竜の怒り
彼あるいは彼女なのか、人間から竜王と呼ばれる赤い竜は特別な個体だった。竜は魔物の中では特別に強い存在としてデザインされており、竜王はその中でもさらに強力な個体として発生した。人間は竜王を通常の竜が老成してより強力な個体になったものだと認識しているが、実際には違う。それは発生した段階で最強の存在なのだ。
実のところ彼が(ここでは彼と呼称することにしよう)大山脈で発生してからそれなりの年月が経っていたのだが、その時間のほとんどを大山脈の中で費やしていた。彼が麓へと降りて来たのはほんの気まぐれだった。翼を広げ大山脈を背に飛び立つとそこには平原が広がっている。眼下にはどこまでも地平線。なるほど、これは悪くないと竜王は思った。
彼が居を構える大山脈には植物がほとんど存在しない。茶色と灰色だけで出来た世界だ。それと比べるとここは何と色鮮やかな世界だろう。気を良くした彼は飛翔する。しかしその上機嫌も長くは続かなかった。時折、ポツリポツリと目障りな物が目に入っていたからだ。それは二本足の生き物だった。虫のように地面を這い、彼の価値観からすると非常に醜悪な生き物だ。
殺すか。
自然とそう判断する。二本足の気持ちの悪い生き物は彼の価値観には相容れない存在であり、そもそも彼は人間を殺すことを本能としてプログラムされている。地を這う二本足は彼からすれば取るに足りない小虫だ。息をひと吹きかけてやるだけで燃え落ちて灰になるだろう。しかし――
今はいい。
多少気分を害したことを差し引いても、その時の彼はすこぶる機嫌が良かった。空は蒼く、大地は蒼く、みすぼらしい虫の相手をするのは煩わしかった。
それから彼は幾度か大山脈を離れ空の散歩を楽しんだ。そして何度目かの散歩の時のことだ。その日は興が乗ったのか、月の出る夜に彼は根城を飛びだった。空は黒く、月は白い。黄色味を帯びた星の光が静かに瞬いている。そんな中、無粋な光が彼の目に映った。星の瞬きとは違う。赤く揺れる光。それがいくつも彼の視界に入る。
邪魔だ。
口腔に意識を向けるとそこに熱が生まれる。小虫のいない大山脈の中にいれば使うことのない力。初めてでありながら、彼の肉体は従前の機能を発揮する。火炎の息が大地に向かって放たれた。初めて故に狙いが甘い。しかしその威力は十分で、風に煽られ瞬く間に赤い光は一面に広がっていく。
なるほど、これはこれで悪くない。
自らの作り出した光が闇夜を染めていく光景は彼を満足させる。広がっていく火を眺めながら、彼は優美に夜の散歩を楽しんだ。
そうして今日。空を飛ぶ彼の鼻孔を妙な香りが擽った。煙の臭い。何か草を燃やしている。気になった彼の目に入ったのは大量の小虫だった。
二本足のそれがわらわらと大地を這っている。それが心底おぞましかった。そう感じた次の瞬間には彼はプログラムされた本能のまま、二本足の小虫を焼き尽くすために炎を吐き出した。




