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第五話。

「じゃあ悪い方だ」


男はそう言って、さっきまで浮かんでいた半透明の板を指先で払った。板は音もなく消える。


空気が少し冷えた気がした。


いや、温度なんて最初から分からない場所だ。けれど、少なくとも俺の気分は一気に冷えた。


「お前は人間だが、変質した人間になる」


「……変質した人間」


言葉を反芻した瞬間、嫌な予感が一気に膨らんだ。


男は俺の顔を見て、わずかに目を細める。


「お前は、ストーカーという単語に覚えがあるか?」


その一言で、背筋にぞわりとしたものが走った。


あるに決まっている。


俺は少しだけ表情を強張らせたまま答えた。


「……それは俺の小説にも出したものだ」


「どういうものだった?」


分かっていて聞いているのだろう。だが俺は答えるしかなかった。


「ストーカー。呪いによって魔に飲み込まれた人間だ」


口に出すだけで、脳裏にいくつもの姿が浮かぶ。


肉が異様に膨れたやつ。骨格が歪んで四肢がねじ曲がったやつ。顔の原型を留めているのに、目だけが人ではなくなっているやつ。人間だった頃の名残を残しながら、化け物に成り果てた存在。


俺は続けた。


「見た目は化け物化した人間で、人間を襲う」


男は黙って聞いている。


「元戦士なら戦士の技を使う。元魔術師だったら魔術師の技を使う。僧侶なら僧侶の、斥候なら斥候の技を使う。理性は基本的に壊れてるが、戦い方だけは身体に染みついていて残る……そういうやつだ」


言いながら、自分の声が少しずつ乾いていくのが分かった。


小説の中では、敵として何度も書いた。


悲劇的なモンスター。元は人で、救えないことも多い。だからこそ討伐がただの退治ではなく、物語に重さを生む便利な存在だった。


便利な存在。


そう思って書いていた相手に、今から自分がなると言われようとしている。


男は小さく頷いた。


「そうだ」


その肯定は、あまりにも静かだった。


俺は少し遅れて、その意味を理解する。


そして、理解した瞬間に声が出た。


「……は?」


何度目かも分からない、間抜けな声だった。


だが、今回は今までよりもっと切実だった。


「お前はストーカーとなり、ヴァシュウ遺跡十五階層に転移する」


「は?」


また同じ声が出た。


脳が拒否している。


いや、拒否するに決まっている。人間ではあるが変質した人間になります。しかも小説に出した化け物になります。そのうえ行き先はヴァシュウ遺跡十五階層です。そんな話、どうやって素直に飲み込めというんだ。


俺は思わず身を乗り出した。


「どういうことだ」


男は俺が食ってかかるのを予想していたのか、落ち着いたまま答える。


「お前の魂は転生も、通常の人間への転生もできない」


「何でだよ」


「一度、あの世界で呪われた魂だからだ」


その言葉が、鈍器みたいに重かった。


呪われた魂。


さらっと言うなよ、と思う。だが男の顔は冗談を言う時のものじゃなかった。


「だから、どうやってもストーカーになる」


「どうやっても……」


喉がひどく渇く。


つまり選択肢がないということだ。


人間として生まれ直すとか、記憶を失って普通に暮らすとか、そういう都合のいい逃げ道は最初から存在しない。


俺は拳を握った。


「ふざけんなよ……」


「ふざけてはない」


男の声は静かだった。


「通常なら、地上に転移か転生する。だがそうなると、どこに出ても即討伐対象だ」


それは、俺自身が一番よく分かっていた。


ストーカーは人を襲う化け物だ。討伐されて当然の存在として描いてきた。街の近くに現れれば騎士団や冒険者が出る。村なら自警団でも弓を向ける。見つかれば終わりだ。


男は続ける。


「生まれた直後に死ぬようなもんだ。それを避けるために、ストーカーの発生が多いヴァシュウ遺跡十五階層に転移させる」


ヴァシュウ遺跡。


その名を聞いた瞬間、頭の中に巨大な地下遺跡の光景が広がった。


俺の小説で何度も重要舞台になった場所だ。旧文明の遺構。複雑に入り組んだ大迷宮。強力な魔物が跋扈し、階層ごとに環境も危険も変わる。そして、呪いに関わる何かが深く沈殿していて、ストーカーの出現率が異様に高い。


十五階層はその中でも、かなり下だ。


地上から遠い。人間の探索者も頻繁には来ない。だが、だからといって安全なわけがない。むしろ逆だ。そこまで降りられる連中は強いし、遺跡内に湧く怪物も一段階危険になる。


俺は低く言った。


「……安全圏じゃないぞ」


「知ってる」


「知っててそこに放り込むのか」


「地上よりは生存率が高い」


「比べる相手が最悪すぎるだろ」


男は小さく息をついた。


「お前を普通の人間にできるならそうしてる。できないから、せめて即死しにくい場所に送る」


反論したかった。


だが、その理屈自体は分かってしまう。分かってしまうから余計に腹が立つ。


俺は視線を落とし、テーブルの縁を睨んだ。


ストーカーになる。


ヴァシュウ遺跡十五階層に飛ばされる。


その時点で、もう人生というより生存ゲームだ。いや、人生ですらないのかもしれない。化け物としての存在継続か。


男は俺が沈黙したのを見て、少しだけ声を和らげた。


「ただし、救いがないわけじゃない」


俺は顔を上げた。


「……何だ」


「お前は小説で、ストーカーをヴァシュウ遺跡内で何人も救っている」


胸がざわついた。


確かにそうだ。


俺の小説のレイは、ヴァシュウ遺跡の探索中に何体ものストーカーと遭遇していた。その中には倒すしかない個体もいたが、一部は呪いを解く方法を見つけて救出している。最初は半信半疑だった仲間たちと試行錯誤して、ようやく一人を助け、そこから少しずつ救える例を増やしていく。


男はまっすぐ俺を見た。


「方法は覚えているか?」


その問いに、俺は反射的に答えていた。


「忘れるものか」


自分でも驚くほど、即答だった。


あれは物語の中でも重要な転機だった。レイがただの探索者じゃなく、化け物すら救おうとする王の資質を示す場面として、かなり丁寧に書いた。何度も読み返し、何度も直した。忘れるはずがない。


俺は息を整えてから言う。


「解呪スキル持ちが必要だ」


男は黙って頷く。


「それと、ヒールを使える魔術師」


「うん」


「神聖魔法を使える僧侶」


そこまで言って、俺は少しだけ目を細めた。


必要条件が多い。


当たり前だ。だから救うのが難しかった。呪いは肉体だけじゃなく精神と魂にも食い込む。解呪で呪いの核を削り、ヒールで崩壊しかけた肉体を支え、神聖魔法で魔の侵食を押し戻す。その三つが揃って、ようやく可能性が生まれる。


俺はそこで言葉を切り、男を見る。


「つまり、お前は俺に」


「お前が完全に壊れる前に、そこへ辿り着けと言いたい」


あまりにもあっさり言うので、逆に頭が痛くなった。


「簡単に言うなよ」


「簡単じゃないのは分かってる」


「ストーカーになった俺が、ヴァシュウ遺跡十五階層で、生き残って、しかも解呪できる人間のところまで辿り着くんだぞ」


「そうだ」


「無茶苦茶だろ」


「無茶苦茶だな」


また認める。


本当にこいつは、人の人生を壊す話をする時だけ妙に誠実だ。


俺は思わず笑いそうになった。笑える話じゃないのに、笑うしかないところまで来ている。


「それが救いって言うのか」


「救いがある、って話だ。簡単に助かる、とは言ってない」


白い世界の静けさの中で、その言葉だけがやけに重く残った。


俺は目を閉じる。


ヴァシュウ遺跡十五階層。


石の回廊。湿った空気。崩れかけた広間。魔物の気配。遠くから聞こえる得体の知れない音。そこを、ストーカーになった自分が彷徨う姿が頭に浮かぶ。


人の理性がどこまで保てるのか。


言葉は話せるのか。


自分が自分だと、どれだけ思っていられるのか。


何より。


救われる前に、誰かを襲ってしまったらどうする。


その考えがよぎった瞬間、胃の奥が冷たくなった。


俺は目を開けた。


男は何も急かさず、ただ待っていた。


俺は掠れた声で聞く。


「……俺は、どの程度まで人のままでいられる」


「最初はかなり残る」


「最初は?」


「時間が経てば、呪いに飲まれる」


最悪だった。


だが、分かっていた答えでもあった。


「じゃあ時間制限つきか」


「そういうことだ」


「どれくらい持つ」


男は少し考えるように視線を泳がせた。


「個体差はある。だが、お前の場合は魂が強いぶん、理性も長く残るはずだ」


「はず、か」


「絶対とは言えん」


そこは濁さないのかよ、と少しだけ思った。


けれど、その正直さのおかげで、逆にまだ聞ける気もした。


俺は深く息を吐く。


「……で、その十五階層には、俺を解呪できる連中が来る可能性があるんだな」


「ある」


「お前、まさかそこも俺の小説通りに進むとか言わないだろうな」


男は少しだけ笑った。


「そこまでは言わん。だが、お前が書いた流れは、元になった現実の筋をかなりなぞってる。なら、同じような出会いが起きる可能性は高い」


「可能性、ね」


「確定じゃない。だからお前次第の部分も大きい」


希望があるようで、責任も重い言い方だった。


俺はテーブルの上に置いた自分の手を見る。


さっきまで、スキルの話を聞いた時には、少しだけ現実味のない高揚もあった。鑑定、収納、魔法の素質、高速思考、豪運、王命。そんなものを使えるなら、と。


だがその前提が、ストーカーになることだと言われれば話は別だ。


強いスキルがあろうが、化け物として始まるなら、むしろ使いこなす前に終わる可能性の方が高い。


俺は自嘲気味に呟いた。


「異世界転生どころか、異世界化け物スタートかよ」


男が苦笑する。


「だいぶハードモードだな」


「他人事みたいに言うな」


「当人じゃないからな」


「正直すぎる……」


白い空間に、短い沈黙が落ちた。


俺はやがて顔を上げる。


「確認するぞ」


「おう」


「俺はストーカーとしてヴァシュウ遺跡十五階層に転移する」


「そうだ」


「人間には戻れない。少なくとも最初からは」


「そうだ」


「ただし、解呪されれば人に戻れる可能性がある」


「ある」


「そのためには、解呪スキル持ち、ヒールを使える魔術師、神聖魔法を使える僧侶が必要」


「そうだ」


俺は一つずつ、潰すように確認した。


確認すればするほど最悪だが、曖昧なままよりはましだ。


そして最後に、俺は一番肝心なことを聞いた。


「……俺は、その方法を知っているだけで、今すぐ自力で解けるわけじゃないんだな」


男は首を横に振った。


「無理だ」


即答だった。


「お前一人じゃ解けない」


分かっていた。


分かっていたが、やっぱり少しだけ期待していた自分がいたらしい。その可能性をきっぱり潰されて、胸の奥が重くなる。


男はそこで少し前に身を乗り出した。


「だが、お前は方法を知ってる」


「……」


「それはでかい」


その言葉に、俺はわずかに眉を上げる。


男は続ける。


「普通のストーカーは、自分が救われる方法なんか知らない。知る前に壊れる。知っていても伝えられない。だがお前は違う」


白い空間の中で、男の声だけが妙にはっきり響いた。


「お前は、自分が何になったかを知っている。どこへ行くかも知っている。どうすれば助かるかも知っている」


俺は黙ったまま、その言葉を聞いた。


確かにそうだ。


最悪の状況ではある。だが、完全な手探りじゃない。


ヴァシュウ遺跡のことも、ストーカーのことも、解呪法のことも、俺は知っている。知らされている。何も分からず放り込まれるよりはずっとましだ。


それでも、ましなだけで地獄は地獄だが。


俺はゆっくりと息を吐いた。


「……本当に、百歩譲っても最悪だな」


男は肩をすくめた。


「だから先に説明してる」


「説明されたところで、楽にはならねえよ」


「だろうな」


「けど」


そこまで言って、俺は少しだけ言葉を選んだ。


「何も知らずに化け物になるよりは、まだましだ」


男は、その言葉にだけは真面目に頷いた。


「そうだ」


俺はもう一度、ヴァシュウ遺跡十五階層の暗い景色を頭の中に思い浮かべた。


そこが、俺の次の始まりになる。


人間としてじゃない。


ストーカーとして。


だが、終わりではないかもしれない。


救いの道筋だけは、確かにある。


俺は拳をゆっくり握りしめた。


「……続けろ」


男が目を細める。


「何をだ」


「まだあるんだろ。俺がストーカーになって終わりなわけじゃない顔してる」


男は少しだけ笑った。


「察しがいいな」


「良くなきゃやってられん」


「じゃあ続きだ」


そう言った男の声に、また少しだけ重みが戻った。

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