第三十八話。
その夜、俺は精霊たちを呼んで、持ち帰った肉を振る舞った。
庭の石碑の周りに、いつもの面々が現れる。
フェンリスは相変わらず悠然としていた。巨大な体を低くし、こちらが差し出した肉を、まるで当然のように受け取る。キマイラは待ちきれない様子で尾を振り、チーターは地面を掻きながらうろうろし、キツネは少し距離を取りつつも鼻先だけはしっかり肉へ向けている。ハヤブサは高い位置から見下ろし、フクロウは静かに留まり、ルナだけは食べもせず、その様子を眺めていた。
「ほら、今日は大物だぞ」
そう言って肉を置くと、みんなそれぞれ喜んで食べ始めた。
フェンリスは咀嚼まで落ち着いている。
キマイラは顔中を肉汁まみれにしながら夢中だ。
チーターは一度咥えた肉を少し離れたところまで持っていき、それからまた戻ってくる。落ち着きがないのか用心深いのか、その両方なのだろう。
ルナはそんな様子を見て、どこか嬉しそうだった。月の輪のような光が、いつもより柔らかく揺れている。
「お前は食わないのに、そういう時だけ嬉しそうだな」
そう言うと、ルナの輪がふわりと近づいてきた。
その横で、キマイラが俺の腕を甘噛みした。
「痛くはないが……何だ?」
キマイラはもう一度、少し強めに噛む。
その瞬間だった。
頭の中に、何かが流れ込んできた。
変身。
そのプロセスだった。
言葉としてではない。感覚のまま、俺の骨格、筋肉、血流、皮膚の張り方、その全部を「別の形へ組み替える」手順が、一気に理解として落ちてくる。
「……おお」
思わず声が漏れた。
念じるだけで、動物に変身できるらしい。
ただし、今の段階では自分と同じ大きさの動物だけ。習熟すると、大きさもある程度変えられるようになるらしい。
キマイラが急かすように鼻先で俺を押す。
「やれってことか」
尻尾がぶんぶん振られる。
仕方ない。
俺は少し深く息を吸ってから、狼の姿を思い浮かべた。
筋肉の配置。
四本の脚。
低い重心。
鋭い嗅覚。
牙。
変身。
そう念じる。
次の瞬間、骨が軋むような感覚が走った。だが痛みはない。肉が押し広げられ、縮み、ねじれ、組み替えられていく。視点が落ち、腕が脚になり、背中の角度が変わる。
気づけば、俺は四足で立っていた。
「……変わったか」
声に出したつもりが、喉から出たのは低い唸りに近い音だった。
だが、不思議と意味は分かる。
狼だ。
自分が四足歩行になるのは、ひどく不思議だった。前足に体重を預ける感覚、後ろ脚で地面を蹴る感覚、首の向き、尾で平衡を取る感覚。全部が初めてなのに、同時に最初から知っていたようにも思える。
そして、この体なら相当走れる。
それが直感で分かった。
その時、不意に声が聞こえた。
人の声ではない。
頭の中に、直接響くような低い声。
「ようやくこちらで喋れるな」
俺は思わず顔を上げた。
フェンリスがこちらを見ている。
「……今の、フェンリスか?」
「そうだ」
巨大な狼は当然のように答えた。
「その身体になった時は、私と喋れる」
なるほど、そういうことか。
狼の姿を取ることで、精霊と同じ回路に少し近づくのだろう。
「挨拶が遅れたな」
俺は四足のまま頭を少し下げた。
「改めてよろしく頼む、フェンリス」
フェンリスは鼻を鳴らした。
「うむ」
それから、金の目を細める。
「お前に訓えを与えよう」
その声には、不思議と逆らえない重みがあった。
俺は自然と身を低くする。
するとフェンリスの気配が、また俺の頭の中へ流れ込んできた。
瞬速。
その術の使い方だ。
筋力で走るのではない。重心の移動、筋の解放、血の回り、地面を蹴る角度、そして何より「一瞬の中で自分だけが先に進む」という感覚。速くなるのではなく、周囲との時間差を作るような術だった。
「……これを」
「使ってみろ」
言われるまま、俺はその感覚を真似た。
瞬速。
その瞬間、世界が変わった。
風の音が引き延ばされる。
キマイラの尾の動きが遅く見える。
チーターの耳がぴくりと動く、そのわずかな動きまで見える。
俺だけが前へ出る。
周りがスローモーションになったように感じるほど、俺は速くなっていた。
「すご……っ」
狼の喉から出る声はやはり人とは違うが、それでもそう言いたくなるほどだった。
術を解き、元へ戻る。
その瞬間にどっと疲労が押し寄せた。
足に熱が残り、肺が少し痛い。体の奥を一気に使いすぎたのだと分かる。
フェンリスが低く笑う。
「多用は厳禁だ」
「分かる……」
「だが、他のものも組み合わせてみるが良い」
言われて、俺は試してみたくなった。
狼の姿のまま、まずヘイストを自分へかける。
さらに血の遡行も使う。
その上で、もう一度瞬速。
さっきとは比べものにならない速さだった。
本当に周囲が止まったかのように見える。風も、草の揺れも、キマイラの呼吸も、全部が一拍遅れているようだ。自分だけが先へ滑っていく。
そして術を解いた瞬間、さっき以上の疲労が襲ってきた。
前脚が少し震え、息が荒くなる。
「……これは、駄目だな」
「だから言った」
フェンリスは楽しそうだった。
だが、この組み合わせが切り札になり得ることはよく分かった。多用はできない。だが、生死の一瞬ならひっくり返せる。
俺は少し息を整えてから、フェンリスに聞いた。
「解呪の方法は、何か知らないか?」
フェンリスは少し考えるように間を置いた。
「解呪のスキル持ちのモンスターが、この遺跡にいると聞いたことはある」
「本当か」
「だが、どこかは知らん」
それでも十分だった。
手がかりだ。
確かな位置は分からない。だが少なくとも、この遺跡のどこかに解呪に繋がる存在がいる可能性がある。
「それを聞けただけでも良かった」
俺がそう言うと、フェンリスは静かに目を細めた。
「焦るな。獲物を追う狼は、匂いが濃くなるまで待つことも知っている」
いかにもらしい言い方だった。
そのあと、俺は他の精霊たちとも触れ合った。
キツネは相変わらず、どこか人をからかうような目をしている。ハヤブサは上から見下ろし、フクロウは沈黙のままだ。ルナは近くを漂っているだけなのに、不思議と落ち着く。
そしてチーターが、待ちきれないとでも言うように俺の横腹を押してきた。
「何だ?」
さらに押してくる。
前へ行け、ということらしい。
「一緒に走れ、ってことか」
チーターは低く身を沈めた。
俺は今度、チーターの姿を思い浮かべた。
狼の時よりさらに細く、低く、しなやかな体。走るためだけに削られた筋肉。
変身。
次の瞬間、俺は別の四足になっていた。
体の重心がまた変わる。狼より前傾で、脚が長く感じる。爪の接地も違う。これは走るための形だ。
チーターが駆け出す。
俺も追う。
速い。
尋常じゃなく速い。狼の時とは違う。瞬速のような爆発ではなく、最初から全体が高い。走れば走るほど体が軽くなり、地面が後ろへ流れていく。風が顔を切る。庭を一周し、外周の荒野の縁まで回り込み、また戻る。
気持ちいい。
純粋にそう思った。
「これ、いいな……!」
声は獣のものだが、感情ははっきり分かる。
チーターは横目でこちらを見て、得意げに尾を振った。
戻ってきて元の姿へ戻ると、少しだけふらついた。変身は変身で、やはりそれなりに消耗するらしい。
その時、フェンリスがまだ何か話したそうにしているのに気づいた。
俺はもう一度狼へ変身した。
すると、フェンリスは静かに言った。
「何度も変身を練習していれば、いずれ動物の言葉もわかるようになるぞ」
「本当にか」
「本当にだ。身体だけ変えるのではない。感覚と魂の置き方も寄せていくのだ。そうすれば、獣の声も意味として入ってくる」
それは大きい。
精霊との会話だけでなく、普通の獣とも情報をやり取りできるようになる可能性がある。
「また練習メニューが増えたな……」
俺がそう言うと、フェンリスは低く笑った。
「強くなる者は忙しいものだ」
まったくその通りだ。
俺は庭を見渡した。
瞬速。
変身。
隠惑。
フクロウ。
月光の武器と鎧。
真実の目と指揮の目。
稲妻の足。
これだけの精霊術を、俺は覚えたことになる。
もちろん、覚えたと使いこなせるは別だ。それぞれにまだ教わることも多い。ハヤブサの二つの目も、ルナの月光も、チーターの足も、まだ入り口に立っただけだ。
だが、確かに増えている。
力が。
選択肢が。
この遺跡で生きるための手札が。
俺はしばらく黙って精霊たちを見ていた。
フェンリスは静かに座り、ルナは柔らかく光り、キマイラはまた俺の腕を甘噛みし、チーターは走り足りないとでも言うようにうろうろしている。ハヤブサは高みから、キツネは少し離れたところから、フクロウは沈黙のまま見つめていた。
「……ありがとな」
誰にともなくそう言う。
だが、たぶん全員に向けた言葉だった。
精霊たちは答えなかった。
それでも、その場の空気は少しだけ柔らかくなった気がした。
俺はゆっくりと元の姿に戻り、庭の中央で小さく息を吐いた。
明日からまた、やることは山ほどある。
だが今夜だけは、この静かな時間を少し長く味わっていたかった。




