第一話。
俺は至って普通の男だった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
特別に頭が良いわけでもなく、運動が飛び抜けてできるわけでもない。誰かに自慢できるような経歴もなければ、人生を賭けて追いかけた夢があるわけでもない。普通に学校を出て、普通に就職して、普通に働いてきた。
勤め先は、世間で言うところのホワイト企業でもブラック企業でもない会社だった。残業はそこそこある。だが毎日終電というほどではない。上司は面倒な人もいれば、話の分かる人もいる。給料は贅沢できるほどではないが、家賃と生活費を払って、趣味に少し使って、たまに飲みに行けるくらいにはもらえていた。
だからまあ、悪くない人生だったと思う。
良くも悪くも、平凡。
恋愛だってそうだ。学生時代にも社会人になってからも、それなりに人を好きになったし、付き合ったこともある。だが、どれも長くは続かなかった。
俺に決定的な欠点があったのか、それとも単純に縁がなかったのかは分からない。大喧嘩をして別れた相手もいれば、なんとなくすれ違って終わった相手もいる。今になって振り返れば、たぶん俺は誰かと一緒にいることより、自分の好きなことに没頭する時間の方を、知らないうちに大事にしていたのかもしれない。
そんな俺の趣味は二つあった。
バイクと、小説を書くことだ。
バイクは速さを競うより、走ることそのものが好きだった。信号の少ない道を流して、風を切って、季節の匂いを感じながら景色が移り変わっていくのを眺めるのが好きだった。春先の冷たい空気も、夏のむっとする熱気も、秋の乾いた風も、それぞれ悪くない。冬だけはさすがにきついが、それでも晴れた日の朝にエンジンをかける瞬間は気分が上がる。
もう一つの趣味である小説は、もっと地味だった。
部屋の机に向かって、ひたすらキーボードを叩く。頭の中に浮かんだ場面を、会話を、街の景色を、戦いを、感情を、なんとか言葉にしていく。うまく書ける日もあれば、何時間考えても一行しか進まない日もある。自分で読み返して、案外悪くないと思う日もあれば、なんだこれと頭を抱える日もあった。
投稿サイトにも出していた。
反応は、まあ、ぼちぼちだ。
読者がまったくいないわけではない。感想がつくこともあるし、たまに「続きが楽しみです」なんて言われると、その一言だけで一週間くらい頑張れたりした。けれど、ランキングに載るようなことはなかったし、大きく話題になることもなかった。ヒット作を書いた、なんて胸を張れるようなものではない。
それでも、書くのは好きだった。
誰に評価されるかとは別に、書きたいものを書く時間が好きだった。自分の頭の中にしかなかった世界が、文章として形になっていく感覚が好きだった。
だから、続けていた。
仕事から帰ってきてから少しずつ。休みの日はまとめて。書いて、直して、また書いて。そんなことを繰り返して、気づけば一つの長編を書き続けていた。
ファンタジー小説だった。
地球から異世界に転移した青年が、最初は身一つで放り出され、冒険者として成り上がっていく。仲間を得て、敵を倒し、領地を持ち、最後には王へと至る。そういう、わりと真っ直ぐな成り上がり物語だ。
我ながら王道だと思う。
でも、俺はそういう話が好きだった。
何も持たない人間が、努力と出会いと少しの運で上に行く話。自分の手で居場所を作り、自分の名を刻み、自分の国を持つ話。現実ではまずありえないからこそ、物語の中でくらいは痛快であってほしかった。
タイトルは、一国一城の主を目指す!。
少し古臭い気もしたが、分かりやすくて気に入っていた。
その日曜日、俺はついにその物語を書き終えた。
最後の一文を打ち込み、句点を入れて、保存する。しばらく画面を見つめたまま、指が動かなかった。
終わった。
その実感がじわじわと広がってきて、遅れて胸の奥が熱くなる。
思えば長かった。書き始めたのがいつだったか、正確にはもう覚えていない。途中で何度も設定を作り直し、話が迷子になり、更新が止まり、もうやめようかと思ったこともあった。それでもなんだかんだ最後まで書き切った。
椅子にもたれ、ふうっと息を吐く。
達成感というのは、案外静かなものだと思っていた。だがその時の俺は、妙に落ち着かなかった。胸がふわふわして、じっとしていられない。部屋の中を意味もなく歩き回りたくなるような、何かしなければもったいないような、そんな高揚感があった。
窓の外を見る。
空はよく晴れていた。
日曜の昼下がり。絶好のツーリング日和だ。
「……行くか」
誰に聞かせるでもなく呟いて、俺は立ち上がった。
着替えて、鍵を持って、ヘルメットを抱える。玄関を出る足取りがいつもより軽い。エレベーターで一階に降り、駐輪場で愛車の前に立つ。何年も付き合ってきたバイクだ。最新型でも高級車でもないが、俺には十分すぎる相棒だった。
タンクを軽く叩く。
「付き合えよ」
当然、返事はない。
だが、こういう儀式めいたことをしたくなるくらいには機嫌が良かった。
エンジンをかけると、いつもの振動と音が体に伝わってくる。その瞬間、頭の中のもやもやが一気に晴れる感じがした。ヘルメットをかぶり、グローブをはめ、ゆっくりと走り出す。
街中を抜けて、郊外へ出る。
休日の道路はそこそこ混んでいたが、苛立つほどではない。信号待ちの間に空を見上げると、雲が高くて、どこまでも走れそうな気分になった。コンビニで缶コーヒーを買って一息入れ、そのまま山の方へ向かう。
俺は山道を流すのが好きだった。
海沿いも嫌いじゃないが、山には山の良さがある。木々の匂い、日陰に入った時のひんやりした空気、カーブを抜けるたびに変わる景色。舗装された道の向こうに、深い緑が続いていくのを見ると、日常から少しだけ切り離された気分になれる。
峠道に入る頃には、交通量もだいぶ減っていた。
俺は飛ばす方ではない。景色を楽しみたいし、何より怖い。自分の腕を過信して攻めるほど若くもなければ、上手くもない。だから無理のない速度で、リズムよくカーブをつないでいく。
エンジン音が心地いい。
木漏れ日がアスファルトにまだらな影を落とす。
気分は最高だった。
小説を書き終えた達成感と、休日の解放感と、好きな道を走っている満足感が全部混ざって、妙に世界が輝いて見えた。こんな日があるから、面倒な平日も乗り切れるんだろうなと、そんなことまで思った。
次の休みは何を書こうか。
番外編でもいいし、まったく新しい話でもいい。次は現代ものも悪くないかもしれない。いや、やっぱりファンタジーかな。そんなことを考えながら、緩い下りのカーブに入る。
その時だった。
ふいに、違和感が走った。
「あれ……?」
ハンドルが、重い。
いや、重いというより、効きが変だ。
ほんの少し切った感覚と、バイクの向きが噛み合わない。路面にタイヤが吸いついていないような、妙にふわつくような感触。心臓が一気に冷えた。
まずい。
そう思った瞬間、前輪がぶれる。
「うわっ……!」
反射的に立て直そうとした。だが、ハンドルは言うことをきかない。車体が嫌な角度で揺れ、タイヤが舗装をこする音が耳に刺さる。ブレーキ、いや下手に握るな、落ち着け、落ち着けと頭では分かっているのに、体が追いつかない。
次の瞬間、視界の端にガードレールが迫っていた。
ぶつかる。
そう思った時にはもう遅かった。
激しい衝撃。鈍い音。体が浮く感覚。
ガードレールに弾かれたのか、それとも隙間に吸い込まれたのか、自分でもよく分からなかった。ただ、世界が一度ひっくり返って、空と木々と道がぐるぐると入れ替わった。
崖下だった。
「っ……!」
声にならない声が喉を裂く。
落ちている。
そう理解した時には、何もできなかった。手を伸ばしても掴むものはなく、体はただ重力に従って落ちていく。枝が折れる音がした。背中か肩か、どこかがぶつかった。痛みがあった気もするし、なかった気もする。
時間の感覚が妙に伸びた。
嫌なくらい冷静な自分がいた。
ああ、死んだな。
そんな風に思った。
もっと取り乱すのかと思っていた。人生の走馬灯だとか、家族の顔だとか、そういうものが頭をよぎるのかと思っていた。けれど実際には、驚くほどあっさりした感想しか出てこなかった。
死んだな。
それだけだった。
それからどうなったのか、よく覚えていない。
激突したのか、それともその前に意識が飛んだのか。痛みがあったのか、悲鳴を上げたのかも曖昧だ。ただ、次に気づいた時、俺は立っていた。
白い世界の中に。
上も下も、右も左も、白かった。
眩しいわけではない。目が痛くなるような白さではなく、ただ何もない空間が果てしなく広がっている。地面らしきものの上に立っている感覚はあるのに、その地面すら白に溶けて輪郭が分からない。風もない。音もない。温度すら感じない。
現実感のない場所だった。
夢かと思った。
だが、夢にしては意識がはっきりしている。自分が何者で、何をしていて、どうなったのか、その記憶はちゃんとあった。バイクで山道を走っていて、ハンドルが効かなくなって、崖から落ちた。
そこで、俺はようやく前を見た。
一人の男が立っていた。
年齢はよく分からない。若く見えなくもないし、妙に老成して見えなくもない。整った顔立ちをしているが、神々しいとか威厳があるとか、そういう感じではなかった。むしろ拍子抜けするくらい軽い空気をまとっている。友達の友達くらいの距離感で、コンビニの前でばったり会ったみたいな気楽さで、そいつはそこにいた。
服装もどこか曖昧だった。スーツにも見えるし、ラフな格好にも見える。見るたび印象が少しずつずれるような、不思議な存在感だった。
男は片手を軽く上げた。
そして、まるで仕事帰りの同僚にでも声をかけるような調子で言った。
「お疲れさん」
俺はしばらく何も言えなかった。
喉がひりつくような感覚があるのに、声が出ない。頭の中がうまく回らない。この状況が意味不明すぎて、驚くことすら追いつかない。
男の方は、そんな俺の反応を特に気にした様子もなく、肩をすくめて笑った。
「まあ、そうなるよな」
軽い。
とにかく軽い。
死後の世界っぽい場所で、訳の分からない男に第一声がお疲れさん。どう考えてもおかしい。もっとこう、あるだろう。厳かさとか、神秘性とか、そういうのが。
俺が呆然としていると、男は少しだけ首を傾げた。
「聞きたいこと、山ほどあるって顔してるな」
「……ここ、どこだよ」
ようやく出た声は、自分でも驚くほどかすれていた。
男は「ああ」と小さく頷く。
「そこからだよな。順番としては」
「夢……じゃ、ないのか」
「夢じゃない」
即答だった。
俺は唇を引き結ぶ。否定が早すぎて、逆に現実味がない。だが、夢だと思い込むには感覚が鮮明すぎた。自分の体の重さも、足裏の接地感も、喉の渇きもある。
だからこそ、聞きたくない答えに近づいている気がした。
男はそんな俺を見て、少しだけ困ったように笑った。
その笑い方まで軽かった。
「で、結論から言うとな」
一拍置いて、男はあっさりと言った。
「お前は死んだ」
その言葉は、妙にすんなり頭に入った。
否定したい気持ちはあった。そんなはずないと叫びたい気持ちも、たぶん少しはあった。けれど、崖から落ちたあの感覚を思い出してしまうと、反論のしようがない。
やっぱりそうか、と。
どこかで納得してしまう自分がいた。
男は続ける。
「正確に言うと、ただ死んだってのとも少し違うんだけどな」
「……は?」
俺が眉をひそめると、男は指先でこめかみをかいた。
「そこがちょっとややこしい。事故で死んだのは事実。でも、それだけじゃない」
意味が分からない。
死んだのに、それだけじゃないとはどういうことだ。
問いただそうと口を開きかけた俺に、男は先に言った。
「お前は死んだ。で、その上で」
そこで男は、軽い調子のまま、けれどはっきりと告げた。
「世界から弾かれたんだ」




