38 解呪
王宮に出掛ける準備をしていると、フィンが玄関先まで出てきた。
「フィン」
「……持っていけ」
フィンが差し出したのは、小さな魔道具だった。
「なに?」
「中和の魔道具の改良版だ。対象に近付いてから、起動させろ。以前のより確実に効く」
「もしかして、昨日の夜に作ったの?」
「寝る前に少し手を加えただけだ」
フィンの目の下の隈がさらに濃くなっている。「少し」ではないだろうとラズベルトは思ったが、指摘するのも野暮だろう。他人にあまり関心のなかった友人が、こうしてラズベルトのために色々と気にかけてくれることが、嬉しかった。
「ありがとう」
フィンは何も言わず、踵を返した。
しかし、扉を閉める前に一度だけ振り返った。
「また、来い」
それだけ言って、扉を閉めた。
(無事に戻って来いって、ことだろうな……ありがとう、フィン)
ラズベルトは、その扉を少しの間見つめてから、前を向いた。
***
王宮の通用口で、国王の遣わした者が待っていた。
案内されたのは、王宮の奥まった一室の手前にある、小さな前室だった。
「少しお待ちください」
案内役がそう言い、奥の部屋に入っていった。
しばらくして、扉が開いた。
国王だった。
「来たか」
「はい」
国王は、ラズベルトをひと目見て、静かに言った。
「アレクシスを、頼む」
たった一言だった。
王としてではなく、父親として言っているのだと、ラズベルトには感じられた。
「……はい」
ラズベルトは、深く頷いた。
「この部屋に、アレクシスがいる」
国王は、そう言い扉を開け中に進んだ。ラズベルトとレティシアもその後に続く。
***
アレクシスは、椅子に座っていた。
どこか焦点の合わない、ぼーっとした様子だ。
モノクル越しに見るアレクシスの周囲には、暗い紫色の靄が纏わりついているのが、はっきりと見えた。
(やっぱり、また術にかかってる)
「……父上。キャロルは、どこに居るのですか?」
アレクシスが、国王を見て立ち上がり、尋ねた。
「キャロル嬢は、別室で色々と話を聞いている。また後で、会わせるから、それまで待て」
「そう、ですか……」
アレクシスは国王の返事に、腑に落ちないような表情を見せたが頷く、それからレティシアに目を向け、少し眉を寄せた。
「……レティシア? なぜお前が」
「おひさしぶりです、殿下」
レティシアが、落ち着いた声で応じた。
アレクシスの目が、今度はラズベルトに向いた。
「お前は……誰だ」
「ヘルマン侯爵の息子、ラズベルト・ヘルマンと申します。レティシアさんの婚約者です」
アレクシスが、一瞬だけ目を細めた。
ラズベルトは、その視線を真っ直ぐ受け止めた。
(この人が……双子の……)
どんな感情が湧くかと思っていたが、今は不思議なほど静かだった。ただ、目の前にいるアレクシスを見ていた。
***
レティシアがアレクシスと話し始めた。
当たり障りのない挨拶から始まり、少しずつ距離を詰めていく。
ラズベルトは、さりげなくアレクシスの方へ近づいた。
ぼんやりとしているアレクシスは、ラズベルトが近付いていることに、気が付かない。
一歩。
二歩。
懐から改良版の中和魔道具を取り出し、手の中に握り込む。アレクシスの視線はレティシアに向いている。
三歩目で、ラズベルトはアレクシスの隣に立った。
(今だ)
中和の魔道具を、静かに起動した。
モノクル越しに、変化が見えた。
アレクシスの周囲に纏わりついていた暗い紫色の靄が、霧が晴れるように、じわじわと色を失っていく。
(効いている)
ラズベルトは、魔道具を握り締めたまま、その変化を見つめた。
アレクシスの表情が、ゆっくりと変わっていく。眉が微かに寄り、視線が揺れる。まばたきを繰り返し、首を少し傾けた。
「……なんだ、これは」
アレクシスが、低い声で言った。
「殿下」
ラズベルトは、静かに声をかけた。
「気分が悪くなったとしても、大丈夫です。少し、このまま待ってください」
アレクシスがラズベルトを見た。
その目は、先程とは違い焦点が合い始めている。
モノクル越しに見ると、紫色の靄はほとんど消えていた。
残滓がわずかに漂っているだけだ。
「……お前、何をした?」
戸惑いと混乱の滲んだ、アレクシスの声は、どこか不安そうだ。
アレクシスが、何かを思い出そうとするように眉を寄せた。
「……俺は、今まで、何を」
言葉が、途切れた。
モノクル越しに見た靄が、完全に消えた。
***
しばらくして、アレクシスは、力が抜けたように椅子に腰を落とした。
顔が青ざめている。両手を膝の上に置き、俯いていた。
「……俺は」
アレクシスが、絞り出すような声で言った。
「どのくらいの間、おかしかったんだ」
「キャロルさんと親しくなった頃から、と思われます」
レティシアが、静かに答えた。
「それは……」
「数ヶ月は、少なくとも」
国王が、アレクシスを静かに見ていた。その目に、何かをこらえているような色があった。
アレクシスが、長い沈黙の後に顔を上げた。
その目には、もう靄がなかった。ただ、混乱と後悔と、どこか泣きそうな色が混ざっていた。
「レティシア」
「はい」
「俺は……お前に……っ」
アレクシスの言葉が、途絶える。
レティシアは、何も言わなかった。
アレクシスは、深く頭を下げた。
「……すまなかった」
室内が、静まり返った。
ラズベルトは、その場に立ちながら、二人のやりとりを見ていた。
何も言わない方が良い気がして、黙っていた。
(これが、本来のアレクシス殿下……か)
昨夜レティシアが語っていた、学園に入る前の、真面目で誠実だった王太子の姿が、今少しだけ見えた気がした。
国王が、静かにアレクシスの前へ歩み寄り、その肩に手を置いた。
俯いたアレクシスから透明な雫が落ち、布に吸い込まれていくのが見えた。




