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第八話。

「最後に何かしたいことはないか?」


男は、明日ちょっと遠出でもするか、くらいの気軽さでそう聞いてきた。


俺は少しだけ考えて、それから言った。


「……カツ丼が食いたい」


男は一瞬きょとんとしたあと、吹き出した。


「よりによって最後の飯がカツ丼か」


「最後だからだろ。変に気取ったもんより、そういうのがいい」


「なるほどな」


男が指を鳴らすように手を軽く動かすと、目の前のテーブルに湯気の立つ丼が現れた。


蓋つきだった。


俺はその蓋を取る。


ふわっと湯気が立ちのぼり、甘辛い出汁の匂いが鼻を打つ。半熟気味の卵がとんかつをとじていて、玉ねぎは少しくたっとしている。三つ葉まで乗っていた。


「……本気で出すのかよ」


「だから最後にしたいこと聞いたんだろ」


「いや、出せるんだなって」


「出せる」


「便利すぎるだろ」


「今さらだな」


俺は箸を取った。


一口食う。


「うまい」


思わずそう言った。


揚げたてみたいに衣がまだ少し生きていて、肉は柔らかい。出汁は甘すぎず辛すぎず、白飯とちょうどいい。腹が減っていたわけでもないはずなのに、食い始めたら止まらなかった。


男は向かいで頬杖をつきながら、面白そうにそれを見ている。


「そんなに気に入ったか」


「うるさい。食ってる時に喋らせるな」


「はいはい」


最後の飯にカツ丼。


なんだそれ、と思う自分もいた。もっとあるだろう。家族に会いたいとか、人生を振り返るとか、そういうのが。


けれど、今の俺にはこれでよかった。


温かくて、うまくて、妙に現実的なもの。


それを噛みしめている間だけは、世界だの魂だのストーカーだの、そういう全部から少し離れていられる気がした。


俺は黙々と食べた。


男は変に急かしもしない。


ただ、待っていた。


最後の一口を飲み込んだ時、妙に満たされたような、逆にひどく空っぽになったような、変な気分になった。


箸を置く。


「ごちそうさま」


「お粗末さま」


男はそう言って、小さく笑った。


それから、少しだけ目を細める。


「時間だ」


俺は黙って頷いた。


ここで何か格好いいことを言えるほど、俺はできた人間じゃない。覚悟が決まったかと言われれば、そんなこともない。怖いものは怖いし、嫌なものは嫌だ。


それでも、行くしかない。


男は片手を上げた。


「じゃあな」


軽い調子だった。


本当に最後の別れみたいに湿っぽくされるよりは、その方がよかった。


俺は短く返す。


「……ああ」


次の瞬間、男が手を振った。


白い世界が、ふっと遠ざかる。


視界が崩れる。


音も、光も、感覚も、一気に引き剥がされるみたいに消えていった。


そして、俺の意識は暗転した。


しばらく、何もなかった。


長かったのか短かったのかも分からない。ただ、底のない暗闇に沈んでいるような感覚だけがあって、やがてその暗闇のどこかに、わずかな音が生まれた。


水滴か、風か、布が擦れる音みたいな、ごく小さな音。


そこから、少しずつ世界が戻ってくる。


意識が浮かび上がる。


まず感じたのは、静寂だった。


重たい静けさ。


耳が詰まったような静けさではない。むしろ音はある。どこか遠くで水の落ちる音。何かがきしむような微かな響き。けれど、それらを全部包み込んでしまうほど大きな沈黙が、空間そのものに満ちていた。


俺は目を開けた。


暗い。


だが、真っ暗ではない。


どこからか青白い、弱い光が差している。燐光か、古い魔導灯の残滓か、あるいは遺跡そのものが漏らしている光なのか。薄暗い石の空間が、その頼りない明かりの中にぼんやり浮かんでいた。


ヴァシュウ遺跡十五階層。


そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。


本当に来た。


男の話は、全部。


俺は反射的に周囲を見渡した。


広い通路のような場所だった。石壁はところどころ崩れ、床には砕けた石片が散らばっている。少し先に、大きめの瓦礫が積み重なってできた陰が見えた。


隠れ場所。


その認識が頭に浮かんだ瞬間、体が動いた。


いや、動かそうとした。


妙に重い。


けれど動く。足もある。腕もある。二足で立っているらしい。そのことに安堵する暇もなく、俺はよろめきながら瓦礫の陰へ向かった。


石片を踏む音がやけに大きく感じる。


壁に肩をぶつける。痛い。だがその痛みが、逆に少しだけ意識を繋いだ。


瓦礫の陰にたどり着き、その場に座り込む。


座った、その瞬間だった。


来た。


渇き。


恐怖。


狂気。


痛み。


衝動。


それは順番に来たんじゃなかった。全部が一斉に、喉と腹と頭蓋の内側に叩き込まれるみたいに襲ってきた。


「ぐ……っ」


声が漏れた。


いや、声というより、獣の喉が鳴るみたいな低い音だった。


喉が焼ける。


腹がねじれる。


皮膚の内側を針で掻き回されるような痛みが全身に走る。


怖い。


何が怖いのかも分からないのに、とにかく怖い。この暗い遺跡も、自分の体も、漂う臭いも、全部が異物で、全部が敵みたいに感じる。


そしてそれと同時に、猛烈な衝動が湧き上がる。


壊したい。


噛みたい。


引き裂きたい。


何かを食い破りたい。


その衝動に名前をつけた瞬間に終わる、と、男が言っていた気がした。だがそんな理屈は一瞬で吹き飛ぶ。頭の中が熱い。赤い。視界の端がじわじわ染まっていく。


やばい。


自分が自分でなくなる。


そう思ったのに、思考はもう綺麗な形を保てなかった。


口が勝手に開く。


喉の奥から、低く濁った唸り声が漏れた。


「ぐる……あ……」


その音を、自分で聞いた。


その瞬間だけ、ほんのわずかに意識が戻る。


今のは何だ。


俺の声か。


違う。


違うのに、俺の口から出た。


その違和感が、崩れかけた意識に一本だけ杭を打ち込んだ。


言葉。


何か言う。


何だ。


何だった。


短くて、強くて、自分を自分に戻す言葉。


思い出せ。


か。


か……。


頭の中で音だけが転がる。


か、か、か。


喉が鳴る。視界がまた赤く滲む。駄目だ、まとまらない。逃げるように意識が散っていく。


か。


か。


か……。


その時、不意に胸の奥から引っかかるものがあった。


何者かになりたい。


手を伸ばしたい。


飢え。


欲。


求めること。


「……かつ」


違う。


違うが近い。


もっと芯だ。


もっと短い。


「……かつ……ぼ……」


唇とも牙ともつかない口の形が、ぎこちなく動く。


そしてようやく、俺はそれを掴んだ。


「……渇望」


掠れた声だった。


ほとんど息みたいな音だった。


けれど、確かに言った。


その一言が、頭の中の散りかけた何かを少しだけ引き戻す。


「渇望」


もう一度。


「渇望」


何度も。


意味を考えなくていい。ただその音を繰り返す。


渇望。


渇望。


渇望。


喉の焼ける痛みは消えない。腹の底をかき回す衝動も消えない。怖さも、痛みも、狂いそうな熱も、全部そのままだ。


だが、それらの真ん中に、細い杭みたいにその言葉だけが立つ。


渇望。


俺はそれを念じ続けた。


何度も、何度も、何度も。


すると、ほんの少しだけ、呼吸が戻ってきた。


呼吸と言っていいのか分からない。だが少なくとも、バラバラに裂けそうだった意識が、少しまとまり始める。


赤く染まりかけた視界が、まだらになっていく。


耳に入る音も少しはっきりしてきた。


その時だった。


足音。


石の床を踏む、乾いた音。


俺は反射的に体を伏せた。


瓦礫の陰に身を沈める。


渇望。


念じ続ける。


足音は一つではないかもしれない。いや、一つだろうか。頭がまだ鈍い。判断が遅い。だが、近づいてきていることだけは分かる。


渇望。


渇望。


息を止める。


いや、止めすぎるな。少しだけ、少しだけ。


瓦礫の隙間から見える通路の端に、影が揺れた気がした。だが、顔を上げるわけにはいかない。見た瞬間に体が反応してしまう気がした。


怖い。


襲われるのが怖い。


同時に、襲いたくなるのが怖い。


その二つがごちゃ混ぜになって、また意識が濁りそうになる。


渇望。


渇望。


念じる。


音が近い。


一歩。


また一歩。


そして、ぴたりと止まった。


心臓が跳ねる。


いや、心臓はまだあるのか。そんなことも分からない。


ただ、とにかく何かが止まった。


俺は身を固くした。


来る。


見つかったか。


王命。


いやまだだ。


動くな。


渇望。


頭の中で言葉だけを握りしめる。


数秒だったのか、もっと長かったのか分からない。


永遠みたいな静止のあと。


足音はまた始まった。


一歩。


二歩。


三歩。


今度は、少しずつ遠ざかっていく。


俺はそれでもすぐには動けなかった。


渇望。


渇望。


念じる。


音がさらに離れる。


ようやく、本当に去ったと分かったところで、俺は浅く息を吐いた。


「……っ、は」


掠れた呼気が漏れる。


助かった。


まだ、助かっている。


意識は半分ほど濁ったままだ。体の内側では渇きも衝動もずっと燻っている。だが、さっきよりはましだ。


少なくとも今、俺は自分が瓦礫の陰に伏せていて、足音をやり過ごしたことを理解できている。


それだけで十分だった。


俺は額を、いや額がどこまで人間の形をしているかも分からない顔の前面を、冷たい石に押しつけるようにして、もう一度だけ心の中で念じた。


渇望。


その言葉は今や、祈りというより命綱だった。

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