第十話。
玄室群に向かう。
それが今の最短で、たぶん最も現実的な道だった。
中央祭祀場の近くを大きく回るより、玄室を抜けながらボス部屋へ寄っていく方が早い。危険がないわけじゃない。むしろ狭くて、何かが潜んでいれば逃げ場が少ない。だが広い通路をうろついて見つかるよりはましだ。
俺は瓦礫の陰から身を起こすと、できるだけ音を立てないように足を運んだ。
探知。
忍び。
その二つを強く意識する。
どう使っているのか、自分でも説明はしづらい。ただ、忍びは体の重さを床へ落としすぎない感覚として、探知は周囲の空気の歪みを読むような感覚として働いていた。初級とはいえ、何もないよりずっといい。
渇望。
心の中で一度だけ唱えてから、俺は最初の通路を曲がった。
玄室群は、やはり嫌な空間だった。
石壁に挟まれた狭い通路の両側に、扉や半壊した入り口が点々と続く。玄室一つ一つは小さいが、その数が多い。どこかで何かが動けば、音は壁に反響して妙に近く聞こえる。青白い光は弱く、扉の隙間や奥まった角はほとんど闇に沈んでいた。
途中で、同族とすれ違った。
最初は気配だった。
その次に、影。
そして、暗がりの向こうを、青白い異形がゆっくり横切るのが見えた。
ストーカー。
俺と同じ、だが俺ではない。
肩が異様に広い個体だった。片腕が長く、引きずるように揺れている。顔は半分崩れていて、口の端から何か黒い液が垂れていた。
見た瞬間、腹の底が焼けた。
飛び掛かりたい。
喉元を裂きたい。
あいつの肉を引きちぎりたい。
唐突に湧き上がった衝動に、俺は壁へ爪を立てそうになった。
渇望。
心の中で、叩きつけるように唱える。
渇望。
違う。
俺は違う。
飛び掛かったら終わりだ。
喉の奥から低い音が漏れかけるのを、必死で押し殺す。目の前が少しだけ赤く染まりかけたが、何とか耐えた。
その個体は幸い、俺には気づかなかったのか、それとも気づいても興味を示さなかったのか、そのまま別の通路へ消えていった。
俺はその場で数秒動けなかった。
息をする。
いや、息に似た何かを繰り返す。
渇望。
それでようやく、足を前に出せた。
近くの玄室へ滑り込む。
中に入って、壁際に身を寄せる。
少しだけ暗い。だが、それがありがたい。
「……っ、は」
喉から、掠れた呼気が漏れる。
中で息を整える。
自分を落ち着かせる。
玄室の中は、思っていたより荒らされていなかった。石棺らしき台座が壊れた形跡があり、壁の装飾は剥げ落ちているが、中央付近には一つ、宝箱が置かれていた。
俺は目を細める。
宝箱。
いかにも何か入っていそうな、金具付きの古い箱だ。
開けたくなる。
中身があれば助かるかもしれない。武器、防具、回復薬、魔道具、何でもいい。今の俺には、どんなものでも喉から手が出るほど欲しい。
だが、欲しいからこそ危ない。
「……罠」
小さく呟く。
鍵開けも必要かもしれない。
俺の今の後天性スキルには、それらしいものはない。探知で罠の存在までは何となく分かるかもしれないが、解除できる保証はない。ストーカーの鉤爪で不器用に開けて、爆発でも毒針でも呪いでも食らったら笑えない。
俺は数秒迷って、やめた。
放置する。
今は欲を出すな。
十六階へ行く方が先だ。
俺は宝箱から視線を外し、そのまま次の玄室へ移ろうとした。
その瞬間、探知に何かが引っかかった。
ぴり、と意識の端に走る感覚。
二つ。
近い。
「……二体」
誰かが来る。
それも一つの通路からじゃない。近い位置に二つの影がある。俺は即座にその玄室を諦めた。ここに留まって挟まれるのはまずい。
別のルートへ行く。
俺は扉の近くに行くのをやめ、反対側の出入り口からそっと抜けた。
探知。
忍び。
ゆっくり、慎重に。
足を運ぶたび、石床の感触を読む。視界に映るものだけで動かない。気配の薄い方、音の抜ける方、匂いの少ない方を選んでいく。
次の玄室。
その次。
俺は一つずつ部屋を繋ぐように進んだ。中に入り、奥の扉を開け、また次へ。正面の通路を長く歩くより、玄室の内部を経由した方が見つかりにくい。
中に入り、奥の玄室を開ける。
その時だった。
先程まで俺がいた玄室に、誰かが入ってくる気配。
俺は凍りついた。
飛び掛かりたい衝動がまた腹の底から湧き上がる。
だが動くな。
頼む、こっちに来るな。
俺は石棺の影に身を伏せ、息を潜めた。
渇望。
渇望。
心の中で唱える。
扉の向こうで、何かが部屋を嗅ぎ回るような気配がする。足音は重くない。だが軽くもない。石を引っかくような音が混じっている。
こっちの扉に手をかけられたら終わる。
心臓が暴れている気がした。
いや、本当にまだ心臓があるのかは知らない。だが胸の内側が激しく打っている感覚だけは確かだった。
しばらく待つ。
時間の感覚がまたおかしくなる。
一呼吸が長い。
一秒がやたらと重い。
やがて、扉を開けるような音がして、そして遠ざかる気配がした。
出て行った。
俺はすぐには動かず、さらに数秒待った。
完全にいなくなったのを確かめてから、ようやく息を整える。
「……っ、くそ」
掠れた声が漏れた。
今の時点でこれだ。
この先、ボス部屋まで何度こういう場面があるか分からない。
俺は心の中で渇望を唱えながら、さらに奥の扉を抜けた。
通路に出る。
そこで一度だけ、頭の中で地図をなぞる。
位置は悪くない。
ボス部屋の前室まで、あと二つの部屋を通ればいい。
あと少し。
そう思った瞬間、探知がまた反応した。
左右。
同時。
「……っ」
俺は即座に近くの玄室の影へ身を滑り込ませた。
ちょうど崩れた壁のくぼみがあり、姿を隠すには十分だった。体を押し込めるようにして、そっと通路の方を見る。
同族たちが左右から現れた。
片方は背が高く、肩に骨のような突起がある。もう片方は前屈みで、腕が長い。
二体は通路の中央で止まると、低い唸り声を上げ始めた。
威嚇。
すぐに分かった。
空気が張り詰める。
次の瞬間、殴り合いが始まった。
鈍い衝突音。
爪が石壁を削る音。
唸り声。
どちらも容赦がない。技も何もない乱打かと思いきや、違った。片方は踏み込みが鋭く、もう片方は横への回り込みを使う。元になった戦い方が残っているのが見て取れる。
俺はその最中、思わず鑑定を使っていた。
左の個体。
レベル15、戦士系。
右の個体。
レベル18、戦士系。
「は?」
声が出かけて、慌てて飲み込む。
レベル15と18。
頭がおかしくなりそうだった。
俺はレベル1だ。
桁が違うとは言わない。だが現実として十分すぎる差がある。しかも目の前で殴り合っているこいつらは、ただの通りすがりのストーカーだ。ボスですらない。
敵うわけがない。
王命があるとか、豪運があるとか、そんな話が一気に遠のく。レベル1の俺が、レベル15や18の戦士系ストーカーに真正面から勝てる道理なんてない。
俺は身を縮めたまま、戦いを見守るしかなかった。
しばらくして、決着がついた。
レベル15の方が、勝った。
正確には、勝ったように見えた。
レベル18の個体は一瞬押していたが、何かの拍子に体勢を崩し、首筋に深い一撃を受けた。そのまま壁に叩きつけられ、動かなくなる。
レベル15の個体はしばらく相手を見下ろしていたが、やがて片腕でレベル18の方を引きずり始めた。
ずる、ずる、と石床を擦る音が響く。
それが嫌に生々しい。
食うのか。
どこかへ運ぶのか。
考えたくなかった。
俺はその個体が完全にいなくなるまで、ひたすら隠れていた。
渇望。
渇望。
唱え続ける。
今見た光景に引きずられたら終わりだ。恐怖もある。だがそれ以上に、あの勝った個体に妙な憧れみたいな感情が生まれかけて、それがぞっとするほど気持ち悪かった。
強い。
生き残る。
勝つ。
そういう衝動が、今の体には危険な形で刺さる。
だから、ひたすら渇望を念じる。
ようやく気配が消え、通路が静かになった頃、俺は次の玄室へ入った。
扉を閉めるわけにはいかない。音が出るし、閉めたところで安心材料にもならない。ただ、部屋の奥へ下がって壁に背をつける。
そして、ようやく俺は理解した。
「……ボスだけじゃない」
掠れた声で呟く。
「普通にいるストーカーも、強い」
今さらのことだ。
当たり前のことだ。
ヴァシュウ遺跡十五階層。こんな場所で長く生き残っている個体が、弱いはずがない。
なのに俺は、どこかでまだ甘かったのかもしれない。ボスだけが特別で、普通の個体はもう少し何とかなる、と。そう思っていたわけじゃないのに、現実にレベル差を見せつけられた瞬間、足元が抜けた。
レベル15。
レベル18。
俺はレベル1。
差がありすぎる。
今の俺は、少し隠密ができて、少し探知が使えて、少し鑑定が便利なだけの、化け物になりたてだ。
まともに戦えば終わる。
見つかっても終わるかもしれない。
ボス部屋まであと少し。
なのに、その少しが急にとてつもなく遠く感じた。
絶望感が、じわじわと胸の中に広がっていく。
ここで、死ぬ。
いや、死ぬならまだましなのかもしれない。負けて、もっと深く狂って、何も分からなくなって、ただのストーカーになる。そっちの方がよほど怖い。
俺は壁に頭を預けた。
冷たい石の感触。
渇望。
唱える。
だが今度の渇望は、さっきまでと少し違っていた。
自分を保つための言葉であると同時に、あまりにも遠いものを求める言葉にも思える。
十六階。
理性ある不死者たち。
解呪の可能性。
そこへ至る前に、ここで終わるかもしれない。
その現実が、骨の髄まで染みてくる。
俺は乾いた喉の奥で、無理やり息を整えた。
逃げるのか。
引き返すのか。
いや、引き返したところで何がある。十五階のどこに安全地帯があるというんだ。ここに留まれば、いずれもっと強い何かに見つかるだけだ。
前に進むしかない。
分かっている。
分かっているのに、足がすぐには動かなかった。
「……くそ」
低く、押し殺すように吐き出す。
レベル1。
現実は思っていた以上に重い。
それでも俺は、崩れそうになる意識の底で、なおも渇望という言葉を握りしめていた。




