39 後悔(アレクシス視点)
レティシアと婚約したのは、幼い頃のことだった。
オルティース公爵家の令嬢。
顔合わせの後、母上は「良い娘だわ」と微笑み、父上もそれに頷いていた。アレクシスに選択の余地はなかった。政略的な婚約だ。それは仕方がない、と幼いながらに理解していた。
しかしアレクシスは、レティシアという少女が気に入らなかった。
何をやらせてもレティシアは、アレクシスより上手くこなした。礼儀作法、勉強、社交の作法。母上はレティシアを褒めた。臣下たちもレティシアを称えた。
(おもしろくない……)
それに、無表情で何を考えているか分からないのも、アレクシスを馬鹿にしているようで、気に入らなかった。
王太子として、アレクシスは努力した。
政務の勉強も怠らなかった。剣の訓練にも参加した。いつかこの国を統べる者として、恥ずかしくない振る舞いを心がけた。
レティシアに対する感情は、冷ややかなままだったが、それ以外では誠実であろうとしていた。
……そのつもりだった。
神託のことを、知ったのは十五の頃だった。
『双子の片割れは、国に混乱をもたらすだろう』
アレクシスに双子の兄弟がいたなんて、知らなかった。
記録には、生まれてきた双子の片方は死産で、神殿はそれを「神罰が下った」と記されたていた。
何かが胸に刺さる感覚を覚えた。
(本当に、そうなのか……?)
アレクシスの双子の兄弟が、もし神罰で亡くなったんじゃなければ……もしかしたら、その神託の王子は自分の可能性もあるのではないか。
そんな、不安が押し寄せた。
神託について調べてみたが、新しい情報を得られることはなかった。
父上にも、神託について聞いた。
「……終わった事だ」
父上は短くそう言い、それ以上は何も言わなかったが、苦しそうな表情をしていた。
***
学園に入学したのは、十六の春だった。
学園での生活は、これまでとは違った。王宮では常に誰かの目があったが、学園ではそれが少し緩んだ。同年代の生徒たちと話し、学び、時には笑う機会があった。
レティシアとの関係は相変わらず冷ややかだったが、それが日常だった。
変化が起きたのは、入学して半年ほど経った頃。
キャロルという少女が、声をかけてきた。
隣国出身の留学生だと聞いた。おとなしく、可憐な少女だった。
「殿下、少しよろしいでしょうか」
放課後、廊下で声をかけてきた。
「なんだ」
「落とし物をされていたので、お届けに参りました」
差し出されたのは、アレクシスのハンカチだった。
受け取ったとき、キャロルの指がアレクシスの手に触れた。
ほんの一瞬の、接触。
その日から、なぜかキャロルのことが気になるようになった。
(あの娘は、どんな者なのだろう)
気になる理由が、自分でもわからなかった。ただ、目で追ってしまう。声を聞くと、安心するような気がした。
今思えば、あの指が触れ合った瞬間から始まっていたのだ。
***
キャロルと話すようになったのは、自然な流れだった……と、当時のアレクシスは思っていた。
彼女はいつも穏やかで、アレクシスの言葉に静かに耳を傾けてくれた。王宮でも学園でも、誰もがアレクシスに何かを期待する目で見る中で、キャロルだけが違う気がした。
(キャロルは、俺を王太子としてではなく、一人の人間として見てくれている)
そう感じた。
今となっては、それが術の効果だったのだろう。しかし当時のアレクシスには、その感覚が本物にしか思えなかった。
キャロルと過ごす時間が増えるにつれ、アレクシスの中で何かが変わっていった。
最初は小さなことだった。
レティシアの言動が、以前より気に障るようになった。勉強熱心なのが鼻についた。母上に可愛がられているのが癇に障った。そのうち、姿を見るだけで苛々するようになった。
(なぜ俺はこんなに苛立っているのだ)
奇妙だとは思った。しかしキャロルのことを考えると、その苛立ちが和らいだ。だから、考えることをやめた。
気がつけば、キャロルのいない時間が、どこか色を失ったように感じるようになっていた。
***
レティシアとの婚約破棄を決めたのは、キャロルに言われたからではなかった。
少なくとも、当時のアレクシスはそう思っていた。
自分で考え、自分で決めた。レティシアは自分にはふさわしくない。キャロルの方が相応しい。その判断は、自分自身のものだと信じていた。
あの卒業パーティーの場で、衆人の前でレティシアに言い放った言葉も、自分の本心だと思っていた。
当時はわからなかった。
何一つ、疑わなかった。
***
父上に呼び出された部屋で、正気に戻った。
レティシアと、レティシアの婚約者というラズベルトという男が、魔道具を使って術を中和したという。
じわじわと、視界が開けていく感覚。自分が何をしてきたのか、少しずつ、しかし確実に、見えてきた。
(俺は……ずっと……)
レティシアが目の前に立っていた。
あの卒業パーティーで、衆人の前で言い放った言葉が、鮮明に蘇ってきた。
胃が、締め付けられるようだった。
彼女が王太子の婚約者として常に努力していたことも、気を張っていたことも、アレクシスは知っていたはずなのに、それを貶めた。
謝っても、消えないものがある。
それはわかっていた。
俯いたアレクシスの肩に、父上が手を置いた。
その手の重さを感じながら、アレクシスは静かに涙を流した。




