第四十四話。
十八階へ降りる階段は、途中から空気そのものが変わっていた。
最初は冷えるな、くらいだった。だが数段降りるごとに温度が落ち、息が白くなり、やがて雪がちらつき始める。地下迷宮の中なのに、ここだけは本当に極寒の世界へ口を開けているみたいだった。
「来たか……」
俺は収納からマントを取り出して羽織った。
保温の効果がある魔法のマントだ。肩へかけた瞬間、冷気が一枚薄くなる。寒さが消えるわけじゃないが、体の熱が無駄に逃げなくなるのが分かる。
さらに数段降りると、下の方から吠え声が聞こえてきた。
低く、重く、群れの声だ。
俺は階段の途中で身を伏せ、望遠の術で階下を探る。
見えた。
大きな狼が集まっている。
普通の狼ではない。肩の高さも、頭の大きさも、筋肉のつき方も、すべてが一回りどころではなく違う。獣毛の間に氷の粒が張りつき、吐く息まで凍りそうな勢いだった。
「ダイアウルフか」
前世の知識がすぐに名前を出してくる。
あれはまともに群れで相手をするやつじゃない。しかも、階段の下にたむろしているとなると、こちらへ気づけばすぐに登ってくるだろう。
実際、俺の気配を拾ったらしい。数頭が顔を上げ、そのまま階段を駆け上がってきた。
「ちっ」
俺はすぐにプテラノドンへ変身した。
大きな翼が広がる。
狭い階段で羽ばたくのは気を使うが、背に腹は代えられない。階段の途中から、ダイアウルフの牙が届かない高さまで飛び上がる。
そのまま上空へ抜けようと、高度を上げた。
だが、それがまずかった。
上へ行くほど、雪ではなく雹が降ってきたのだ。
小石のような氷塊が翼と体に叩きつけられる。
「痛っ……!」
羽膜に当たるとたまらない。視界も乱れる。このままでは落とされる。
俺はすぐに高度を落とした。
下へ降りると、雹はまた雪に変わる。
「上は駄目か」
そうなると、空から楽をするのは無理だ。
俺はその場で変身を解き、今度は先ほど見たダイアウルフの姿を思い浮かべた。
骨格。
毛並み。
四肢の太さ。
雪を踏みしめるための足の広さ。
変身。
次の瞬間には、俺もまたダイアウルフになっていた。
「……悪くない」
喉の奥で獣の声が鳴る。
雪原を進むなら、今はこの姿が一番いい。なるべく雪に足を取られないよう、踏み固められているところを選んで走り出す。
だが、そううまくはいかない。
またダイアウルフの群れが出てきた。
五頭。
今度は真正面だ。
俺は稲妻の足で距離を離そうとする。だが雪が深い。足を取られないとはいえ、草原や石床ほどには伸びない。群れもこの地形に慣れている。距離がなかなか開かなかった。
「仕方ない」
俺は人間に戻った。
振り返る。
そして恐怖の睨視を使う。
視線に、怯えろ、止まれ、来るなという感情を乗せる。
群れは五頭いたが、一頭を除いて残りはその場に伏せた。耳を伏せ、尾を縮め、牙を見せることもできない。効いた。
だが一頭だけはなお走ってくる。
度胸があるのか、あるいは恐怖より飢えが勝っているのか。
俺はそいつへホールドをかけた。
今の俺のホールドは、ただ縛りつけるだけではない。締め付ける。見えない力が骨と筋肉を押さえ込み、動きを奪う。
ダイアウルフはその場で硬直した。
俺は間合いを詰める。
喉を一突き。
それで終わりだ。
血が雪に飛ぶ。
残りのダイアウルフたちは、それを見て一斉に逃げていった。群れである以上、統率を失った時の引きも早い。
「助かったな」
俺は小さく息を吐いた。
あたりは、いつの間にか暗くなり始めていた。
この階も昼夜があるのか、とそこで気づく。十七階は原始の森と平原で昼夜があったが、十八階も同じらしい。雪と氷の世界で夜が来るのは、あまり歓迎したくない。
俺はフクロウの眼を使った。
暗がりがほどけ、雪面の起伏、岩の影、遠くの木立の輪郭が見えてくる。
「どこか休める場所を見つけないとな」
夜通し歩くことはできる。だが、この階層は気候そのものが敵だ。無理に進んで判断を鈍らせるより、体を休め、血と魔力を整えた方がいい。
そう思っていると、センスライフに大きな反応があった。
かなり大きい。
だが動いていない。
止まっている。なら、何かあるに違いない。
俺はそちらへ向かった。
雪を踏み、岩の陰を抜け、木立を回る。やがて見えてきたのは洞窟だった。
口を開けた岩穴の奥に、大きな気配がある。
中に何かいる。
俺はそこで影になった。
完全な影の形へと崩れ、忍びも重ねて、岩肌に沿うように中へ入る。
洞窟の中は思ったより広い。雪の反射が弱く、奥は暗い。フクロウの眼がなければ何も見えなかっただろう。
そして、いた。
大きな熊だ。
「……でかいな」
前世でも見たことがある。極寒地帯にいる大型の熊系モンスターだろう。冬毛が厚く、呼吸も重い。どうやら寝ているらしい。
今ならいける。
俺はさらに近づいた。
そして、保険のためにスリープをかける。
眠りが上書きされるように、熊の気配がさらに深く沈む。
そこへ剣を振るった。
首を狙う。
月光の剣までは使わない。だが、今の俺の腕と剣なら十分だ。一撃で首を深く断ち、熊はそのまま動かなくなった。
「よし」
俺は洞窟の外へ出て、近くの木から枝を取ってきた。
中へ戻る。
ファイアボールを小さく制御し、なかなか消えない火を作る。焚き火の代わりだ。枝へ火を移し、洞窟の中央に火を起こす。
橙色の光が洞窟の内壁を照らす。
ようやく少しだけ、人間らしい安堵が戻ってくる。
熊は収納しても仕方がない。
だからその場で精霊を呼び出して、みんなに食べてもらうことにした。
フェンリス。
キマイラ。
チーター。
キツネ。
ハヤブサ。
フクロウ。
ルナ。
いつものように現れた面々は、熊の肉を見るなり、それぞれに反応した。フェンリスは静かに近づき、キマイラは露骨に嬉しそうで、チーターは落ち着きなく周囲を回る。ルナは食べないが、やはり皆の様子を見ているのが楽しそうだ。
「ほら、今日は熊だ」
そう言って肉を分ける。
みんな喜んで食べている。
それを見ていると、こっちまで少し癒された。
「お前らほんと、よく食うな」
キマイラが嬉しそうに尾を振り、また俺の腕を軽く噛んだ。フェンリスは何も言わないが、機嫌は悪くない。ルナは焚き火の上で静かに光っている。
そのまま少し微睡んだ。
洞窟の中、火の暖かさと精霊たちの気配に囲まれていると、緊張がほどける。完全に眠り込む気はなかったが、目を閉じた時間はそれなりに長かったらしい。
起きてから、血を飲んだ。
少しだけ。
それだけで、かなり回復する。精神点も落ち着くし、身体の芯の冷えも少し薄れる。
「朝を待って出るか」
そう決める。
夜の雪原を無理に進む理由はない。
その前に、占術を行った。
札を切る。
この階に探しものがあるかどうか。
結果は、無い。
「やっぱり下か」
次に、下の階にあるかと聞く。
ある、と出た。
さらに、この階の下へ降りる階段はどこか、と問う。
西の方角。
札はそう答えた。
俺は収納から魔法金属でできた方位磁針を取り出す。針はゆっくりと安定し、西を示した。
「ありがたい」
占術と方位磁針。
どちらもなければ、この極寒の世界で方角を失っていただろう。
俺はそのまま夜明かしした。
外の気配を探り、焚き火を保ち、精霊たちが食い終わって消えていくのを見送りながら、静かに朝を待つ。
やがて洞窟の外が、ほんの少しだけ明るくなる。
夜明けだ。
俺は焚き火を消し、洞窟を出た。
空気は相変わらず痛いほど冷たい。だが、マントと準備のおかげで動けないほどではない。
西。
方位磁針を確かめ、俺はその方向へ歩き出した。
十八階の雪と氷の世界を抜け、その先へ行くために。




