45 後押し
エルハルトが戻ってから、ヘルマン家はすっかり元の賑やかさを取り戻した。
変わらない日常。
それが、ひどく嬉しかった。
ラズベルトは今日も厨房に立っていた。
薄く伸ばした生地に型を押し当てる。星型、花型、それから丸型。
「ラズベルト様、こちらの型はどうしますか」
レティシアが、ハートの形の型を手に持って尋ねた。
「では、こちらの生地をお願いします」
「はい」
レティシアが、慣れた手つきで生地に型を押し当てる。
最初は慣れず、形が崩れることが多かったレティシアの型抜きは、今ではすっかり板についていた。もっとも本人は「上手くできているのでしょうか」と毎回首を傾げているのだが、ラズベルトから見れば十分すぎるほど丁寧だ。
「焼き上がりが楽しみですね」
「エルが絶対、全部食べようとするので気をつけないと」
「ふふっ」
レティシアが、口元に指を添えおかしそうに笑った。
その笑い方が、ヘルマン家に来た頃とずいぶん違う。
あの頃のレティシアは、表情の変化が乏しかったが、今は目元や口元まで柔らかい。
(可愛い……)
その変化が嬉しい反面、ラズベルトの心臓がドキドキする場面も増えてしまった。
***
クッキーが焼き上がった頃、予想通りエルハルトが厨房に現れた。
「焼けた?」
「今、オーブンから出したばっかりだよ」
「一枚ちょうだい」
「冷ましてから」
「一枚だけ」
「熱いからダメ」
エルハルトは観念したように壁にもたれた。
「レティシアさん、ラズはこんな感じで昔から意地悪なんですよ」
「意地悪で言ってるわけじゃないし」
「え~」
レティシアが、くすくすと笑いながら「今食べると火傷してしまうかもしれないので、お待ちくださいませ、エルハルト様」と真面目に返していた。
それから、雑談しているうちにクッキーの熱が冷めたので、三人でお茶にすることになった。
ラズベルトが淹れた紅茶は、ヘルマン領の薬草をブレンドしたものだ。
「やっぱり上手いな、ラズのクッキー」
「レティシアさんも型抜きを手伝ってくれたよ」
「そうなの? どれ?」
レティシアが、ハート型のクッキーを一枚取り上げた。
「これです」
「へえ」
エルハルトはクッキーを受け取ると、それを一口で食べた。
「美味しい。形も綺麗だね」
「……ありがとうございます」
レティシアが柔らかく微笑み、少し照れたように目を伏せた。
エルハルトが、何かドヤ顔でラズベルトを見ているが、ここで反応を返したらまた揶揄われるだろう。なので、見なかった事にした。
(それにしても、レティシアさん表情が豊かになったなぁ)
その表情を引き出したのがエルハルトというのは、複雑だったが、レティシアがここで打ち解けてきている事実は嬉しかった。
***
午後、ラズベルトは書斎で書き物をしていた。
ヘルマン家の跡取りとして、学園を卒業し戻って来てから少しずつ父から教えて貰っていた。今書いているのは、領地の管理帳簿だ。王都に出ている間は父がしていたが、戻ってから数日経ったら「じゃ、続きはまたラズベルトで」と任されることになってしまった。
真実を知った直後は、少しぎこちなかった父とのやりとりも、すっかり元通りになっていた。
以前のラズベルトは、「ヘルマン領の事は大好きだけど、仕事は面倒だなぁ」などと思っていた。
けれど、今回の件を経て、この現実がいかに恵まれているのかを実感していた。
国王が神託を疑い、ラズベルトを逃がしてくれた。
ヘルマン侯爵が、ラズベルトを実の子として受け入れてくれた。
エルハルトが、その事実を知ってからもラズベルトを弟として守ってくれた。
知らない間に、ラズベルトは沢山の人から守られていた。
(僕も、守れる人になりたい)
そう思うようになった。
***
コンコン、と扉が叩かれた。
「はーい、どうぞ」
入ってきたのはエルハルトだった。
「どうしたの?」
「別に。暇だから」
「えぇ……今、暇じゃないんだけど」
「いいじゃん、息抜き、息抜き」
エルハルトは、明るく笑いながら、窓際の椅子に勝手に座った。
エルハルトはそのまま黙って窓の外を眺めているため、ラズベルトはキリの良いところまで書類を終わらせようと、ペンを走らせた。
「なあ、ラズ」
「何?」
「昨日の話の続きだけど」
ラズベルトは、手を止め顔を上げた。
「まだ考え中か?」
「まだ……一日しか経ってないんだけど?」
「じゃあ、ちゃんと考えてるか?」
「う……考えてるよ」
「本当に?」
「本当に」
エルハルトが、じっとラズベルトを見た。
「お前、昼間もレティシアさんのこと見る顔、隠せてなかったぞ」
ラズベルトは、一瞬言葉に詰まる。
「……そんなことは」
「ラズ」
エルハルトが、少し真剣な声になった。
「婚約は政略で決まったものだから、自分の気持ちを押し付けるのは悪い、とか思ってるだろ」
また図星だった。今度は何も言い返せなかった。
「レティシアさん、来たときより雰囲気が柔らかくなったよな。それに、ラズと一緒に居るときは、よく笑ってるよ」
「……そう、かな?」
「そうだよ。もっと自信持て」
「……うん」
ラズベルトは、ペンを置いて天井を仰いだ。
(自信、持っても良いのかな……)
レティシアの、一緒に夜空を見ていた横顔を思い出した。
繋いだ手を握り返してくれたことを思い出した。
型抜きクッキーを差し出したときの、少し得意そうな顔を思い出した。
(好きだと伝えたい。婚約者だからじゃなくて、レティシアさんだから、好きなんだって)
頭ではわかっている。自分の気持ちに、もうとっくに気が付いていた。
ただ、いざ言葉にしようとすると、尻込みしてしまうのだ。
それでも——
(ちゃんと、伝える)
今度こそ、はっきりとそう思った。
いつかではなく、近いうちに。
ラズベルトは、ペンを取り直して帳簿に向き直った。




