逃げる復讐者と飛来した竜王
月の綺麗な夜だった。
真円を描いた月は冴え冴えと輝き大地を照らしていた。その中をリッツは憑かれたように走っていた。
(逃げないと、逃げないと……)
月の綺麗な夜だった。
そこを少年は必死に走る。頭の中で何度も「逃げないと」と唱えてはいるものの、何から逃げるのか少年にはもう分からなくなっていた。
(逃げないと、逃げないと……)
月の綺麗な夜だった。
とにかく体を動かさないと恐怖に身体まで圧し潰されそうだった。自分が間違っているかもしれないという恐怖。兄が死んだのは単に弱かっただけなのかもしれないという恐怖、そして――
「どこへ行くんだい?」
具現化した恐怖が目の前に現れた。
樽のような体躯に太い手足、丸顔の真ん中には団子鼻がついており、目は線を引いたように細い。服装は普段と同じものだが、腰に嫌に麻で出来た大きな袋を下げていた。マンバナ村の領主、ダボン・ルナだ。
細い目にリッツの姿を映しながら、彼は白々しく語り出した。
「そう言えば、君と二人で喋るのは初めてだったね」
「ぁ…………ぁっ」
あまりの恐怖に声が出ない。
だがダボンにはそんなことは関係がないのか、静かな声で語り始めた。
「この村はどうだった?」
「…………」
「何もない村だっただろ」
「………………」
「でも、良い所なんだ」
「……………………」
言葉だけ聞けばダボンは友好的だった。しかしリッツの胸中はそれどころではない。
(さっきの会話……聞かれてた!?)
だがそれも当たり前だ。こんな夜道で偶然な訳がない。この恐ろしい大男は、自分に用事があって今、ここにいるのだ。
「何の……用だ」
走っている間に少し疲れたのが良かったのかもしれない。少しだけ恐怖が和らいでいたこともあり、リッツは何とか言葉を搾り出すことが出来た。
「ああ、すぐに終わるんだけどね」
細い目がリッツを捉える。出会ったときに恐ろしい目に合わされたこともあってか、リッツはこの目が恐ろしかった。何を考えているのか感情が読み取れない。シルフィーと喋っているときは心底楽しそうなくせに、それ以外の瞬間は感情が抜け落ちたかのように興味を失っている。強さを抜きにしても不気味な男だった。
「この村から出て行ってくれないかい」
単刀直入に言った。
「君はシルフィーを仇だと思っているようだが、僕からすればディンを殺したのはエリオットだ」
物事の捉え方は人によって違う。だからダボンの言葉はあくまでもダボンの考えに過ぎないのだが、今のリッツはその言葉に屈しかけていた。自分の我がままを突き通すには彼は幼く、そして目の前の怪物に比べればあまりにも弱かった。
「ディンは傭兵として正式に雇われて仕事として死んだ。そこに雇い主であるシルフィーに責任を求めるのはお門違いだ」
それももう気づいている。自分は歴史ある傭兵団の生まれであり、その一員であることに誇りを持っていた。だが傭兵である以上、命を賭けるのは当たり前なのだ。置いてきてしまったが、兄の命として受け取った金貨の袋は折れた小剣と一緒にベッドの脇に今もある。
「そして死んだのは彼が単に弱かったからだ。逆恨みとまでは言わないが、正当性があるとは言い難い」
それももう解っている。兄は死んだ。もしも兄が目の前の怪物のように強かったのなら、きっと死ななかったのだろう。この短い間で嫌というほど思い知らされた事実を並べられる。
「何故、最初にエリオットを狙わなかった? 何故シルフィーを狙った? 城で騎士に守られた王子様は無理でも、辺境の村に追放された落ちぶれた貴族の娘なら簡単に殺せるとでも思ったか?」
「そ、それは……」
否定したいが言葉を続けることが出来ない。だというのに、目の前の大男はそれすらも否定した。
「僕ならエリオットを狙う」
「え?」
「夜になってから城壁を飛び越え、屋根を伝って一番高い塔まで登れば、城内は一望できる。あとは王子の部屋へ押し入って首をとればいい」
そんなことは簡単だと、まるで見て来たかのように言う。
「リッツ、君が本当に仇をとりたかったなら、正しさを貫きたかったら、城に押し入り、兵に捕まり、処刑されるべきだった。それが出来ないのなら敵討ちなどやめるべきだったんだ」
そうして細い目から鋭い視線を放ちハッキリと言う。
「君には覚悟が足りない」
一歩足が前に出る。
丸太のような太い足。鈍重な歩みだ。だと言うのに、まるで逃げ切れる気がしなかった。
「それ以上に力が足りていない」
リッツの内心など考慮する筈もなく言葉を突き立てた。
「それは君のお兄さんも同様だ」
もう、今更だ。
もう、やめてくれ。
判り切ったことを言うのはやめてくれ。
そう考えるリッツだったのだが、ダボンは最後に言った。
「今すぐ出て行け。そして二度と顔を見せるな。本当なら声をかけるのすら無駄なんだが、シルフィーの顔を立てて機会をやる」
腰に下げた麻袋から小剣と金貨の入った袋を取り出した。それは彼が部屋に置いてきたはずのものだ。それをリッツの足元に向かい投げる。
「…………ぁ」
呆けたように足元の小剣と金貨を見る。頭の中はグチャグチャだった。ここで逃げることを選べば認めることになる。
シルフィーが悪くないこと、兄が死んだのは単に弱かったからだということ、自分は勘違いで復讐を決意して傭兵団を出奔し、何週間もかけてこんな辺境までわざわざやって来た間抜けだということ。短時間でそれらを飲み下すには彼はあまりにも覚悟がなさ過ぎた。
そしてその呆けた時間が彼の運命を決めてしまう。
「そうか、残念だ」
眼前で呆けているリッツを見て静かに言った。呆けていようと、混乱していようと、保留などという甘い判断を彼は許さない。即答しない場合はどうするか、彼はすでに覚悟を決めて行動しているのだ。腰に下げた袋とて、別にリッツの荷物を運ぶためだけに持って来たわけではない。
無駄を嫌う彼は気取った台詞も、冥途の土産もくれてやったりはしない。
ただ、月を背負いながら一歩足を踏み出した瞬間、リッツの心がどろりとした黒いもので塗りつぶされた。
蛇だ。暗く冷たい無数の蛇が心臓に絡まり、腸の中で蠢動している。
明確な殺意。
これからお前を殺す。
戦場に立った経験のあるリッツであるが、目の前の男から放たれた殺意はそれらが児戯であるかのように暗く濃く恐ろしい。このままだと目の前の大男が到達する前に、リッツの全身は幻想の蛇に中から喰い破られて絶命するかもしれない。そう思わせるほどの殺意だった。
ゆっくりとした足取りでダボンが近づいているにも関わらず、リッツは動けない。恐怖のあまり、彼が選んだのは思考の放棄だ。月を背負って近づいてくる大きな影をリッツは呆然と見た。
(近づいてくる……)
その影が三歩先まで近づき歩みを止める。
(ここでボクは死ぬ……)
それを覆す強さは今の彼にはない。
いや、彼でなくとも、この怪物を倒せる人間などこの国には存在しない。
後悔していた。
自分は正義の味方でシルフィーは魔女だ。それに天誅を下す。自分の行動は天が認めてくれているはずだった。だというのにマンバナ村にいた魔女は村人達に優しく、問い詰めみればそこにいたのは魔女を演じることに疲れ果てた哀れな女がいただけだった。
もはやダボンは何も語らない。すで覚悟を決めているダボンにとって、敵と語るための言葉など必要ないからだ。
拳が緩く握られている。自然石を思わせるころりとした丸みを帯びた拳骨だ。見ようによっては優しそうに見える拳骨。だがこれは振り下ろせば簡単に命を奪うことが出来る鉄槌だ。
(痛いんだろうな……)
それがゆるりとした動きで肩の上まで上がる。ダボンは武術を学んだわけではないので、その構えも大雑把なものだ。だがそれは必要なことではない。彼の膂力をもってすれば適当に拳を振り回わすだけで十分な威力を持つのだ。
(あれが今から……)
自分の頭に振り下ろされる。野豚の騎士は素手で赤鱗騎士団を粉砕したという逸話を今更ながらに思い出す。
(…………)
拳は月を射るように振り上げられている。この男なら月さえ落とせるのではないか。そんな錯覚に落ちる。だがその姿を見ている内に、リッツはようやく違和感に気づいた。
(……おかしい?)
ダボンの拳。自然石のように丸みを帯びた。命を容易く奪う力を持った拳。それがいつまで経っても振り下ろされない。
(え? どうして??)
このときようやくリッツはダボンの顔を見た。ダボンはリッツを見ていなかった。彼の視線の先、細い目はリッツの遥か後方に向けられている。
(何が……?)
本来ならこの隙に逃げることが正しいのかもしれない。しかしリッツは反射的に振り返りダボンと同じ場所を見る。
ダボンの視線の先。恐らくは麦畑が広がっているであろう彼方。そこが赤く輝いていた。
(……火事?)
見てから気づいたので遠すぎて気の所為かもしれないが、焦げ臭いにおいが鼻孔を擽った。
そうして音が聞こえた。地響きのような咆哮だ。見上げると月を横切るように大きな影が空を舞う。蝙蝠のような皮膜の張った羽に、長い首、全身を覆う鱗は月の光を反射して赤く煌めいていた。
竜だ。
(飛んでる……以前見た地竜よりも大きい)
それはまさしく魔物の王の威容だった。怪物の中の怪物、竜王。最強の魔物だ。
そして思い出す。空を見上げる間でもなく、自分の目の前にも怪物がいたことを。
「何故………た」
怪物は呟いていた。否、そこにいたのは怪物ではない。彼は怪物から人間に戻っていた。線のように細い目を大きく見開き、空を睨んでいた。歯ぎしりが聞こえるほど奥歯を噛みしめ、緩く握っていた拳は血管が浮き上がるほど強く握りしめられている。先程までの無感情な貌が嘘だったかのように、双眸には様々な感情が渦巻いていた。怒り、悲しみ、哀れみ、雑多な感情が斑模様を描いているくせに、竜を目にすれば皆が感じるであろう恐怖だけがない。
(あんなに強いヤツでも、こんな表情をするんだ……)
場違いにそんな感想を抱いてしまう。
気がつけばリッツの中にいた蛇も消えている。
ダボンが得体が知れない怪物に見えていたリッツにとって、初めてダボンが人間に見えた瞬間だった。
竜王は飛び去り空には月だけが出ている。しかしダボンは未だ空を睨みつけていた。
すでに彼は自分など見ていない。リッツがそう確信した瞬間、ダボンの風を纏うようにして走り去っていた。
第二章では前章ではさりげなく流していたダボンの暗部が分かりやすく書かれています。
例えば第一章の【大群】のエピソードの中でダボンが城の一番高い塔の上に登っているのですが、これはアメコミのダークヒーローみたいに格好つけてるわけではありません。これは今話で本人がほのめかしているように、エリオットに対して「俺はいつでもお前を殺せるぞ」という隠喩と、実際に行動に移すときのための下見です。実はかなり危険なヤツなんです、コイツ(笑)
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