第六話。
「ヴァシュウ遺跡は二十階層のダンジョンだ」
男はそう言って、今度は空中に遺跡の簡易図みたいなものを浮かべた。縦に連なる層が薄い光で描かれ、十五の位置が淡く明滅している。
「お前の設定では、十七階までは細かく書いてある」
「……ああ」
覚えている。
ヴァシュウ遺跡は、俺の小説の中でもかなり気合いを入れて作ったダンジョンだ。階層ごとの特色、罠、出現モンスター、空気感、遺構の由来。読者に伝わるかどうかはともかく、書いている自分としてはかなり好きな場所だった。
男は続ける。
「十八、十九、二十階は、お前は設定を書いていない」
俺は眉をひそめた。
「書いていない、じゃなくて、固まってなかったんだよ。終盤で使うつもりはあったが、そこまで本編が進かなかった」
「結果として空白になってる」
「……そうだな」
その言い方に少し嫌なものを感じた。
空白。
作者としては未設定の余地、くらいのつもりだった。だが今の話の流れでその単語が出ると、まるで世界そのものに空白地帯があるみたいに聞こえる。
男は俺の表情を見て、軽く頷いた。
「ここに何かある可能性が一つ」
「何か、かよ」
「未設定ってのは、向こうの世界だと『未確定』に近い。固定されてないぶん、変なものが育つ余地もある」
嫌な予感しかしない。
俺は腕を組んだ。
「俺が書かなかったせいで、わけの分からん何かがいるかもしれないってことか」
「ざっくり言えばそうだ」
「最悪だな」
「だから今すぐそこを目指せとは言わん」
男はさらっとそう言って、遺跡図の十六階付近を指で叩いた。
「もう一つは、お前が裏設定で出そうとしていた十六階の住民のことだ」
その言葉に、俺は少し目を見開いた。
裏設定。
確かにあった。
本編に出す前のメモの中にだけ置いておいた設定。書こうと思っていたが、タイミングや尺の都合で表に出さなかったもの。
「理性を持った不死者たち」
男が言う。
俺は小さく息を吐いた。
「……覚えてる」
「迷いの魔法のかかったフロアのあちこちで、理性ある強個体が部下のアンデッドを従えて住んでいる、だったな」
「そうだ」
十六階は不死者のフロア。
ただのアンデッドの群れじゃない。迷いの魔法によって侵入者を翻弄し、各区域には理性を残した強力な不死者が根を張る。リッチ、デスナイト、ワイトロード、ヴァンパイア、あるいはもっと固有名を持った特別個体。そういう存在を配置するつもりだった。
単なる敵の階層ではなく、交渉もあり得る危険地帯として。
男は俺の目を見たまま言う。
「そいつらが、何らかの形で理性を保つ方法を知ってる可能性がある」
その一言に、胸の奥がわずかに動いた。
「……ストーカーの俺でもか」
「少なくとも、完全に門前払いよりは望みがある」
「何でだ」
「十六階は不死者のフロアだ。お前はストーカーになる。分類として完全に同一ではないが、生者とは明確に違う側へ寄る」
男は遺跡図の十五階から十六階へ指を滑らせる。
「敵認定されない可能性がある」
俺は黙った。
その可能性は、確かに大きい。
人間として迷い込めば十六階は厄介だ。理性ある不死者は侵入者を嫌うし、部下のアンデッドも多い。だが、もし俺がストーカーとして、同じく呪いや死に近い側の存在として見られるなら。
話せる余地があるかもしれない。
男は静かに言う。
「だから、まずは十六階にたどり着くことを考えたらいいんじゃないかと思う」
俺は遺跡図を見つめたまま、低く聞いた。
「十五階から十六階へは、素直に降りられる構造だったか」
男は首を横に振る。
「下へ降りるには、ボス部屋に入って、ボスを何とかするしかない」
俺は思わず顔をしかめた。
「やっぱりそうか……」
覚えている。
十五階は中継地点みたいな広域フロアだが、下階への正規ルートは封鎖型だった。階段や転移陣はボス部屋の先にしかなく、しかもボスを倒すか、何らかの条件を満たさないと道が開かない。
男が口元を少し上げた。
「王命が利けばいいな、と思う」
「軽く言うなよ」
「希望はあるだろ」
「相手次第だ」
「相手次第だな」
俺はすぐに次を聞いた。
「ボスは何だ」
男はあっさり答えた。
「ストーカーの強個体だった」
沈黙が落ちた。
嫌な想像が、すぐに形になる。
十五階のボス部屋。そこにいるのは、ただの魔物でも、ただの大型アンデッドでもない。俺と同じ系統の、だがより強く、より深く呪いに沈んだ個体。
言ってしまえば、先輩みたいなものだ。
全然嬉しくない。
俺はこめかみを押さえた。
「……つまり、ストーカーになった俺が、十五階のボス部屋に行って、ストーカーの強個体をどうにかして、十六階に降りる」
「そういうことだ」
「どうにかって、倒すのか、命令するのか、すり抜けるのか」
「そこは状況次第だな」
「雑だな、本当に」
「全部決め打ちできる相手じゃない」
それは分かる。
強個体のストーカーは、俺の小説でも厄介な存在だった。普通の個体よりも理性の残滓が強く、戦闘技術も高く、単なる突撃ではなく狩りに近い動きをする。元が戦士系なら武技を、魔術師系なら呪い混じりの魔法を、斥候系なら潜伏と奇襲を凶悪な形で使ってくる。
しかも、ボス個体ならなおさらだ。
俺は遺跡図を見つめながら、ぽつりと言った。
「王命……」
男が頷く。
「単純な命令なら通りやすいんだろ」
「ああ」
「なら、『止まれ』か『退け』か『道を開けろ』あたりか」
「現実的だな」
「『死ね』は通りにくそうだしな」
「かなりな」
男はそこだけ少し真顔で答えた。
俺は小さく息を吐く。
頭の中で、もう勝手に組み立てが始まっていた。十五階に転移した直後、理性がどこまであるか。身体能力はどうか。言葉は話せるか。隠れるべきか、動くべきか。ボス部屋の位置までのルート。そこでの初手。王命の使いどころ。失敗した場合の逃走線。
高速思考、というスキル名がふと頭をよぎる。
なるほど、こういう時に回るのかもしれない。
男はそんな俺を見て、少しだけ笑った。
「もう考え始めてるな」
「考えないと死ぬ話をしてるんだろ、お前は」
「そうだな」
「なら考える」
俺は言い切ってから、自分で少し驚いた。
さっきまで、ストーカーになることへの嫌悪と恐怖で頭がいっぱいだった。今もそれは消えていない。むしろ重く残っている。
けれど、道筋が一本見えたことで、思考がそっちへ寄り始めていた。
最悪の中でも、最初に目指す場所がある。
十六階。
理性ある不死者たち。
そこにたどり着ければ、理性を保つ方法や、少なくとも時間を稼ぐ手段が見つかるかもしれない。
男はテーブルに指先で軽く円を描いた。
「整理するとこうだ」
空中に短い文字が並ぶ。
十五階で生存
↓
ボス部屋到達
↓
強個体ストーカー対処
↓
十六階へ下降
↓
理性ある不死者との接触
俺はその流れを見て、苦い顔になる。
「文字にするとシンプルだな」
「やることはシンプルな方がいい」
「内容が全然シンプルじゃない」
「そこはまあ」
「まあで済ますな」
男は笑ったが、すぐに真顔に戻った。
「ただ、十六階を目指す方針自体は悪くない。十八以降の未確定地帯に突っ込むよりよほど現実的だ」
「十七階は?」
「十七階までは設定済みだが、そこまで下る理由が今の段階では薄い。十六階で情報と足場を作れるなら、まずそっちが先だ」
確かにそうだ。
いきなり深部を目指すのは無謀だ。今の俺に必要なのは、答えそのものより、生き延びて理性を保つための猶予だ。
俺は遺跡図から目を離し、男を見た。
「一つ確認」
「何だ」
「十六階の理性ある不死者たちは、俺の裏設定通りにいる可能性が高いんだな」
「高い」
「敵じゃない可能性もある」
「ある」
「でも、味方とは限らない」
男はゆっくり頷く。
「当然だ」
そこは甘くないか。
少しだけ安心しそうになっていた気持ちを、そこで引き締め直す。
理性があるから話せる。だが、話せる相手が優しいとは限らない。向こうから見れば、突然迷い込んできた半端な呪われ者だ。研究対象かもしれないし、利用価値を見られるかもしれないし、単に面白がられるかもしれない。
それでも、ただの魔物よりはましだ。
俺はもう一度、十五階と十六階の位置を見た。
「……ボスがストーカー強個体ってことは、俺に反応する可能性は高いな」
「高いだろうな」
「同類を嫌うか、同類だから見逃すかは分からん」
「分からん」
「王命が通るならいいが、通らなかったら」
「逃げるか、知恵を使うか、運を引くかだ」
「最後のやつ、だいぶ運任せだな」
「豪運持ちだろ、お前」
言い返せなかった。
確かにそうだ。
持っているなら、使う前提で考えるしかない。
俺は小さく息を吐いて、椅子にもたれた。
ストーカーになることは変わらない。
ヴァシュウ遺跡十五階層に飛ばされることも変わらない。
だが、その先に十六階という目標がある。そこで理性を保つ方法、あるいは解呪までの延命策を探る。これは、少なくとも動き方としては明確だ。
男は俺の顔をじっと見てから言った。
「少しは形になったか」
「ああ」
「どうする?」
俺は即答した。
「まずは十六階を目指す」
男がわずかに頷く。
「そのために十五階で生き残る」
「そうだ」
「ボス部屋に入る」
「そうだ」
「ストーカーの強個体を何とかする」
「そこが山場だな」
「王命が通ることを祈る」
男はそこで少し笑った。
「祈る相手には気をつけろよ」
「女神はもうこりごりだ」
「それがいい」
短いやり取りのあと、白い空間にまた静けさが戻る。
俺はその静けさの中で、自分の中に少しだけ変化が生まれているのを感じていた。
恐怖は消えない。
嫌悪も消えない。
ストーカーになるなんて、今でも受け入れたくない。
けれど、何も見えない地獄ではなくなった。
進むべき方向だけは見えた。
それだけで、人は少しだけ踏ん張れるのかもしれない。
俺は男に向かって言った。
「他にもあるんだろ。十五階の情報とか、ストーカーになった直後のこととか」
男は口元を上げる。
「ある」
「なら全部話せ」
「いい顔になってきたな」
「褒めてる場合か」
「褒めてるんじゃない。生き残れそうな顔になってきたってだけだ」
その言葉に、俺は少しだけ目を細めた。
ムカつく言い方だ。
だが、否定はしなかった。




