第七話。
「十五階は、中央に祭祀場がある」
男がそう言うと、空中にまた半透明の図が浮かび上がった。
今度は階層の断面図ではなく、十五階そのものの見取り図だった。円形に近い広いフロアの中央に大きな空間。その周囲に、蜂の巣みたいにいくつもの部屋が散っている。通路はまっすぐなようでいて少しずつ角度がずれていて、全体として妙に落ち着かない構造だった。
「祭祀場の周りに玄室がいっぱいある」
「墓所みたいなもんか」
「近いな。埋葬、封印、儀式、保管……用途は混ざってる。お前の設定だと、元々は死者を弔う場所でもあり、何かを閉じ込める場所でもあった」
「嫌な階だな」
「かなりな」
俺は椅子から少し身を乗り出し、見取り図を睨んだ。
中央祭祀場。
その周囲を囲む玄室群。
覚えている。十五階は広域型で、見通しの良い通路と死角だらけの小部屋が混在していた。探索者にとっては休憩場所を見つけやすい半面、追われると逃げ場に困る。しかも中央の祭祀場は音が響きやすく、戦闘をすれば周囲の何かを呼びやすい。
男はその中央を指差した。
「転移直後、お前はたぶんまともに動けない」
「……そうだろうな」
「渇き、狂気、恐怖、飢え、痛み、衝動。色々来る」
聞くだけで嫌になる。
だが嘘ではないと分かる。ストーカーは呪いに飲まれた人間だ。理性が最初からすっと残っているなら、あそこまで厄介な存在にはならない。
男は淡々と続けた。
「だからまずは、理性を取り戻すために何か自分に言い聞かせる簡単な言葉を決めろ」
「言葉……」
「長いのは駄目だ。文章も駄目。短くて、強くて、お前をお前に戻す言葉がいい」
俺は黙った。
白い空間の中で、十五階の見取り図が静かに浮かんでいる。
短い言葉。
自分を保つ言葉。
何がある。名前か。俺、か。レイ、か。いや、それでは弱い気がした。どちらも今の俺にとっては少し曖昧だ。地球での俺も、向こうでの俺も、どちらも本物で、どちらも今は揺れている。
なら、もっと芯に近いもの。
俺がずっと書いてきたもの。
ずっと追ってきたもの。
その時、自然に一つの言葉が浮かんだ。
「……渇望」
男が俺を見る。
「ほう」
「俺の小説で、一貫して書いてたものだ」
口に出すと、妙にしっくりきた。
渇望。
何者かになりたいという気持ち。手を伸ばしたいという気持ち。持たざる者が、それでも上を向く衝動。俺が物語の中で何度も何度も主人公に背負わせたもの。
たぶんそれは、俺自身の中にもずっとあった。
普通の男として押し込められていても、消え切らなかった何か。
「それをコマンドワードにする」
男は小さく頷いた。
「悪くない。むしろかなりいい」
「理性が飛びそうになったら、ひたすら念じろってことだな」
「そうだ。意味を思い出せ。お前が何を求めていたか、自分で自分に繋ぎ直せ」
俺は一度目を閉じて、その言葉を頭の中で反復した。
渇望。
渇望。
渇望。
短い。鋭い。忘れにくい。
しかも今の状況に嫌なくらい合っている。ストーカーになった直後の渇きにも、何者かになろうとする欲にも、どちらにも引っかかる言葉だ。
俺は目を開ける。
「これでいく」
「よし」
男はそう言って、見取り図の一角を軽く拡大した。
中央祭祀場から少し外れた、玄室の連なる区画。狭い通路、行き止まり、小さな部屋。そこにいくつか薄い印がついていく。
「で、準備だ」
「準備」
「転移してから考える時間はあまりない。だから今のうちに、十五階の地図を頭に叩き込め。動きのシミュレーションもしておけ」
「分かってる」
俺はすでに、半分そのつもりでいた。
見取り図をじっと見る。
中央祭祀場から距離を取れる玄室帯。ボス部屋への接続通路がある方角。身を隠しやすい場所。袋小路になる場所。逆に視界が開けすぎて危ない場所。
男が指を動かすたび、図は拡大したり回転したりした。
「転移地点は完全固定じゃない。だが、十五階中央寄りに落ちる可能性が高い」
「祭祀場の近くか」
「近いだろうな」
「最悪だ」
「だから初手は走るんじゃない。まず耐える」
その一言で、頭の中の優先順位が整理される。
そうだ。初手は移動じゃない。
理性の確保だ。
ストーカー化直後の混乱を越えないと、地図も計画も全部意味がない。
俺は椅子の背にもたれず、前傾のまま見取り図を追った。
「最初はその場で蹲るか、壁に寄るか」
「できれば人目につきにくい陰だな」
「見つからないことが第一か」
「いや」
男は首を横に振った。
「第一は、お前がお前でいることだ」
その言い方に、俺は少しだけ顔を上げた。
男は軽い調子ではなかった。
「姿を隠しても、理性が飛べば終わりだ。だから最初は、『渇望』を念じろ。呼吸を整えろ。衝動が来ても、それに名前をつけるな。ただ渇望を繰り返せ」
俺はその言葉を、ほとんど反射で頭の中に書き留める。
渇望を念じる。
呼吸。
衝動に名前をつけない。
男はさらに続けた。
「少しでも落ち着いたら、次は周囲を見る。自分の手足、視界、匂い、音。ストーカーとして何ができるかを把握しろ」
「自分の状態確認か」
「そう。四足か二足かでも違うし、腕がまともに使えるかでも違う。声が出るか、魔力が回るか、そこも重要だ」
確かにその通りだ。
ストーカーといっても個体差が大きい。人型に近いものもいれば、大きく崩れたものもいる。もし人型に近ければ移動も隠密もやりやすいが、異形が強ければ別の利点もあるかもしれない。
俺は見取り図から目を離さず聞いた。
「王命は最初から使えると思うか」
「使える可能性は高い」
「可能性、か」
「ただし、お前自身が混乱してたら精度は落ちるだろうな」
「まず理性、次に把握、だな」
「そういうことだ」
俺は図の中で、祭祀場からボス部屋方面へ伸びる通路を目で追う。
一直線に行けるわけじゃない。途中で玄室帯を抜けるか、大回りして巡回の少なそうな回廊を使うか。どちらにしても、気配を読む必要がある。
「ボス部屋の手前には何があった」
「お前の設定だと、広間が一つ。半壊した石柱群。見通しは悪くないが、身を隠せる遮蔽はある」
「前哨戦向きだな」
「そうだな」
俺は頭の中で流れを組む。
転移。
渇望。
理性確保。
自己確認。
周囲確認。
玄室帯へ退避。
巡回を避けて移動。
ボス部屋手前まで接近。
強個体確認。
王命を試す。
問題は、その途中で何に遭うかだ。
男がふいに言った。
「考えすぎるなよ」
「無理だろ」
「お前、高速思考があるせいで、枝を伸ばしすぎる傾向がある」
「初耳だが」
「今見てて思った」
失礼なやつだ。
だが、少し当たっている気もした。俺はシミュレーションを始めると、条件分岐をどんどん増やしてしまう。書き物の癖でもある。あの場合こう、この場合こう、と考えているうちに動けなくなることがある。
男は指を三本立てた。
「だから最初は三つだけ覚えとけ」
「三つ」
「渇望」
一本目。
「隠れる」
二本目。
「十六階へ行く」
三本目。
「これだけでいい」
俺は少しだけ息を吐いた。
確かにそれで十分かもしれない。
細かい判断は現地でしかできない。だが軸が三つあれば、迷いに飲まれにくい。
渇望。
隠れる。
十六階へ行く。
俺はその順番ごと、頭に刻みつけた。
男は見取り図をゆっくり回しながら言う。
「ボス部屋に入る時、お前はたぶん怖いぞ」
「今から怖いが」
「だろうな。だが相手もストーカー強個体だ。理屈が通じない相手ではあるが、同時に『命令される側』の枠にいる可能性がある」
「王命が刺さる可能性」
「そう。最初から勝とうとするな。止める、退かせる、道を開けさせる。そこを狙え」
俺は頷く。
「単純命令」
「そう」
「長い文は駄目」
「たぶん駄目」
「なら……『止まれ』、『退け』、『伏せろ』あたりか」
「その辺は候補だな」
俺は頭の中で試す。
止まれ。
退け。
道を開けろ。
音の強さまで想像してみる。命令は短い方がいい。発声できるならなおさらだ。発声が駄目なら、意志だけで通す可能性もあるのか。その辺は分からない。
男は俺の表情を見て、口元を少し緩めた。
「だいぶ乗ってきたな」
「乗ってるわけじゃない」
「そうか?」
「生き残る算段をしてるだけだ」
「それでいい」
白い空間の中で、十五階の地図だけがやけに鮮明だった。
俺は目を閉じて、それを頭の中に描く。
中央の祭祀場。
周囲の玄室。
通路の曲がり角。
広間。
ボス部屋へ至る線。
何度も、何度もなぞる。
小説を書く時にも、似たことはした。舞台を頭の中で歩き回って、人物の動線を確認して、ここで何が見えるか、どこから音が響くかを想像する。
違うのは、今度はそこを自分が歩くことだ。
自分が、化け物の姿で。
俺は目を開けて、小さく息を吐いた。
「……渇望」
試しに口に出してみる。
たった三音節なのに、不思議と芯に触れる感じがあった。
男は満足そうに頷いた。
「いいな」
「これをひたすら念じればいいんだな」
「念じろ。噛みつきたくなっても、暴れたくなっても、怖くて崩れそうでも、まずそれだ」
俺はもう一度頷いた。
「渇望」
今度はさっきより、少しだけはっきり。
白い空間にその言葉が落ちる。
まるで合図みたいだった。
男はカップを持ち上げ、中身を飲み干した。いつの間にか空だったはずなのに、なぜかまた入っている。もうそこには突っ込まないことにした。
「そろそろ準備を、だな」
その一言で、空気が少し締まった。
いよいよか、と分かる。
俺は最後にもう一度、十五階の地図を頭に描いた。祭祀場。玄室。回廊。広間。ボス部屋。十六階への道。
そして、その最初に置く言葉。
渇望。
俺は何度もそれを心の中で反復しながら、可能な限りのシミュレーションを始めた。
転移した瞬間、視界はどうなる。
体はどうなっている。
呼吸はできるか。
四肢は動くか。
最初に何が見える。
何が聞こえる。
祭祀場に近いならどの方向へ壁がある。
玄室に逃げ込むなら右か左か。
巡回が来たら伏せるか、隠れるか。
自分の姿を見た時、正気を保てるか。
その時、何を思う。
何を言う。
渇望。
言葉を置くたび、散りそうになる思考が少しだけまとまった。
たぶん、向こうでもそうするしかない。
渇望。
隠れる。
十六階へ行く。
俺はその三つを、何度も何度も頭の中でなぞった。白い世界が消えても消えないように。化け物になっても、そこだけは残るように。




