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第九話。

足音が完全に遠のいたのを確認してから、俺はようやく少しだけ身を起こした。


まだ油断はできない。


けれど、ずっと瓦礫に張りついたままでも始まらない。渇望と念じ続けたおかげで、意識の濁りは少し引いていた。喉の焼けるような渇きも、腹の底をひっくり返す衝動も消えてはいないが、少なくとも今は言葉として考えられる。


渇望。


一度だけ念じてから、俺は自分の手を見た。


青白い。


人間の肌色ではない。血の気がないとか、青ざめているとか、そういう次元でもなかった。死体めいた色をした皮膚が、薄暗い遺跡の光の下で鈍く浮いている。


その先にある指先を見て、息が止まりかけた。


長い鉤爪。


爪と言うにはあまりにも長く、鋭い。獣のそれに近いが、もっと嫌な形をしている。肉を裂くためだけに伸びたような、歪んだ刃だった。


「……っ」


声を出しかけて、慌てて飲み込む。


自分の声すら、今は敵を呼ぶ音になりかねない。


俺はもう片方の手も見る。


同じだ。


鉤爪がある。手首のあたりから筋肉のつき方もおかしい。皮膚の下にあるものが、人間の均整から少し外れている。膨れ上がっているわけじゃない。だが必要以上に張っている。動かさなくても分かる。異常発達した筋力が、そこに詰まっている。


俺は慎重に腕、肩、胸元へと視線を移した。


服は残っていない。あるいは変質した時に引き裂けたのか、ぼろぼろの布切れみたいなものが体に引っかかっているだけだった。胸も腹も青白い皮膚に覆われ、ところどころ筋が浮いている。生きた人間の体温が感じられない見た目なのに、内部には妙に熱がこもっている気がした。


顔に手をやる。


右目は見える。


左目に触れた瞬間、ぞっとした。


塞がっている。


瞼を閉じているのではない。皮膚そのものが癒着したように塞がり、そこに眼球の感触があるのかどうかも分からない。思わず指先を離した。


「……醜いな」


かすれた声で、つい呟いてしまった。


自分でそう思った。


全身を細かく確認したわけじゃない。鏡もない。だが、もう十分だった。手も、皮膚も、筋肉も、目も、何もかもが人間から外れている。


ストーカー。


その言葉が嫌なくらいぴたりと当てはまる。


一瞬だけ、また意識が赤く濁りそうになった。


そのたびに、俺は心の中で叩く。


渇望。


落ち着け。


確認だ。


今は現実逃避している場合じゃない。


俺はゆっくり息を整え、視線を近くの瓦礫へ向けた。


鑑定。


使えるか。


さっき男に見せられたスキル一覧の中に、確かにあった。魂に紐づいたスキル。レイが最初から持っていたもの。もし本当に使えるなら、今この状況を把握するのにこれ以上ない手段だ。


俺は意識を瓦礫へ向ける。


鑑定。


頭の中でそう念じた瞬間、視界の隅に文字が浮かび上がった。


ヴァシュウ遺跡十五階層の瓦礫


「……出た」


思わずそう呟く。


本当に出た。


簡潔だが、確かに情報として成立している。物体鑑定。第一段階の機能だ。


胸の奥に、ほんの少しだけ安堵が灯る。


なら、自分にも。


俺は数秒ためらった。


自分を見るのが怖い。


だが、見なければならない。


俺は震えそうになる意識を押さえつけて、自分自身に鑑定を向けた。


一瞬だけ、何かが視界に重なるような感覚があった。


そして、目の前に半透明の板が現れる。


? ストーカー、17歳、レベル1

生命点:150

精神点:250

魔力:130

体力:90

知性:150

教養:30

器用さ:60

生命力:120

敏捷性:90

魅力:40

先天性スキル:鑑定、収納、魔法の素質、豪運、王命

後天性スキル:苦痛耐性、鉤爪戦闘術(初級)、忍び(初級)、探知(初級)


俺はしばらく、その表示を見つめた。


? ストーカー。


名前のところが「?」になっている。


そこに少しだけ引っかかったが、今はそれ以上に他の情報が大きかった。


レベル1。


年齢17。


そして、能力値。


「……確か」


思考が自然に動く。


レイがレベル1の時の数値。覚えている。小説の序盤で一度ちゃんと出したからだ。何度も見返した。だから比べられる。


頭の中に、その時の数値を引っ張り出す。


レイ 17歳 レベル1

生命点:160

精神点:190

魔力:140

体力:110

知性:160

教養:70

器用さ:90

生命力:130

敏捷性:100

魅力:140

先天性スキル:鑑定、収納、魔法の素質

後天性スキル:解体、魔法、剣術、詠唱破棄、盾術(初級)、薬学(初級)、忍び(初級)、探知(初級)


並べてみると、差は分かりやすかった。


「精神点以外、だいたい下がってるな……」


小さく呟く。


生命点は少し低い。魔力も体力も知性も下がっている。教養は露骨に落ちていた。器用さも低い。生命力と敏捷性も少しずつ落ちている。


魅力に至っては、四十。


まあ、今の見た目を思えば納得しかない。


そこに苦笑しそうになったが、うっかり音を出したくなくてやめた。


だが精神点だけは、むしろ高い。


二百五十。


レイの頃より、はっきり上だ。


「魂が強いって話のせいか……?」


男の言っていたことを思い出す。


強い魂。上位者になる可能性がある魂。だから世界に抑圧されていた。だからこそ、ストーカー化の狂気に対しても、理性を繋ぎ止める余地があるのかもしれない。


俺は後天性スキルに目を移した。


苦痛耐性、鉤爪戦闘術(初級)、忍び(初級)、探知(初級)


「ストーカー由来のスキルしかない、か」


これは少し重かった。


レイが持っていた剣術も、詠唱破棄も、盾術も、薬学もない。魔法も後天性スキルとしてはまだない。つまり、地球で普通に生きていた俺には、当然だが戦闘経験も訓練も積み上がっていない。


その代わり、鉤爪戦闘術。


嫌な名前だ。


だが今の体には合っている。剣の代わりにこの鉤爪を使えということだろう。


「レベル1の一般人が六十前後だったはずだから……」


俺は静かに計算する。


それを思えば、これでもかなりましだ。全部が凡庸以下というわけじゃない。知性や精神点はむしろ高い。生命点、生命力、敏捷性も低すぎるわけではない。ストーカーとしては初期個体の中でも、だいぶ当たりの部類かもしれない。


もちろん、その当たりの姿がこれなのは全然嬉しくないが。


「初級は、やり始めて少し上手くなった状態……」


そこも思い出す。


スキルの習熟段階。初級は初心者を抜けたばかり。使い方を知ってはいるが、戦場で信頼できるほどではない。中級でようやく実戦の柱になり、上級で一流、達人級で看板級。そんな基準だった。


なら鉤爪戦闘術も忍びも探知も、まだ過信は禁物だ。


使える、だが頼り切るには早い。


そこまで整理してから、俺はもう一度先天性スキルを見る。


鑑定、収納、魔法の素質、豪運、王命。


「……鑑定が使えた」


それが何より大きかった。


鑑定には段階がある。


第一段階で物を鑑定できる。

第二段階で自分や人を鑑定できる。

第三段階で人に宿る潜在能力が鑑定できる。

第四段階で物に宿っている由来やスキルが鑑定でき、自分が持っていないスキルなら訓練により取得できる。


そこまで、自分で設定したことをはっきり覚えている。


そして今、自分自身を鑑定できた。


「少なくとも第二段階にはいる」


その事実に、俺はようやくほんの少しだけ安心した。


第一段階止まりじゃない。


物だけ見えても困る。今の自分の状態も、これから会う相手の状態も見られなければ、遺跡での生存率は大きく落ちる。第二段階に届いているなら、人型の相手、あるいは理性ある個体を見分けるのにも役立つ。


十六階を目指す上で、これはかなり重要だった。


「よかった……」


その言葉が、かすれた本音として漏れた。


よかった、なんて言える見た目でも状況でもない。だが、使えるものが確かにあるというだけで、人は少し持ち直せるらしい。


俺はすぐに視線を巡らせる。


周囲。


瓦礫。


通路。


薄暗い光。


足音は、今はない。


だが、いつまた来るか分からない。


俺は半透明の板を消すように意識する。すっと消えた。


できる。


収納も試したい。王命も、そのうち必要になる。魔法の素質があるなら魔力操作の感覚も確認したい。だが、今この場で全部は危ない。


優先順位。


渇望。

隠れる。

十六階へ行く。


男の言葉を思い出す。


俺はもう一度、瓦礫の陰に身を低くした。


そして、短く整理する。


「自分はストーカー」

「理性はまだある」

「鑑定は第二段階」

「戦闘系は鉤爪戦闘術だけ」

「忍びと探知も使える」

「豪運と王命がある」

「レベル1だが、一般人よりは上」

「十六階を目指す」


一つずつ、頭の中に打ち込む。


今は恐怖に飲まれている暇はない。


いや、怖いものは怖い。醜いものは醜い。見た目に慣れる気もしない。左目の塞がった感触も、青白い皮膚も、鉤爪も、全部が気持ち悪い。


それでも、動かなければ終わる。


俺はそっと右手の鉤爪を見つめた。


これが、今の俺の武器だ。


剣じゃない。杖でもない。自分の肉体そのものだ。


「……最悪だな」


小さく呟く。


だが、呟いたあとで少しだけ息が整った。


最悪でも、現実だ。


なら使うしかない。


俺は心の中で、もう一度だけ念じる。


渇望。


その言葉と一緒に、次にやることを決めた。


まずは探知を試す。


近くに何がいるか、少しでも分かれば動き方が変わる。闇雲に玄室へ向かうよりましだ。そして、隙があれば収納も確認する。遺跡内で何か拾えるなら、その価値は大きい。


焦るな。


でも止まるな。


俺は瓦礫の陰に身を伏せたまま、ゆっくりと周囲へ意識を広げようとした。

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