚約者だから、ではなく……私だから)
王太子の婚約者だった頃、レティシアに向けられる言葉のほとんどは「公爵令嬢だから」「王太子の婚約者だから」という理由がついていた。レティシアだから、という言葉をくれる人は、家族以外にはほとんどいなかった。
だから、目が潤んだ。
「……すみません、イヤでしたか?」
ラズベルトが、心配そうに言った。
「そんな、わけありませんわ」
「目が潤んでいます」
「……っ、気のせいですわ」
顔を背けた。
泣いていない。泣いていないけれど、顔を見せられなかった。
(私も、好きですわ。ずっと前から)
深呼吸して、前を向いた。
ラズベルトが、まだ少し心配そうな顔でこちらを見ていた。
「……はい」
声が小さくなったが、はっきりと言えた。
「もちろん、一緒にいますわ。私も、ラズベルトの事が好きですもの」
ラズベルトの顔が、安堵したような、嬉しいような、照れているような、いくつもの感情が混ざった表情になった。
(そんな顔をするのですね)
レティシアも、つられて笑ってしまった。
ラズベルトが、そっと手を取った。
今度は、迷わずに握り返した。
風が吹くたびに、野花が揺れた。
(この景色を、ずっと覚えていようと思った)
***
屋敷に戻ると、エルハルトと鉢合わせた。
二人の顔を見て、ニヤリとした。
「……言ったんだ」
(もしかして見ていたのかしら)
あまりにタイミングが良いため、そう思ってしまった。
レティシアは、耳が熱くなるのを感じながら、前を向いたまま黙っていた。
ラズベルトが「たまたま通りかかっただけだよな?」と聞くと、エルハルトが「……たまたまだよ」と答えた。
全く悪びれない顔だった。
「おめでとう、二人とも」
エルハルトが、心底嬉しそうに祝福してくれた。
その夜、レティシアは自室の窓から星を見た。
星が、変わらず瞬いていた。
婚約破棄されたあと、レティシアは修道院に行くことを考えていた。
誰かを信じることに疲れていて、新しい場所で新しい関係を築くことなど、もう考えられなかった。
それがいつの間にか、この場所が帰る場所になっていた。
この家の人たちが、大切な人になっていた。
(ここが、私の家ですもの)
あの星空の夜にラズベルトに言った言葉が、今もそのまま、自分の中にある。
揺るがない言葉だった。
レティシアは、窓をそっと閉めた。
星が、変わらず瞬いていた。




