第三話。
「まあ、そう言うよな」
男は責めるでもなく、むしろ当然だという顔で頷いた。
「でだ」
軽く指を立てる。
「お前は、こちらの世界には戻れない」
俺は黙って男を見る。
さっきまでなら「は?」と返していたはずなのに、もうその気力すら薄れていた。死んだだの、世界に弾かれただの、過去に王だっただの、神の駒だっただの、あまりに一気に聞かされすぎて、驚くための力まで削れている。
男はそんな俺の様子を見て、少しだけ真面目な顔をした。
「消したくても消えないくらい、お前の魂は強い。こっちの世界の枠に収まらない。だから、流れとしてはあっちの世界に戻ることになる」
「あっちの世界に……戻る」
口に出してみると、妙な感覚だった。
異世界に行く、ではない。
戻る、なのだ。
俺の書いた小説なら、そこは間違いなく胸が躍る場面だっただろう。平凡な現代人が、剣と魔法の世界へ行く。冒険の始まり。人生逆転の幕開け。そんなものを何度も書いてきた。
けれど今の俺には、そんな高揚感はなかった。
あるのは、ただひたすらに疲れるような重さだけだ。
「理解するのは大変だろうが、理解してくれ」
男はそう言って、カップに口をつけた。
こいつは本当に、コーヒーを飲みながらする話じゃないことを平然とする。
俺は乾いた唇を舌で湿らせてから、低く言った。
「……そうか。あちらの世界に戻るのか」
「そうなる」
「決定事項みたいに言うなよ」
「決定事項に近いからな」
そう返されて、俺は小さく息を吐いた。
怒鳴ったところでどうにもならないのは分かっている。ここがどこで、こいつが何者で、俺にどれだけの選択権があるのかもまだ分からない。そんな状態で感情だけぶつけても、たぶん空回りする。
男は俺の顔を見て、少しだけ頷いた。
「で、俺がわざわざ来た理由なんだが」
「……まだ何かあるのかよ」
「むしろここからが本題だ」
十分すぎるほど本題だらけだと思うが、男にとっては違うらしい。
「まず、お前に事情を話すために来た」
「事情?」
「同意なしの魂の移動は、俺たちの約束事の中じゃやっちゃいけないことの一つなんだ」
その言葉に、俺は眉をひそめた。
「俺たちってのは、お前みたいなやつらか」
「まあ近いな。管理する側、調整する側、尻ぬぐいする側、色々ひっくるめてだ」
「最後だけ妙に俗っぽいな」
「俗っぽくもなる。面倒事ってのは大体、綺麗に起きないからな」
男は肩をすくめた。
なるほど、少なくともこいつは完全に無関係な見物人ではないらしい。むしろ後始末を押しつけられた立場なのだろう。だからこんな軽い顔をしていても、話の芯がぶれないのかもしれない。
男は続ける。
「それから、お前は被害者だ」
その言い方が、妙にまっすぐで、俺は少しだけ目を見開いた。
「被害者……」
「そうだ。あっちの世界じゃ駒にされ、こっちの世界じゃ抑圧されて、これから先はさらに過酷な運命を背負うことになる」
淡々とした口調なのに、その内容だけがやけに重い。
俺は思わず聞き返した。
「さらに過酷って……まだ何かあるのかよ」
「ある」
即答だった。
救いがない。
俺は額を押さえたくなったが、男はそこに構わず続けた。
「説明もなしにそんなことになったら、今度こそお前の魂は歪む」
「歪む……」
「ただでさえ強い魂だ。下手に憎しみや怒りだけ抱えたまま放り込めば、変な方向に育つ」
男はそこで、妙にあっさりした声で言った。
「上位者になる可能性がある魂と言っていい」
「……またスケールのでかい話を」
「事実だからしょうがない」
「それで?」
「それで、お前が邪神にでもなったら俺が怒られる」
俺はしばらく黙ったあと、思わず言った。
「そこ、そんな軽い感じで言うのかよ」
「大事なことだぞ。すげえ怒られる」
「知らねえよ」
「俺は困る」
「こっちはもっと困ってるわ」
ようやく少しだけ、いつもの調子で言い返せた。
男は「だよな」と笑った。
だがその笑いのあと、少しだけ声を落とす。
「冗談半分で言ったが、半分は本気だ。納得しないまま、裏切られたまま、踏みにじられたまま、お前をあっちへ返すのは危ない」
白い空間の静けさが、ふっと近づいてきた気がした。
男の目が、今度は本当に冗談抜きで俺を見ている。
「怒りは力になる。恨みも力になる。ましてお前みたいな魂ならなおさらだ。だから先に説明する。事情を話して、選ばせる。納得して行くのと、何も知らずに放り込まれるのとじゃ、全然違う」
俺は何も言わなかった。
たぶん、男の言っていることは正しい。
今の時点ですら、胸の底にはどろりとしたものが溜まり始めている。女神だの世界だの、見えもしない大きなものに勝手に使われて、抑えつけられて、最後は消された。そんな話を聞かされて、何も思わない方がおかしい。
もしこのまま何も知らずに別の場所へ叩き込まれたら、その怒りはどこへ向かうのか。
人か、神か、世界そのものか。
俺自身にも分からない。
男は、そんな俺の内側まで見えているみたいに言った。
「だから来た。まずは納得してもらって、あっちへ行ってもらう。その方が邪神や悪神になる可能性も減るからな」
「結局そこかよ」
「かなり大きい理由だ」
「正直すぎるだろ」
「今さら取り繕ってもしょうがない」
それはそうだ。
ここまで来て、変に綺麗ごとを並べられるよりはましだった。
俺は椅子の背もたれに体を預け、白い天井もない上を見た。見上げても、やっぱりただ白いだけだ。終わりも奥行きも分からない。落ち着く景色ではないのに、不思議と頭は少しずつ冷えていった。
男の言葉を一つずつ思い返す。
俺は死んだ。
世界から弾かれた。
小説は過去の記憶をなぞったものだった。
俺はレイだった。
王になった。
神の駒にされた。
その余波で魂が剥がれ、地球に落ちた。
世界は俺を抑圧し、ありきたりな男として育てた。
そして、抑圧が解けかけたから排除した。
それで今、また向こうへ戻される。
普通なら、こんなの到底飲み込めない。
けれど不思議なことに、頭のどこかではもう、完全否定する気にもなれなかった。ありえない話のはずなのに、なぜか筋だけは通っているように感じてしまう。胸の奥のざわつきが、その話を完全には拒めていない。
俺は視線を戻し、男を見る。
「……つまり」
「うん」
「お前は、俺に事情を説明して、納得させてから向こうに送りたいわけだな」
「そういうことだ」
「俺が納得しなかったら?」
男はそこで、少しだけ考えるような間を置いた。
「その場合でも、戻る流れ自体は変わりにくい」
「変わりにくい、か。結局行くんじゃねえか」
「ただ、納得しないで行くのと、ある程度腹をくくって行くのとじゃ違う」
「さっきからそればっか言うな」
「実際大事だからな」
男はカップを置いた。
「お前、頑固そうに見えて、芯の置き方でかなり変わるタイプだろ」
「何でそんな分析までされてんだよ」
「見れば分かる」
「便利だな、お前」
「そうでもない」
そこで男は少しだけ苦笑した。
「見えるからこそ、面倒なことも多い」
一瞬だけ、こいつにもこいつなりの事情があるのかもしれない、と思った。だが深く考える前に、その表情はもういつもの軽さに戻っていた。
「まあ、とにかく」
男は両手を軽く広げた。
「まずはここまでを、百歩譲って分かってほしい」
百歩譲って。
さっき俺が使った言い回しを、そのまま返してきやがった。
俺は少しだけ眉を上げる。
「百歩も譲らなきゃいけないのかよ」
「譲ってるうちに、案外真ん中くらいまでは来るもんだ」
「適当言ってないか」
「言ってない」
男は笑うでもなく、ただ普通に答えた。
「全部一気に信じろとは言わん。だが、少なくとも、俺が嘘をついてお前を遊んでるわけじゃないってことくらいは受け取ってくれ」
その言葉に、俺はしばらく黙った。
白い世界。
虚空から出たテーブル。
俺好みのコーヒー。
そして、俺しか知らないはずの小説の中身。
どれを取っても、ただの悪質な冗談では説明がつかない。
俺は長く息を吐いた。
「……分かった」
男がわずかに目を細める。
「百歩譲って、ここまでは聞く」
「よし」
「ただし、納得したわけじゃない」
「それで十分だ」
「あと、お前のことはまだ全然信用してない」
「それも健全でいい」
「むかつくくらい余裕だな」
「余裕がなかったら、こういう役回りは務まらん」
そう言われると、少しだけ悔しいが反論しづらい。
俺は冷めないコーヒーをもう一口飲んだ。
やっぱり美味い。
こんな状況で美味いのが腹立たしい。
カップを置いて、俺は男を見据えた。
「……じゃあ次だ」
「おう」
「俺が向こうに戻るとして、どこに、どういう形で戻る」
男の口元が、わずかに上がった。
「いい質問だ」
その笑みを見た瞬間、俺は本能的に思った。
たぶん、ここから先の話の方が、もっと重い。




