第三十五話。
俺は階段の手前で一度息を整えた。
十四階の空気は、十五階とはまた違う重さがある。湿った墓所のような気配ではなく、もっと乾いていて、金属と獣脂と古い祈りの残り香が混ざっているような、そんな嫌な空気だ。神聖魔法を使うミノタウロスがいると知っているせいかもしれないが、肌の表面が少しだけ粟立つ。
まずはセンスライフをかける。
意識を上階へ伸ばす。
いた。
やはりミノタウロスだ。
大きい。しかも単なる巨体ではない。ひとつの生き物としての密度が濃い。筋力、生命力、そして神聖系の魔力が、重い塊みたいに一体へ詰まっているのが分かる。前世の知識と、今の感知が重なって、その輪郭がよりはっきりする。
「……やっぱりいるな」
小さく呟く。
怖くないと言えば嘘になる。だが、怖いだけで足が止まる段階は過ぎていた。
俺は自分へ重ねがけを始めた。
まず影を纏う。
薄い闇が肩口から背中へ流れ、輪郭を曖昧にする。完全に姿を消すわけではないが、視線の引っかかりを鈍らせるには十分だ。
次にフクロウの術。
暗がりがほどけ、上階の輪郭と空間の癖が見やすくなる。あの薄暗い部屋でも、自分がどこへ踏み込むべきかの見当がつく。
さらに、キツネの隠惑の術。
これも隠密行動に使える。相手の認識をわずかにずらし、見えていても「そこにいる」と判断させにくくする術だ。前に出て誤認させるのではなく、今は自分を背景へ紛れ込ませる方向で使う。
忍びも重ねる。
足裏の重さを殺す。
呼吸を薄くする。
俺はその状態で、十四階へ上がった。
階段を上り切る。
そこは予想通り、広めの部屋だった。正面やや左寄りに、ミノタウロスがいる。大斧を肩へ乗せるように持ち、牛頭をわずかに揺らしながら周囲を警戒している。体格は巨大だ。だが鈍重そうには見えない。構え方に、戦士の緊張感がある。
まともにやり合えば危険だ。
だから、正面からは行かない。
俺は壁沿いを回り込むように半歩ずつ位置を取る。
距離はまだある。
気づかれていない。
いい。
ここでまず、視界を奪う。
俺は影使いを意識し、実体のある闇の雲を作り出した。まだ完全には安定しない術だが、今ならいける。
黒い塊が宙に浮かび、そのままミノタウロスの頭部へすっぽりとかぶさる。
「……ッ!」
牛頭が揺れる。
視界を奪われたのが分かった。
その隙に、俺は一歩踏み込んで長剣を振るう。狙いは脇腹。深くはない。だが確かに通る。
すぐ離れる。
離れた直後、先程まで俺がいた位置を大斧が薙いだ。
風圧が頬を打つ。
遅れれば真っ二つだった。
「……危ねえ」
だが、読み通りだ。
視界を奪われた相手は、まず「今いたはずの位置」を刈る。なら、そこにいなければいい。
俺はそのままヒットアンドアウェイを繰り返した。
影の雲が頭部へまとわりついている間に、一太刀。
足の裏を切る。
膝裏を狙う。
また離れる。
ミノタウロスは咆哮し、大斧を振り回す。だが振りは鋭いものの、目が利かない状態では捉えきれない。俺はその外へ、横へ、時に後ろへ抜ける。
鉄獅子剣術の間合い管理が、ここで生きる。
真正面からぶつからず、届く距離だけを奪う。
しかも相手は大きい。切る場所に困らない。反面、油断すれば一撃で終わる。だから深追いしない。欲張らない。
少しずつ、少しずつ、ダメージを蓄積させる。
やがてミノタウロスの動きが明らかに荒くなった。
そこで、牛頭の口元が低く動く。
詠唱だ。
「回復か」
神聖魔法で立て直すつもりらしい。
そうはさせない。
俺は角度を変えて踏み込み、闇の雲の外側からダズリングを叩き込んだ。
閃光が炸裂する。
ただでさえ視界を奪われているところへ、さらに眩暈を混ぜる。詠唱の気配が途切れた。神聖の気配が不発に終わる。
「よし」
それからまた、ヒットアンドアウェイ。
ミノタウロスは苛立ち、苦し紛れに大斧を振り回すようになった。もう狙って当てるというより、近づくものを全部潰すつもりの振りだ。だが雑になった分、読みやすい。
大斧が迫る。
俺は中盾でいなす。
まともに受けない。角度をつけて流す。リアンに叩き込まれた盾術が、こういう相手には本当に大きい。
大斧の流れた一瞬に、俺は懐へ入った。
喉元ではなく、胸と首の境目へ長剣を深く差し込む。
牛の咆哮が途切れる。
そのまま捻り上げ、引き抜き、鉤爪で補うように裂いた。
ミノタウロスが膝を折る。
巨体が崩れ落ちる音は、部屋全体を震わせた。
「……終わったか」
すぐに探知とセンスライフを広げる。
追加の反応はない。
俺は少しだけ肩の力を抜いた。
神聖魔法を使うミノタウロス相手に、まともな被弾なし。悪くないどころか、かなり上出来だ。訓練の成果がきちんと出ている。
俺はその血を吸った。
掌から、直接。
まだ温い血が流れ込み、精神力がじわりと戻るのが分かる。前はただの回復に近い感覚だったが、今はもっと「燃料を継ぎ足す」感じに近い。
「これも土産だな」
そう思って、ミノタウロスの死体を収納へ入れる。
アンデッド用の素材としてアドールが喜びそうだ。
そこでようやく、俺は少し休憩を入れることにした。
十四階の部屋に一つ入る。
鍵も罠もかかっていない。
いや、正確には、人間用の鍵と罠は仕掛けられているのだろう。だが俺には作動しない。
ここは、ほとんどの部屋に鍵と罠がかけられている階層だ。やってきた人間は、必ずそれを鍵開けしなければならない。解除に失敗すれば毒矢や落石、呪具が飛ぶ。
だが俺は人間ではない。
この階のシステムは、人間の侵入者だけを想定して組まれている。前世の俺がそう設定していた。だから理屈では大丈夫だと思っていたが、実際に何度か通ってみるまでは少し不安だった。
だが、今のところ問題はない。
扉を開け、中へ入り、息をつく。
ミノタウロスの体を一度出し、さらに血を啜る。
精神点が戻るのが分かる。
「悪くない」
アンデットやストーカーの血とは違い、ミノタウロスの血は濃くて重い。質がいい、と本能が判断しているのが少し嫌だった。
死体は再び収納する。
これはアドールに渡すつもりだ。絶対に喜ぶ。
休憩を終え、また探索を再開する。
十四階は、部屋ごとの危険がはっきりしている。廊下にも罠があるが、モンスターには影響がない。俺にも基本は効かないだろう。だが、それでも気を抜かない。何がイレギュラーになるか分からないからだ。
何個か部屋を通り抜ける必要があった。
そしてその部屋には、やはり必ずモンスターがいた。
アンデット。
トロール。
大トカゲ。
巨大甲虫。
どれも階層にふさわしい厄介さはあったが、今の俺にとっては「危なげなく勝てる」相手だった。
アンデットにはライトニングを軸に。
トロールには火を絡める。
大トカゲはダズリングで視界を奪ってから血魔術で削る。
巨大甲虫は盾で噛みつきをいなし、腹側へ剣を通す。
一体ずつ、確実に潰していく。
半年前の俺なら考えられない動きだった。だが今の俺にとって、それはもう「できること」になっていた。
やがて、十三階への階段部屋へ入ろうとした時。
声が聞こえた。
ぴたりと足を止める。
人の声だ。
俺はすぐにセンスライフを使う。
生者。
数は複数。
種族も人間寄り。
「探索者か」
小さく呟く。
なるべく戦いたくはない。
今の俺は人間に紛れて生きることを前提にしている。余計な殺しは避けたい。だが、降りかかる火の粉は払わなければならない。見つかれば戦いになるだろう。
「どうする」
一瞬だけ考える。
戦うか。
脅すか。
それとも、やり過ごすか。
結局、俺は影に潜み、隠れてやり過ごすことに決めた。
今の俺なら、それができる。
影使いを薄く纏い、キツネの隠惑を添え、忍びとフクロウの術で気配を殺す。
廊下の壁際、光の届かない陰へ体を沈める。
ちょうど良い位置だ。
そこから階段の出口が見える。
ドタドタと音が近づく。
人間特有の、隠すつもりのない足音。数人いる。会話も聞こえる。
「もうすぐ稼ぎ場だ」
誰かがそう言った。
俺は心の中で、少しだけ皮肉に笑う。
稼ぎ場、か。
確かにそうだろう。人間にとっては、モンスターを倒して素材や経験を得る場だ。
だが、今の俺にとっては逆に、人間に見つからないように通るべき場所でもある。
探索者たちが階段を下りきる。
俺の隠れている廊下へ出てくる。
三人。
一人は前衛の剣士。
一人は弓手。
一人は後衛の魔術師。
典型的な編成だ。
だが、誰一人こちらに気づかない。
俺の横を、そのまま通り抜けていった。
足音が遠ざかる。
声も小さくなる。
完全にいなくなってから、俺はようやく息を吐いた。
「……うまくいったか」
影使い。
キツネの隠惑。
フクロウの術。
忍び。
全部がきちんと噛み合った結果だ。
人間相手に無駄な戦闘を避けられたのは大きい。
俺は壁から背を離し、もう一度十三階への階段部屋を見た。
この先は、さらに深い階層だ。
だが、その前に少しだけ、自分の状況を整理した。
十五階の強個体を無傷で倒した。
十四階のミノタウロスも突破した。
途中のモンスターも危なげなく処理した。
探索者相手にも、見つからずにやり過ごせた。
順調すぎるくらい順調だ。
だが、そういう時ほど油断は危ない。豪運があるからこそ、調子に乗った瞬間に足をすくわれることもある。
俺はゆっくりと呼吸を整えた。
「……まだ先は長い」
そう呟いて、俺は十三階へ向かうため、再び階段へ足をかけた。




