第二話。
「……は?」
間抜けなくらい、その一言しか出なかった。
男は案の定という顔で肩を揺らして笑う。
「普通そう言う反応するわな」
「いや当たり前だろ。死んだだの、世界から弾かれただの、意味分かんねえこと立て続けに言われて、はいそうですかってなるやついるかよ」
「いないいない。だからまあ、おいおい話すから、まずは座ろうぜ」
男がそう言って、何もない空間に手をかざした。
すると、白い世界の真ん中に、音もなくテーブルセットが現れた。丸いテーブルに椅子が二脚。木製にも石製にも見える妙な質感で、けれど安っぽさはない。まるで最初からそこにあったものを、今ようやく認識できるようになった……そんな出現の仕方だった。
「はあ?」
「細かいこと気にすんな。ほら」
気にするだろ、と思いながらも、今さら何に驚けばいいのか自分でも分からなくなっていた。
促されるまま椅子に座る。
その瞬間、目の前のテーブルに湯気の立つカップが置かれた。
「飲め」
「いや、警戒するだろ普通」
「毒なんか入ってねえよ。ここでお前に毒盛ってどうすんだよ」
それはそうだ。
俺は恐る恐るカップを手に取った。しっかりとした熱が掌に伝わる。鼻先に届いた香りは、深煎りの苦みと、少しだけ甘い匂いが混じったものだった。
一口飲む。
「……うま」
思わず漏れた。
苦いだけじゃない。酸味は控えめで、後味が妙に丸い。ブラックのはずなのにきつくなくて、喉に落ちたあとにほのかな甘みが残る。俺が自分で淹れるよりよほど美味いし、喫茶店でも当たり外れのある味を、完璧に好みに寄せてきた感じだった。
男はにやりと笑う。
「美味いだろ」
「……まあ」
「お前の好みの味にしといた」
「何でそんなことまで分かるんだよ」
「分かるから」
あまりにも軽く返されて、俺は眉間を押さえた。
何なんだこいつは。
神なのか、死神なのか、ただの変人なのか。そのどれにも見えるし、どれにも見えない。ふざけているようでいて、俺が本当に困る一線は越えない。気に食わないくらい余裕がある。
しばらく無言でコーヒーを飲んだ。
こういう場面ならもっと取り乱していてもおかしくないのに、妙に落ち着いている自分がいた。たぶん目の前の男の調子に引っ張られているのだと思う。こいつが深刻な顔で告げていたら、俺ももっと怯えていたかもしれない。
カップを置いて、俺はようやく口を開いた。
「で」
「うん」
「世界に弾かれたって、どういうことだ?」
男は「まあ」と言って背もたれに寄りかかった。
「難しい話になる。なるんだが、その前に」
そこでなぜか、男は少し口元を緩めた。
「まずは小説完結おめでとう」
「……は?」
本日何度目か分からない、間抜けな声が出た。
「何で知ってるんだ?」
「知ってるから」
「説明になってねえよ」
「説明すると長い」
「もう十分長い話になってるだろうが」
俺が苛立ち気味に返すと、男は楽しそうに笑った。人をからかって遊ぶタイプの笑い方だ。だがそこで話をはぐらかさず、すぐに続けた。
「それでな。あの小説」
「ああ」
「実は本当にあったことなんだわ」
「……は?」
男は頷く。
俺は数秒固まったあと、ようやく言葉を絞り出した。
「いやいやいや、待て待て待て」
「待ってる」
「全部俺が考えたものなんだが?」
「そう思うよな」
「思うに決まってるだろ。あれ書いたの俺だぞ。設定も人物も世界観も、全部ゼロから作ったんだ」
「ゼロじゃない」
男はさらっと言った。
「あれは実際にお前が過去で体験したことを描いてる」
空気が一瞬止まった気がした。
俺は男の顔を見つめる。
冗談を言っている顔ではなかった。いや、表情自体は軽いのに、目だけは妙に真っ直ぐだった。適当なホラ話を吹いている時の目ではない。
それが逆に腹立たしい。
「違うだろ。あの話は、地球から転移した青年が……」
「そこ」
男が指を立てた。
「違うところと言えば、地球から転移して彼方の世界に行ったってところか。あれはお前の願望が混ざってる。分かりやすく異世界転移ものに落とし込んだわけだ」
「願望?」
「そっちの方が飲み込みやすいからな。自分で書くにしても、読む側に伝えるにしても」
男は足を組み替えた。
「それ以外は、大体同じだ。街の成り立ち、人との出会い、成り上がっていく流れ、王になるまでの筋。細部は違っても、骨格はそのまま」
「嘘だろ……」
思わず漏れた。
そんなはずがない。
だってあれは、俺が何度も悩んで、書き直して、削って、付け足して、ようやく形にした物語だ。思いつきで生えた設定だってある。場当たり的に増やした脇役もいる。整合性を取るために後から帳尻を合わせたところだってある。
俺はそのまま口にした。
「あんなに書き直ししたんだぞ」
「話の筋は?」
「え?」
「根っこの筋は、いじったか?」
男にそう聞かれて、俺は口をつぐんだ。
書き直しはした。何度もした。だが、それは主に演出や順番、見せ方の問題だった。誰を先に出すか、この出来事を前倒しするか、戦いの決着をどう描くか。そういう変更はたくさんあった。
けれど、一番大きな流れ……何も持たない青年が、冒険者となり、仲間を得て、地位を築き、最後に王へ至るという筋そのものは、確かにほとんど変えていない。
「……そこは、あまりいじってない」
「だろ」
男はコーヒーを一口飲んだ。
「信じようと信じまいと、お前は向こうの世界のレイだったやつだ」
レイ。
俺の小説の主人公の名だった。
口に出されると妙に現実味があった。いや、現実味があるというのも変だ。そもそも今いる場所自体が現実じゃないみたいなものだ。けれど、胸の奥のどこかが、その名前にざわついた。
俺は無理やり息を吐いた。
「……百歩譲って、そこは分かったとする」
「百歩も譲ってくれて助かる」
「うるせえ」
睨むと、男は降参するように手を上げた。
「じゃあ何で俺はここにいるんだ?」
それが一番大事なことだった。
仮に俺がそのレイとやらだったとして、なぜ今の俺は地球で普通の男として生きていて、しかもこんな場所でこんな話を聞かされているのか。
男はさっきまでより少しだけ真面目な顔になった。
「まずは順を追って説明する」
「最初からそうしろよ」
「してるしてる」
全然そうは見えないが、今は黙って聞くしかない。
男はテーブルに肘をつかず、指を組んだ。
「お前は過去、レイとしての生涯を生きた」
白い空間の中で、その言葉だけが妙にはっきり響いた。
「お前は王になった。嫁は二人。子にも孫にも恵まれて、優れた子孫たちに囲まれて生涯を閉じた」
俺は何も言えなかった。
自分の書いた物語の結末と、ほとんど同じだったからだ。
俺の小説では、レイは戦い抜いて王になり、最後は家族に見守られながら静かに逝く。王として多くを残し、国を盤石にし、次代へ託して死ぬ。
あまりにも都合のいい、綺麗な終わりだと思っていた。
「お前の小説だと、女神に頼まれて王を目指したってことになってるよな」
「ああ」
「あれは本当だ」
「……本当?」
「本当に、女神的な存在に頼まれて王を目指してる」
俺は頭を抱えたくなった。
ファンタジーの中でも、特にご都合主義だと自分で思っていた部分だ。異世界に来た主人公が女神に使命を与えられる。正直テンプレだし、半分は分かりやすさのために置いた設定だった。
それが本当?
何なんだよもう。
男はそんな俺を見ながら続ける。
「そのころ、あの世界では上位存在同士の覇権争いがあった」
「上位存在……神様同士の争いってことか」
「まあ、そう思ってくれていい。神だの精霊王だの星の管理者だの、呼び方は色々あるが、人間から見れば全部似たようなもんだ」
「雑だな」
「人間から見たら十分雑な相手だろ、あいつら」
それもそうかもしれない。
男は少しだけ目を細めた。
「で、お前に関わったその女神は、力を得るためにお前を利用した」
「……利用」
「上位存在の覇権は、ざっくり言えば信仰心の総量で決まる。どれだけ多くの生き物から信じられ、祈られ、依存されるか。それが力になる」
俺は無意識に唇を噛んだ。
嫌な話だ。
「お前は王になったあと、教会を手厚く保護した」
その一言で、ぞくりとした。
俺の小説のレイは、確かに教会を保護していた。民の心の支えとして必要だったし、政の安定にも役立つ。表向きはそういう理由で描いていた。
「王が保護すれば、教会は伸びる。教会が伸びれば、信仰が集まる。信仰が集まれば、その女神の力になる」
男の声は淡々としていた。
「結果として、女神は覇権を握った」
「俺は……」
言葉が詰まった。
駒だったのか、と、聞く前から分かっていた。けれど聞かずにはいられなかった。
「俺は、駒だったのか?」
男は一瞬も迷わず答えた。
「そうだ」
あまりにもあっさりしていて、逆に胸に刺さった。
否定も慰めもない。
利用された。使われた。ただそれだけ。
俺は視線を落とし、冷めないコーヒーの表面を見つめた。揺れていない。白い世界では風もなく、液面は鏡みたいに静かだった。その中に映る自分の顔は、やけに情けなく見えた。
男はそこで少しだけ声音を変えた。
「ただし、そこで終わってりゃまだよかった」
「……何がだよ」
「女神はそのあと、自分の地位を盤石にするために、やってはいけないことに手を染めた」
俺は顔を上げる。
男の表情はもう、さっきみたいな軽さをほとんど残していなかった。
「大規模な争いを起こさせたんだ」
「戦争を?」
「それも含む。国家同士、種族同士、宗派同士。火種をばら撒いて、信仰をより濃く、より強く、より狂信的にさせた。人は不安と恐怖の中で強く祈るからな」
寒気がした。
「それが見つかって、上の存在にあいつは罰せられた」
「上の存在って、お前さっき言ってた……もっと上の連中か」
「そう。覇権争いをしてる連中すら裁く側のやつらだ」
規模がでかすぎて頭が痛くなる。
だが男は止まらない。
「で、その時だ。問題は」
男は俺をまっすぐ見た。
「お前はそのころ、もう別の人間に転生していた」
「……え?」
「レイとして死んだあと、別の人生を始めてた」
俺は息を止めた。
一つひとつならまだ理解できないこともない。いや本当は全然理解できていないが、物語の設定としてなら飲み込める。
けれど、それが全部自分のことだと言われると、急に重みが違った。
「その転生先で、お前は女神の失脚に巻き込まれた」
「巻き込まれたって……どう」
男は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「化け物に変化させられた」
背筋に氷を流し込まれたような感覚が走った。
「は……?」
「女神の力が崩れた反動で、加護や因果で強く結びついてた人間に歪みが出た。お前はその中でも特に酷かった。人の形も理性も保てなくなるような変質だ」
喉がひどく渇いた。
さっきまで美味かったコーヒーが、急に胃の奥で重くなる。
「その時、魂が剥がれた」
「魂が……剥がれた?」
「そう。肉体と因果から切り離されて、こっちの世界に落ちてきた」
俺は言葉を失った。
落ちてきた。
こっちの世界に。
それが地球という意味だと理解するまで、少し時間がかかった。
「待てよ……じゃあ、今の俺は」
「元々向こうの世界で王やって、その後また別の人生を送って、そこから剥がれ落ちて地球に来た魂だ」
男はそこで少しだけ肩をすくめる。
「ややこしいだろ」
「ややこしいで済むかよ……」
めまいがした。
普通の男として生きてきた人生が、急に借り物みたいに言われている。いや、借り物ですらないのかもしれない。断片。漂流物。何かの残りかす。
俺が俺だと思ってきた全部が揺らぐ感覚だった。
男はそんな俺に追い打ちをかけるように言った。
「お前の魂は特異だった」
「特異?」
「普通なら、そんなふうに剥がれて別世界に落ちても、そのまま消えるか、壊れるか、せいぜい曖昧な記憶のノイズを抱えたまま短命に終わる」
「……俺は違ったと」
「違った。形を保った。しかも、中身が濃すぎた」
その言い方が妙に気持ち悪くて、俺は顔をしかめた。
男は気にせず続ける。
「だから世界はお前を抑圧した」
「抑圧……」
「ありきたりな男として育つように、徹底的にな」
その一言で、不意に心当たりのようなものが胸をかすめた。
何かが足りないような感覚。
本気を出していないとか、才能が眠っているとか、そんな安い話じゃない。ただ、自分の人生を生きているはずなのに、どこか薄い膜一枚隔てて世界を見ているような感覚が、時々あった。
別に不幸ではない。だが、しっくり来ているわけでもない。
それを俺は、よくある漠然とした閉塞感だと思っていた。誰でも抱えるものだと。
「平凡な家庭、平凡な学歴、極端でも最低でもない会社、そこそこの恋愛、突出しない人生」
男は指を折りながら並べていく。
「バランスが良すぎると思わなかったか?」
「……」
「潰れない程度に満たされて、暴れ出さない程度に退屈。お前が深く目覚めないように、世界がちょうどよく蓋をしてたんだ」
反論したかった。
そんなの後付けだ、と。
だが、できなかった。
俺の人生は確かに、幸でも不幸でもなく、妙に整いすぎていた。壊れるほどの絶望もなければ、何かに賭けるほどの熱狂もない。小説とバイクがなければ、たぶん本当に何の波もないまま流されていた。
「あの小説を書き終えたのが、引き金だ」
男が静かに言う。
俺は目を瞬かせた。
「書き終えたことで、お前は自分自身の履歴をほとんどなぞり切った。抑圧の綻びが一気に広がった」
「だから事故が起きたって言うのか」
「事故っていうより、排除だな」
ぞっとした。
男は淡々と、けれど残酷なくらい平坦に言い切った。
「世界は、お前を排除した」
白い世界が、さっきまでより静かに感じられた。
いや、元から静かだったのだろう。ただ今になって、その静けさがやけに重くのしかかってきた。
男は最後に、確認するようにもう一度言った。
「お前は抑圧が解けそうになった。だから世界がお前を消した」
そこで言葉を切る。
そして、まるで結論を読み上げるみたいに告げた。
「……と言うわけだ」
俺はすぐには何も言えなかった。
コーヒーの湯気だけが、白い空間の中で細く揺れている。
自分の手を見る。
見慣れた、自分の手だ。
バイクに乗って、キーボードを叩いて、コンビニの袋を提げて帰る、そんな普通の男の手にしか見えない。
けれど男の話が本当なら、この手の奥には、王だった男の魂と、化け物になった何者かの残骸と、世界に押さえつけられていた特異なものが眠っていたことになる。
そんなの、笑うしかないだろ。
なのに、笑えなかった。
喉の奥からようやく絞り出せたのは、ひどく乾いた声だけだった。
「……ふざけんなよ」
それが誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。




