第三十一話。
精霊とコンタクトを取る毎日は、俺にとって癒しの時間でもあった。
訓練ばかりの毎日だ。
リアンには体が動かなくなるまで振り回され、アドールには魔力が尽きるまで魔法を使わされ、ミラーカには血を戻し、影を操り、妙な魅力まで練習させられる。どれも意味があるし、確かに自分が強くなっている実感もある。だが、正直きつい。
そんな中で、精霊たちと過ごす時間だけは少し違った。
フェンリス、ルナ、キマイラ、ハヤブサ、キツネ、チーター、フクロウ。
そいつらと触れ合っている間だけは、余計なことを考えずにいられた。肉をやり、ただ側にいて様子を眺める。甘えてきたのを構う。時には匂いを嗅がれ、時には肩に乗られ、時には無言で見つめられる。
それだけのことが、案外悪くない。
フェンリスは相変わらず大きかった。
肉を差し出すと、巨大な鼻先で一度だけ確かめ、それから静かに食う。がつがつ貪るのではなく、王のような落ち着きで食うのがいかにも神狼らしい。食い終えた後は俺の近くに座り込み、何も言わずに目を細めていることが多い。その沈黙が嫌ではなかった。
ルナは静かだ。
肉は要らない。俺が何かを捧げようとしても、気にも留めない。代わりに、月の輪のような光をゆっくり脈打たせながら、俺の周囲を漂っている。気を抜いていると、いつの間にか肩口や額の近くに来ている。冷たくはない。だが、澄んだ気配がある。
キマイラは一番分かりやすかった。
とにかく距離が近い。俺が座れば横に来るし、立てば足元に擦り寄ってくる。腕を甘噛みするのも相変わらずで、最初はぎょっとしたが、今ではこいつなりの親愛表現だと分かっていた。
ハヤブサは気難しい。
肩に止まることもあるが、やたらと高みを取りたがる。俺の頭上を旋回していたかと思えば、急に降りてきて耳元すれすれを飛び抜ける。こちらを試しているようなところがあった。
キツネはずるい。
どこか人をからかうような仕草をする。肉を出せば受け取るくせに、すぐには食わず、俺の周りを一周してからようやく口をつける。気に入っているのか、見定めているのか、いまいち分からない。
チーターは落ち着きがなかった。
常に今にも走り出しそうだ。肉をやる時ですら、姿勢が低く、目がぎらついている。だが、俺の横を並んで歩かせると妙に機嫌がいい。走ることそのものが好きなのだろう。
フクロウは静かだ。
石碑や木の上に留まり、じっと俺を見ている。何を考えているのか分からない。だが、こいつの視線を感じると、なぜか背筋が伸びる。
そうやって毎日、それぞれに肉をやり、ただ側にいて時間を過ごした。
訓練というには穏やかすぎる。
だが、こういう時間だからこそ精霊は心を開くのだと、カダスは言っていた。俺もそれが少しずつ分かってきた。精霊は命令では動かない。機嫌を取るだけでも駄目だ。こちらが落ち着いて、無理に何かを得ようとせず、ただ一緒にいる。そういう積み重ねの先で、急に何かを渡してくる。
最初にそれをしてきたのは、ハヤブサだった。
ある日、いつものように庭で肉をやり、それぞれが好き勝手に過ごしている時だった。ハヤブサが珍しく俺の肩に止まってきた。
爪の感触が布越しに伝わる。
重くはない。だが、確かな存在感がある。
「どうした」
そう声をかけた瞬間、ハヤブサが首を傾け、くちばしで俺のこめかみをつついた。
「っ」
目が疼くように痛んだ。
右目の奥が熱くなる。視界が一瞬だけ白く弾け、そのまま頭の中へ何かが流れ込んできた。
真実の目。
指揮の目。
その使い方だった。
言葉として教えられるのではない。感覚のまま流れ込んでくる。嘘を見る時、何を見ろ。相手の視線か、声か、呼吸か、体の緊張か。戦場で味方の動きをまとめる時、何を先に掴め。誰が崩れそうで、誰が押していて、どの位置を支点にすれば全体が繋がるか。
ハヤブサの視界そのものが、俺に重なるみたいだった。
「……っ、は」
思わず息を吐く。
痛いのに、嫌な痛みじゃない。
目を開けると、ハヤブサはもう肩から離れ、少し上の枝に移っていた。そこでこちらを見下ろしている。
「お前……今、教えたのか」
ハヤブサは当然、答えない。
だが、その鋭い目は、そうだと言っているようにも見えた。
次の日も、ハヤブサは来た。
今度は昨日より短く、だがさらに細かく。真実の目の焦点の合わせ方。指揮の目で「見えている情報」に優先順位をつけるやり方。そうしたものが、また頭の中へ落ちてくる。
もちろん、それで終わりではない。
使い方が分かっただけで、使えるようになったわけじゃない。これから何度も実際に試し、繰り返し、失敗して、身体に馴染ませる必要がある。
それでも、俺は真実の目と指揮の目の術を習得することができた。
続いて教えてきたのは、ルナだった。
ルナはいつものように俺の前へ漂ってきたかと思うと、何の前触れもなく額に触れた。
冷たさはない。
だが、澄んだ光が頭の中に流れ込む。
その瞬間、月光を使った剣と鎧の技が、俺の中に入ってきた。
月光の武器の術。
手に持つ武器へ薄い月の膜を纏わせ、切れ味と攻撃力を底上げする技だ。ただ鋭くするだけではない。刃筋を安定させ、穢れに対して強くする感覚もある。
月光の鎧の術。
こちらは自分の身体や装備へ月光を纏わせ、防御力を高めるだけでなく、病気の感染や毒を防ぐ効果もあった。完全無効ではない。だが、かなり頼もしい。
ルナはそれを流し込むと、そこで終わりではなく、静かにこちらを見つめていた。
「……これも、練習しろってことか」
そう言うと、輪の中の光がわずかに揺れる。
肯定と受け取っていいのだろう。
そんな風にして、精霊が教えてくれる魔法の技を少しずつ覚え始めていたある日、カダスが言った。
「次の授業を始めようぜ」
俺は庭の石碑の横で、フクロウとルナに囲まれながら顔を上げた。
「何だ?」
「占術を、そろそろ覚えても良い頃だ」
占術。
最初に話だけ聞いていた術だ。
カダスは、霊体混じりの尾をゆらりと揺らしながら説明する。
「占術は、様々な手法を駆使して、運勢、将来の吉凶、隠されたもののありかなんかを探る術だ」
「感覚を形にするやつだな」
「そう。お前は豪運があるから、相性がいい」
そう言って、カダスは一組のカードを差し出した。
やや大きめの札だ。厚みがあり、表には抽象的な紋様、裏には月と獣を組み合わせたような意匠が描かれている。
「やってみろ」
「何を?」
「占いたいものを思い浮かべて、カードを出すんだ」
俺は半信半疑のままカードを受け取った。
手に持つと、紙というより薄い骨片を重ねたみたいな感触がある。冷たく、だが不快ではない。
何を占うか。
少し考えてから、俺は一番切実なことを思い浮かべた。
俺のストーカーの呪いは、解けるのか。
その問いを抱いて、カードを引く。
ぱら、と三枚。
並べる。
だが、意味が分からない。
絵柄はある。月を裂く爪のようなもの、塔、逆さの獣。だが、それがどう答えに繋がるのかさっぱりだ。
「……読めない」
素直に言うと、カダスは頷いた。
「それでいい。これの意味が読み取れるようになったら、お前は占術を得ている」
「随分ざっくりしてるな」
「そういうもんだ」
結局、その日は分からなかった。
次の日から、空いた時間にそれをやることにした。
ストーカーの呪いが解けるのか。
それを頭に置いて、何度も引く。
だが最初は、やはり意味が読み取れない。記号にしか見えない。ただ、何となく「重い」「軽い」「嫌だ」「まだまし」みたいな感覚がある程度だ。
それでも続けた。
精霊の前でも、カードをやった。
庭で、フェンリスの横に座りながら。ルナが漂う下で。キマイラが足元に丸まり、フクロウが高みから見ているところで。
そんなある時だった。
フクロウが、羽音もなく降りてきて、俺の前のカードの中から二枚を、爪で軽く押さえた。
「……それか?」
俺がそう言うと、フクロウは動かない。
俺はその二枚をじっと見た。
一枚は、裂けた道の先に小さな光がある絵柄。
もう一枚は、重そうな扉の前に膝をつく人影。
その瞬間、不意に意味が分かった。
難しいが、成功する。
言葉として、すとんと腹に落ちる。
「……お前、そう言いたいのか」
フクロウは何も答えず、ただこちらを見ていた。
それを踏まえて、また占術を続ける。
同じ問いで引く。
すると、今度はほぼ同じ結果が出るようになった。
表現は少し違う。
だが意味は近い。
険しい。
遠い。
簡単ではない。
だが、成功する。
それが何度も出る。
俺は少しずつ、その読み方が分かってきた。絵柄をただ目で見るのではなく、そこに宿る流れを感じ取る。問いに対して、どこが重く、どこが抜け道で、どこに希望があるのかを読む。
そしてある時、鑑定で自分のスキルを見ると、新しい項目が増えていた。
占術。
「……入った」
思わずそう呟く。
ようやく、形になった。
俺はカードを手にしたまま、長く息を吐いた。
精霊と触れ合う時間が癒しであるだけでなく、こうして一つずつ実になっていく。それが嬉しかった。
フクロウは石碑の上へ戻り、静かに羽を収める。
俺はその姿を見上げながら、小さく言った。
「ありがとな」
フクロウは相変わらず無言だった。
だが、その沈黙はもう、冷たくは感じなかった。




