魔女と小さな復讐者
(何で急にコイツが……)
現れた黒髪の美女を見てリッツは固まる。
「貴方の姿が見えたから」
尋ねられる間でもなくシルフィーは言う。
だが、次の言葉でリッツの思考は完全に停止した。
「私に会いに来たんでしょ?」
「!?」
その言葉にリッツは二度驚いた。
一つはシルフィーがわざわざ自分に会いに来たということ。そしてもう一つは、この瞬間リッツがまるでシルフィーのことなんて考えていなかったことだ。
(また覚悟が足りなかった……)
愕然とする。
頭の中がガランのことと、あの恐ろしい大男のことでいっぱいになっていてシルフィーのことなんてこれっぽちも思い至らなかった。本来、彼はこの魔女に天誅を下すためにマンバナ村にやって来たというのにだ。
そして何より
夜に、外で、二人きり
こんな絶好の機会だというのに、彼は拳を振るうのが、魔法を使うのが、怖くて怖くて仕方がない。もしもあの恐ろしい悪魔が自分に気がついて飛んで来たら……そう考えると膝が微かに震えだす。最初に頭を背後から握られた感触がリッツの中で生々しく蘇る。
そんな彼が出来るのは犬のように吠えるだけだ。
「別に……お前に会いに来たわけじゃない!」
「そ、そうなの?」
「そ、そうだ」
「…………」
「…………」
そうしてお互いに気まずい表情をして対峙する。シルフィーはこれまで自分に近づいてこなかったリッツが夜に一人で来たものだから、いよいよ覚悟を決めて来たのだと身構えて迎え撃ったつもりだった。色々と問答のパターンや言葉を準備していたのだが、リッツにそういうつもりではないと言い放たれ、思わず気持ちが萎えかけてしまう。それを何とか押しとどめてシルフィーは言葉を搾り出した。
「この村はどうだったかしら?」
「別に……」
「とても田舎でしょ」
「そうだな」
「でもね、良い所なのよ」
「……そうだな」
「ねぇ、リッツ……」
「…………」
「この村から出て行ってくれないかしら」
本題を切り出した。
「今更、私を許してもらおうとか、そういうつもりはないわ。でもね、この村は貴方にとってとても危険なの。もしも貴女が私を殺そうとしていることが村人に知られたら、リッツ……貴方は殺されるわ」
「……解ってるよ」
それはリッツにも理解出来ていた。ガランが当初言っていた通り、村人は皆シルフィーを信奉している。だからこそシルフィーはガランを自分につけたのだろう。少なくとも領主の弟が隣にいれば、シルフィーへの害意が露見したとしてもすぐさま襲い掛かってくることはない。つまりはこのしばらくリッツは忌むべき仇の庇護下にあったのだ。
「リッツ……本当のことを言うとね、ディンには悪いことをしたと思っているし、当時の私の行動にも問題があったと反省してるわ。だけどね、それでも貴方に殺されてあげるほどではないの」
言葉にはしないのもの、シルフィーにはリッツを庇う必要はない。それでも彼を守ったのはひとえに自己満足のためだ。シルフィー自身、嫉妬と怒りで視野狭窄になり、気づけば周囲が敵だらけになった過去がある。それはあまりに恐ろしい経験で今でも時おり夢に見る。
だからこそ夢想してしまう。
『あのとき誰か助けてくれていたら、どうなっていたのか?』
だがそれは本来ダボンには決して言うべきでない願望だ。だからこそどうしようもなくなった場合、シルフィーはリッツを切り捨てなければならない。それを理解しつつシルフィーはリッツの答えを待つ。
「……どうして」
「え?」
「どうして、お前は悪いヤツじゃないんだ」
帰って来たのは悲痛な声。むしろ理不尽な問いかけだった。
「何でお前は村の人間達から慕われてるんだ! そんなのおかしいじゃないか。お前は兄さんを殺した悪いヤツなんだろ! それなのに、それなのに……」
今のシルフィーはどう見ても魔女ではない。村人の命を救い、生活を向上させ、誰からも慕われている。それはかつて国中で忌み嫌われていた邪悪な魔女とはあまりにもかけ離れていた在り方だった。
それはリッツにとってあまりに不都合な事実だった。
噂で聞いた魔女は、権力を笠に着て人に命令し、金品で無理やり他人に悪事を働かせ、聖女を貶めるために悪行の限りを働く悪女だった。
「悪いことしろよ。騙したり、脅したり、今までいっぱい悪いことしてたんだろ。何で善いヤツになってるんだよ!」
理不尽だとリッツ自身も理解していた。別に彼だって、ザガが騙されたり、ドゥードゥが脅されたり、バンが困っているところを見たい訳ではない。だけど、そうじゃないと自分が馬鹿みたいではないか。傭兵団を抜け出してきたのに、こんな辺境までやって来たのに、シルフィー・ルナが悪女でないと、今の彼は報われないのだ。
そんな子どもに対してシルフィーは言った。
「だって、仕方がないじゃない」
それはこれまでリッツが聞いたシルフィーの声の中でも最も冷えた声だった。
「仕方がないのよ」
もう一度言う。
「貴方が言うように私は悪い人間よ。でも、ここでは私が悪だくみする必要がないの」
「な……何でだよ」
乾いた喉で搾り出す。そんなリッツにシルフィーは告げた。
「だって、そんなことをしなくても私はこの村でダボンの次に偉いんだから」
「え?」
意味が解らない。そんな顔をする少年に聖女を名乗る女は非情に告げた。
ルナ領にいた頃や学園時代には彼女と同格の相手が沢山いて、シルフィーは貴族の娘としてその中でも一つでも上の立場に立つことが望まれていた。いかに優雅に相手を出し抜き、配下を増やしていくことこそが美徳とされてきた世界だった。
だがここではそんなことをする必要がない。マンバナ村という小さな世界では彼女を追い落とそうとする存在はいない。強いて言うならば領主であり夫となるダボンだけは彼女の上の存在であるのだが、それさえもルナ家との力関係を考えれば絶対ではない。
辺境の村の支配者。それがかつて王妃の座を約束されていたはずの女、シルフィー・ルナの姿だ。だがそれでいい。もう陰謀とか、派閥争いはうんざりだ。あんなに恐ろしい目に合うくらいなら、もう一生この村から離れたくなかった。
「だから、この村では、私はただ善人であればいいのよ」
それは何か大きなものに打ちのめされ疲れ切った、村人達には決して見せない翳のある表情だった。
善人として村人に施しを行う。もちろん対価などいらない。彼女にとってこの村で必要なのは物ではなく心だ。村人からの忠誠心こそが、彼女が最も必要とするものなのだ。だからこの村にいる限り、嫌でも彼女は聖女を演じ続ける。
「何だよ、それ……」
それを聞き、リッツは愕然とする。
混乱した。
悪事を働くことが望まれるからやっていた。今は必要ないからやっていない。それならかつて悪事を働いていた姿ですら演技だということになる。なら本物のシルフィー・ルナはいったい何処にいるというのだ。
傭兵団の一員として兄と共に様々な場所を巡ったリッツは年の割には様々な経験を経ている。そんな彼をして奇々怪々な貴族の権謀術数は理解の及ばぬものだった。
「だったら、兄さんは誰に――」
殺されたんだ。
そう言いかけて、リッツは気づいた。兄のディンが誰に殺されたのか? その答えを彼はこれまで何度も聞いていたからだ。
例えばガランは言った。
『お前の兄ちゃん殺したのって、この国の王子様だろ? そもそも姉ちゃん関係ないじゃん』
そう、兄は王子であるエリオットと戦って敗れ、死んだ。それはこれまでの噂話で知っていた。『嫉妬に狂った魔女が兇手を放ち王子を殺そうとした』という、彼が頭から信じていた噂話によってだ。
そうしてその噂話を最初から頭から信じていたにも関わらず、兄を殺したのはシルフィーだと思い込んだ。噂話においてシルフィーは魔女で、エリオットは正義の味方だ。
それが兄の仇だとなると話がおかしくなってしまう。
(だ……だって、もともと悪いのはあの女じゃないか)
そうでないと困る。兄は魔女に騙され、戦わされ殺されたのだ。そうじゃないと駄目だ。
だと言うのにリッツの頭は思い出してしまう。ガランがその後言った言葉だ。
あの後、ガランは自分にこう言ったのだ。
『いや、だから傭兵って、戦士みたいなもんだろ。だったら戦いで死んじゃうこともあるんじゃないのかな?』
その後、ガランは自分の傷跡を見せた。それを見て自分は何も言えなくなってしまったのだ。もちろん陰惨な傷跡に臆したこともある。だがそれだけではない。
ガラン自身も心のどこかで理解していて、そこから目を背けたかったからだ。何しろあのとき、兄が死んだと聞かされた時、傭兵団の隊長が言っていたからだ。「既に金はもらっている」と、自分たちは金をもらって戦うことを生業とする傭兵なのだ。兄はそれに殉じた。
つまり――
『だいたいお前の兄ちゃんが王子様に負けたのは、王子様よりも弱かったからだろ? それもシルフィー姉ちゃん、関係ねえじゃん』
「ち、違う!」
ガランの言葉を思い出してしまい、犬のように吠える。
(悪いのはこの女だ、悪いのはこの女だ、悪いのはこの女だ……)
呪詛のように念じる。
(悪いのはこの女だ、悪いのはこの女だ、悪いのはこの女だ……)
頭の中で整合性など破綻していた。
(悪いのはこの女だ、悪いのはこの女だ、悪いのはこの女だ……だから)
悪いのはシルフィー。そうでなければならない。そうでなければ自分自身が崩壊する。
(殺す!)
決心した。
剣は持っていない。だから使うのは土の魔法だ。コーナルル傭兵団は代々、土の魔法を得手とする。その中でもこれは兄から教わった魔法だ。大地から杭を生やし敵を串刺しにする。リッツの使える最強の魔法だ。
(こいつさえ死ねばそれでいいんだ!)
幼い殺意がむき出しになる。彼はただの子供ではない。勇名名高き傭兵団において10才にして戦場に立つことを許され、既に幾人もの敵を斃した経験が彼にはあるのだ。
(喰らえ!)
身体の中で魔力を循環させる、そのときだった。
「………ぁ」
力が抜け、膝から崩れ落ちる。
胸の中で心臓に絡みついた何かが蠢く。
暗く、冷たい。
蛇が現れたのだ。
「リッツ?」
唐突な反応に今度はシルフィーが困惑する。彼女からすればリッツが突然膝を崩して蹲ったように見えたからだ。
(さっきまで魔法が使えていたのに……)
戦士達に魔法を披露しているときは何の問題もなかった。なのに今は魔法が使えない。そしてその理由は簡単だ。先ほどと違い、今は近くにダボンがいる。それを思い出してしまったのだ。
もちろん目の前にいる訳ではない。だがそんなことは関係ない。屋敷のすぐ外、壁一枚隔てたところにあの大男がいたら、もしも、ひょっとして、万が一にも、ダボンが今の状況に気づいていたら、そんなことを考えるともうリッツは動くことが出来なくなってしまっていた。
(怖い……)
冷や汗が流れ、心音が狂ったように暴れ始める。
(怖い……か、身体が動かない)
恐れているのは解っているが、ここまで恐怖に屈しているとは思ってもいなかった。
ダボンに見つかれば、素手で生きたまま身体を引き裂かれる。そんな凄惨な未来を予想してしまう。
(ボ、ボクは名誉あるコーナルル傭兵団の一員だったんだ。戦場だって何度も潜っているんだ。だから大丈夫だ。戦えるはずだ!)
目の前にいるのは兄の仇。
再びそう思い込み魔力を循環させようと試みる。兄や隊長に教わった、呼吸法も、足運びも、印も、噛歯も、何もかもが上手くいかない。
怖い
ただそれだけの感情が、物心ついた時から行っていた鍛錬の成果を押し潰してしまっていた。
(クソッ、何で……何で)
魔力を循環させる感覚を必死に思い出そうとする。
今こそ死線を超える時だ。
そう思い、必死に恐怖に抗おうとする。
復讐者として、傭兵として、戦士として、少年は決死の一歩を踏み出そうとした。
夜風が長い黒髪をなびかせていた。流れる毛先がそのまま闇に溶け込んでしまうのではと思わせるほどの美しい黒髪だ。その髪に相応しい闇に微かな星の光が灯ったような瞳が宵闇に向けられている。その目は先ほどまでリッツ・コーナルルの遠ざかる背中を捉えていた。
「手を出さないでくれてありがとう」
「いえ、構いませんよ」
物陰から大きな影が現れる。樽のような体型に太い手足、丸顔の真ん中には団子鼻がついており、目は線を引いたように細い。彼女の婚約者であるダボン・ルナだった。
彼は手に持っていた煉瓦を静かに足元に置くと、ゆっくりとシルフィーの元へと近づいた。
「でもあまり無茶はしないでください。僕にとって大切なのはシルフィーだけであって、正直リッツのことはどうでもいいんです。念入りに脅しておいたので大丈夫だとは思っていましたが」
「そうみたいね」
何をどうしたのか分からないが、リッツの怯え方は明らかにおかしかった。ただその姿は自身にもどことなく覚えのある怯え方だった。人間本当に怖いと身体が固まって動けなくなるのはシルフィー自身が誰よりも理解しているのだ。
「正直、もう彼がシルフィーを襲うことはないと思いますよ。この辺りが落としどころでしょう」
ダボンは一番最初シルフィーに「それでシルフィーはどうしたいんですか?」と尋ねた。和解したいのか、条件付きで示談したいのか、それともリッツがいなくなればそれでいいのか。その中でも和解するのは無理だろうとダボンは暗に示唆した。
「明日、ガランに様子を見るように言っておきます。ただアイツも何だか様子がおかしかったんですが……」
「そうなの?」
「ええ、さっきすれ違ったのですが、何だか落ち込んでいたようで」
ダボンからすれば、むしろそちらの方が問題だった。もともと仲の良い兄弟なのだがガランが怪我を負ってから、少し兄弟の距離が開いている気がする。それは怪我のこともそうだが、人生の大きな転機を経てガランが少しずつ大人になっているせいもある。長男である彼は後継ぎであることもあり早熟であることを望まれ、また彼の幼少期は飢饉の影響が濃く残っており、子どもであることを状況が許してくれなかった。父が死に二年前にはもう領主になってしまっていて、我ながら子どもの時期が短かったようにも思う。もしも飢饉で死んだ弟と妹が生きていれば、もう少し良い接し方が出来たのかもしれないが、反抗期の少年との関りがどうにも分からない。だからこそ、それを察したシルフィーは前もって釘を刺した。
「今のことで叱っちゃ駄目よ」
リッツから監視の目を外したことを言っている。それに気づいたダボンはすぐに返事をした。
「わ、解っていますよ」
「本当?」
「え……ええ、もちろんです」
「そう?」
「……すいません。叱るつもりでした」
父が死んでから弟にはどうにも小言ばかり言ってしまうのはダボン自身も気がついている。なのでシルフィーの意見は領主としては間違っているが、兄としては正しいのだ。それにダボンは苦笑いする。
「またシルフィーにお願いすることになりそうですね」
「構わないわ。ガランちゃんは私にとっても弟だから。それに明日にはルナ家からの先遣隊が来るんだから、ダボンも忙しいでしょ」
「そう言ってもらえると助かります」
再び苦笑いする。
「では申し訳ないですが、さっそくガランの顔だけでも見てくれませんか? シルフィーも大変だとは分かっているのですが……」
「仕方がないわね」
「ありがとうございます」
苦笑いする。
それを見てシルフィーはダボンに尋ねた。
「ねぇ、ダボン」
「はい」
「貴方、何か隠していないわよね?」
「何かって?……いや、多分、隠していないとは思いますが?」
「そう……なら、いいわ」
「はい?」
ダボンは首を傾げながら、シルフィーと共に屋敷に戻る。その口元は最後まで苦笑いを湛えたものだった。




