番外編 使用人たちの会話
ヘルマン家に仕えて十五年になるマルダは、厨房の隅で一息ついていた。
夕食の片付けも終わり、屋敷はようやく静かになっている。今夜の夕食も賑やかだった。ラズベルトが作ったデザートをエルハルトが一人で平らげそうになり、レティシアが困ったように笑っていた。
「マルダさん」
声をかけてきたのは、レティシア付きの侍女、エマだった。王都から共についてきた娘で、物怖じしない性格が気に入っている。
「お疲れ様です。少し休憩にしませんか?」
「ええ、そうですね」
今では、仕事終わりにお菓子を食べながら雑談する仲になっていた。
「レティシア様、随分と変わられましたよね」
エマが、しみじみとした顔で言った。
「ヘルマン家に来たばかりの頃は、ずっとお部屋にいらっしゃって……心配していたんです」
「そうでしたね」
マルダも、あの頃のことを覚えている。
ラズベルトの婚約者として王都からやって来たご令嬢。
美しいが、物静かで表情の変化に乏しく、食事以外の時間は部屋にこもり切っていた。
王都では言われのない理由で婚約破棄されたのだと聞いた。それから時間をおかずしてラズベルトの婚約者として、ヘルマン領に来る事になったのだ、気持ちを整理する時間もなかっただろう。
「でも今は……さっきも、楽しそうに笑っていらっしゃいましたよね。ああいう顔、王都ではほとんど見たことがなくて」
「そうなんですか?」
「ええ、いつも、どこか緊張していたのだと思います」
レティシアの婚約者は王太子だったはずだ。確かに、王太子の婚約者ともなると、常に言動に気を配らなければならなかっただろう。
「では、レティシア様にとって、ここは居心地の良い場所になったということですね」
「はい……それに、やっぱり、ラズベルト様のおかげだと思うんです」
エマが、少し身を乗り出すように言った。
「最初にラズベルト様からお茶に誘われたとき、レティシア様、すごく戸惑っていたんですよ。でも帰ってきたら、少しだけ顔が明るくて。それからだんだん、お部屋から出る時間が増えていって……レティシア様自ら『刺繍を渡そうと思うのだけど、喜んでくれるかしら』と相談されたときは、驚きました」
アレクシスがレティシアの刺繍の腕を馬鹿にしている場面をエマは近くで見ていた。幼い頃からレティシアを見ていたエマには、傷ついた瞳に気が付いた。その後、レティシアは刺繍をしなくなってしまった。
だから、相談されたときは驚いたし、とても嬉しかった。
マルダは、温かい気持ちでその話を聞いていた。
その刺繍したハンカチを、ラズベルトがいつも大切そうにポケットに入れていることを知っているから、尚更だ。
「ラズベルト様も、変わりましたよ」
マルタが言うと、エマが目を丸くした。
「そうなんですか?」
「ええ。あの方はね、昔からことなかれ主義なんですよ。揉め事が嫌いで、波風を立てない。それが処世術みたいになっていて」
「確かに、おっとりした雰囲気はありますよね」
「学園から戻ってきたときも、『領地でのんびり暮らせれば十分』とおっしゃっていましたよ。ご両親も、まあそれで良いかと思っていたようで」
マルダは、ふと思い出したことがあって、少し笑った。
「でも、レティシア様が来てから、変わりましたね。レティシア様に何か喜んでもらいたいって、一生懸命考えるようになって。まあ、エルハルト様の後押しもあったみたいですけど」
エルハルトの名に、しばらく、二人とも目を瞑る。
外では、夜風が木々を揺らしていた。
「エルハルト様が聖騎士に連れて行かれたときは、本当に心配しました」
「そうですね。レティシア様とラズベルト様も後を追って王都に向かいましたしね」
和やかなヘルマン家の雰囲気が一変した事件だった。
「御三方が居ない日々は、灯りを消したように屋敷の中が暗かったですもの」
エマの言葉に、マルダは無言で深く頷いた。
これまで働いてきて、あんなに屋敷が重苦しい雰囲気に染まったのは初めてだった。
「今日ね」
マルダが、静かに言った。
「丘から帰ってきたお二人の顔を見たんですよ。遠くからだったけど……幸せそうでした」
「ええ、私も見ました」
エマが、少し頬を染めながら言った。
「エルハルト様が玄関で待ち構えていて……ラズベルト様に何か言ったら、ラズベルト様が『うるさい』って言いながら笑っていて」
「あの二人は、本当に仲が良いですね」
「ええ。レティシア様も、お二人を見ながら笑っていました」
マルダは、その光景を思い浮かべながら、静かに笑った。
「良かったですわ」
エマが、小さく言った。
「王都を出るとき、不安だったんです。レティシア様があんなに傷ついていたから……また、傷つくんじゃないかって。でも……ここに来て、本当に良かった」
エマの声が、少し潤んでいた。
「レティシア様が、あんなふうに笑えるようになって……ラズベルト様と、ちゃんと幸せそうで」
マルダは、立ち上がり、棚からお茶の道具を取り出した。
「もう一杯、飲んでいきなさい」
「ありがとうございます」
エマが、目元を拭いながら笑った。
二人で向かい合って、静かにお茶を飲んだ。
屋敷の中は穏やかで、遠くから誰かの笑い声が聞こえてきた。
ラズベルトとレティシアの声、そして時々エルハルトの声が混ざっている。
マルダは、その声に耳を澄ませながら、温かい湯気の向こうで目を細めた。
これが、ヘルマン家の日常だ。
これからも、ずっとそうであれば良いと思った。




